18・横穴ダンジョン
ある朝、美容室のダンジョンが横穴式になっていた。
ダンジョンというのは気まぐれに形を変えるものだが、こんなに思い切った変化は初めてだ。地下へ伸びていたものが横向きになってしまったのだ。当然階段もなくなるし、フロアの境目も曖昧になる。
「えーと、ここが散髪フロアで、こっちがカラーリング……違った、ここはトイレだったわ」
マアトは店内を歩き回り、倒れた棚やワゴンを直していった。変なところで曲がったり折り返したりしているので、散策するのも一苦労だ。そして、シャンプー台がどこにも見当たらない。
「まったくもう、不便ね」
文句を言っても、相手はダンジョンなのだから仕方ない。うっかり機嫌を損ね、もっとひどい形に変わられては困る。とはいえ、シャンプー台がないともっと困ることになるだろう。
しばらくすると、清掃員のタイガと水野がやってきて、同じように文句を言った。
「調子狂うな。階段の上り下りがないと、ダンジョンに来た気がしないよ」
「ホントそうだよね。一旦全部壊しちゃおうか」
その時、奥のほうから物音がした。まだ客は来ていないはずなのに、人の気配がする。そしてかすかに、水が流れるような音もした。
「水野さん、まさか」
「まだ何もしてないよ」
「とにかく行ってみよう」
ダンジョンが形を変える時、混乱に乗じて泥棒が入ったり、モンスターが大量発生することもあるという。マアトは散乱した整髪料のボトルを片付け、奥へ向かった。タイガと水野も掃除をしながらついてくる。
道幅は広くなったり狭くなったり、天井の高さも一定ではない。かがんでくぐり抜けなければならない場所もある。せっかく髪を綺麗にセットしても、これではすぐに台無しだ。
「思い切って引っ越しもありだと思うけどな」
「嫌よ、出費がかさむもの」
そんなことを言っているうちに、隣のダンジョンまで来てしまった。
隣はコインランドリーのダンジョンで、大きな緑色のヒヨコが経営している。仕事が雑な上、洗濯物に羽毛が紛れ込んでいたりするので苦情が絶えないらしい。
その日もヒヨコは洗濯をしていた。男物のスーツと女性の下着、それに子供の制服を洗面器に押し込み、ごしごしと洗っている。
「あーっ!」
マアトは叫んだ。それは洗面器ではなく、マアトのシャンプー台だった。ヒヨコはずんぐりとした背を向けたまま、何も聞こえていないかのように洗い続ける。
「ちょっと、それ返してよ」
ヒヨコは答えない。ぴいぴいと耳障りな歌を口ずさみ、レースのキャミソールを泡立てている。お世辞にも上手とはいえない、芋を洗うような手つきだ。
「返してってば、あたしのシャンプー台」
「あ?」
ヒヨコは振り向いた。思ったより目つきが悪く、くちばしの上には深い傷がある。マアトはぐっと息を飲み、圧倒されそうになるのをこらえた。
「ひどい洗い方ね」
「なんだと! 人の店に勝手に突っ込んでおいて」
「だって汚れが落ちてないじゃない」
マアトはわざと強い口調で言いながら、タイガに目配せをした。タイガはうなずき、シャンプー台の下に潜り込み、ドライバーでネジを外し始めた。
「お前、何してる!」
ヒヨコは洗濯物を投げ捨て、くちばしを突き出してタイガに襲いかかる。その隙を狙い、水野がシャンプー台に手をかざした。
「し、しまった!」
ヒヨコは水野の襟首を足でつかんだが、遅かった。シャンプー台が激しく揺れ、鉄砲のように水が噴き出したかと思うと、天井に穴をあけてしまった。
「あああ……俺の店が、俺の店が!」
ヒヨコはこぼれた水の上をばたばたと走り回った。そうしているうちに体がひと回り、ふた回りと縮み、輪郭が崩れていく。顔の傷も消え、目尻も下がってしまった。
「あら? なんだかいい香りが」
ヒヨコから緑の液体が溶け出し、足元に泡が広がり出す。マアトはかがみ、指先で触れてみた。ぬるっとして、こするとさらに泡立ち、爽やかな香りがする。
「これ、よもぎエキスのシャンプーだわ! 買うと高いの」
「集めよう!」
タイガがT字型のスクイジーで緑の液体を寄せ集めた。マアトはそれをペットボトルですくい取る。
「やめろ、バカども!」
ヒヨコは襲ってこようとしたが、水野がシャンプー台を傾けた途端、滝のようなシャワーが降り注いだ。シャワーを浴びると本物のヒヨコサイズに、そして豆粒サイズになり、あっという間に溶けて消えてしまった。
「うるさい石鹸だったわね」
そうこうしているうちにペットボトルが一杯になった。しかしシャワーは止まらない。足首まで水が上がってきて、まるで大型台風の後のようだ。
「水野さん、もういいわよ」
「え?」
「もういいから止めて!」
水野はシャンプー台のふちに座り、ローブに降りかかる泡を飛ばして遊んでいる。
やばい、とタイガが言った。
「これ、多分止まらない」
「何よそれ!」
シャンプー台が壁から外れ、ごろんと落ちた。ネジが弾け飛び、壁にあいた穴から水があふれ出す。泡を飲み込み、津波のような勢いでマアトたちのほうへ押し寄せてきた。
「逃げるぞ」
タイガはスクイジーで泡をかき分け、マアトはペットボトルを抱きしめて走った。階段がないので、高いところへ逃げることができない。走っても走っても、波の影が冷たく迫ってくる。
「ああ、もうダメ!」
背中にひたりと手を触れられたような感覚の後、頭の上から波が降ってきた。マアトは目を閉じ、体の力を抜いた。波が全身を包み、押し流していく。
まぶたの裏に、緑色の光がいくつも見えた。翼のある魚たちが泳いでいく。羽ばたいて水をかき、くちばしから泡を出して泳ぐ。羽の模様はうろこのようにも見えた。ここはきっと昔、彼らのすみかだったのだ。
流れに身を任せ、マアトは運ばれていった。不思議なことに、少しも苦しくなかった。途中からは目を開けて、水に沈んだ鏡やドライヤーを見ていた。水中で見ると、横穴式の店もなかなか悪くないと思えた。
急に目の前が明るくなったかと思うと、店の外へ弾き出された。入り口からは水が流れ続けている。横を見ると、タイガはずぶ濡れで息を切らしていた。
「お……溺れるかと思った……」
そうね、とマアトは言い、服を乾かすふりをした。タイガは自分の服をしぼるのに夢中で、マアトが濡れていないことに気づいていなかった。
マアトはペットボトルを太陽にかざした。緑色に光る液体が、小さな海のように揺れている。誰にもわからない言葉で語りかけているようだ。
「はい! 取り返したよ!」
店の入り口からシャンプー台が転がり出てきて、こぽこぽと泡を吹いた。いつの間にか水野がそばに立っている。
「どこでも好きなところに付け直せるよ。良かったね」
良くないだろ、とタイガが髪の水滴を振り払いながら言った。
「いつ止まるんだよ、このウォータースライダーは」
「さあ」
「おい、ゆとり」
「止まるまで隣を借りればいいんじゃない? 店主溶けちゃったし」
美容室の入り口から目線を右にずらすと、コインランドリーの看板があった。店主とは似ても似つかない、可愛らしい小鳥の絵が描かれている。ガラスの扉も綺麗に磨いてあり、覗いてみるとこれまた美しい花模様の床から階段が続いている。
「そうね。こっちは普通の縦向きダンジョンだし」
「マアトまで」
ペットボトルの中で、緑色のものがぴょこんと跳ねた。一緒に仕事をしよう、と言われたような気がして、マアトは微笑み返した。
「ありがとう。最後の一滴まで大切に使うわ」
解釈って便利だね、と水野がつぶやいた。
 




