15・カワウソを預かる
美容室のダンジョンで、カワウソを預かることになってしまった。それも普通のカワウソではない。二本足で立って歩き、人一倍よく食べ、生意気な口をきくカワウソだ。
「まあまあな住処だな。魚はないのか。この煎餅は味が濃すぎるぞ。麦茶ぐらい出すのが礼儀じゃないのか」
すぐにでも店の外につまみ出したいところだが、預かってしまった以上、飼い主が戻るまで待つしかない。それにしても可愛げがないわ、と思いながらマアトはコップに麦茶を注ぐ。
そこへ、客がやってきた。一週間前に予約の電話をくれた、ゆみかという女性だ。ここへ来るのは二回目で、ずっと楽しみにしていたという。
「こんにちは、マアトさん。久しぶり」
「ゆみかさん、ごめんなさい。こんなカワウソがいるんですけど」
「あら、可愛い」
ゆみかはカワウソに手を伸ばす。カワウソは髭で軽く振り払い、茶を飲み続ける。背中を撫でようとすると、今度は尻尾で振り払う。
「反射神経がいいのね」
「これくらいできなくてどうする。だから人間はいつまでもスプーンで空が飛べないんだ」
めちゃくちゃな理屈だわ、とマアトは思う。しかしゆみかは気を悪くした様子もなく、椅子に座ってカタログを開く。
「だいぶ伸びちゃったし、思い切って短くしようかしら」
「いいですね。まずはバレッタを取りましょう」
ゆみかのバレッタはワンピースと同じべっこう色で、魚の形をしている。
「蒲焼きだ!」
カワウソがコップを放り出し、ゆみかの髪に飛びついた。
「ちょっと、お客様に何するの」
マアトはカワウソを引きはがそうとしたが、バレッタにしがみついて離れない。ゆみかは笑い、食べられないのよ、と言った。
「魚なのに食えないのか」
「そうよカワウソさん。歯が砕けちゃうわ」
「俺は煎餅も噛み砕けるんだが」
「お煎餅よりもずっと固いの。欲しいならあげるけど」
カワウソはバレッタに鼻を近づけ、つまらなそうに顔をそむけた。
「で、どんな髪型にするんだ」
「カワウソさんが切ってくれるの?」
「二度は言わない」
カワウソは電動シェーバーのスイッチを入れ、ゆみかの頭に当てようとした。マアトは慌てて止め、ハサミを渡した。
「俺が切るのか?」
「あっ。え、えーと」
「よし。お前は床を掃いてくれ」
カワウソはゆみかの肩に腰かけ、水かきの手で器用にハサミを握った。そして次の瞬間、ざくりと髪を切り落としていた。
「きゃー!」
マアトは悲鳴を上げ、駆け寄った。肩より長かった髪が、耳の高さまで切られている。
「何てことするのよ! お客様に確かめもしないで!」
「短くするって言ってただろ。ほら、床」
ゆみかは笑い、軽くなったわ、と言う。マアトは唖然として床を見つめた。
「こ……こんなに切っちゃって」
「ちょうど良かったわ。迷う必要がなくなったもの」
「ごめんなさい」
「いいのいいの。それより、カワウソさんに踏み台を持ってきてあげて」
マアトは養毛フロアへ下りていき、脚立を持ってきた。いざとなれば、柿エキスの養毛剤がいくらでもある。そう思うと少し気が楽になった。
カワウソは脚立に飛び移り、髪を切り続けた。思ったよりも丁寧で、全体をバランス良く切っている。前髪はあまり切らずに横へ流し、襟足は大胆に梳いていく。
なかなか上手だと認めざるを得なかった。
「おい、床」
「はいはい」
マアトは床を掃き続ける。カワウソはゆみかと楽しそうに話していた。
「あーあ。何かもっといい仕事ないかしら」
「水かきダンサーズなんてどうだ。毎年鮭がとれる時期に、川の神に踊りを捧げる仕事だ」
「川の神ってあなたじゃないの?」
「よくわかったな。踊りだけでなく大根おろしと白米もあると尚良い」
そんな会話が続き、カワウソは脚立からぴょんと飛び降りた。散髪が終わったらしい。近づいて見てみると、ところどころに毛や足形がついているものの、綺麗な形に仕上がっている。シンプルな前下がりのショートだが、後頭部はふんわりとして女性らしい。
「ゆみかさん、とってもお似合いです」
「カワウソさんが上手だったから」
その時、マアトのエプロンの裾を誰かが引っ張った。もちろんカワウソだ。両手を突き出し、マアトを見上げている。
「報酬」
「え?」
「バイト代だ。働いたんだから当たり前だろう」
カワウソはフンと鼻を鳴らす。勝手に髪を切った上に金を取るなんて、悪徳にも程がある。マアトはポケットから小銭を出して、ぶっきらぼうに差し出した。
「足りないな。物色させてもらう」
「あっ、ちょっと待ちなさいよ!」
カワウソはフロアを素早く駆け回り、棚に頭を突っ込み、尻尾で探り、海苔の佃煮の瓶を見つけ出した。
「あるじゃないか」
「それは買ったばっかりの……!」
カワウソは瓶を背中に担ぎ、さっさと階段を上っていってしまった。嵐が去ったわ、とマアトは思いかけ、はっと顔を上げた。
「いけない! 飼い主が戻るまで預かってなくちゃ!」
「大丈夫、まだすぐそこにいるわよ」
ゆみかが先に走り出し、マアトも急いで階段を上った。ダンジョンの外に出てみたが、カワウソの姿はどこにもない。日が沈みかけ、買い物帰りの主婦や親子連れがゆったりと行き交っている。
「飼い主って、どんな人だったの?」
「えーと……女の子。髪を二つに結わえて、気の強そうな顔で」
「もしかして、あのコじゃない?」
ゆみかが見ている方向には、人一倍大きな袋を抱えて歩く少女がいた。スーパーの特売品を全て買ったのだろう。魚のパックやらほうれん草の葉やらが袋の口から飛び出している。
間違えようがない。この飼い主にしてあのカワウソあり、というほどの強欲ぶりだ。
マアトは走っていき、少女に声をかけた。しかし、少女は破れそうな袋ばかりを気にして、素通りして行ってしまった。ゆみかが大胆にも腕を引っ張り、立ち止まらせた。
「あのね、この髪、あなたのカワウソさんが切ってくれたんだけど」
「私のカワウソ?」
少女はきょとんとしている。思ったよりもきつい性格ではなさそうだ。マアトは勇気を出して近づいていった。
「ごめんなさい。ほんのさっきまでいたんですけど、あたしのミスで逃げられちゃって」
「川に帰ったんじゃない?」
「えっ。だって、あなたのペットでしょ?」
少女はまばたきを繰り返し、笑い出した。
「私のじゃないわ。近所に住んでる野生のカワウソよ」
「じゃあどうして」
「買い物に行こうとしたらついてきちゃったの。あんな欲張りなカワウソ連れていけないでしょ? そしたら通り道にお店があって」
少女は悪びれもせずに言う。マアトは頭が沸騰しそうになった。美容室を何だと思っているのだろう。
「良かった。私、ラッキーだったのね」
ゆみかが短くなった髪を指先で撫でながら言った。マアトは声を出しかけ、飲み込んだ。確かに良い出来だ。夕日に当ててみると、透け具合もちょうどいい。
それにしても、とまた文句を言おうとしたところに、少女が瓶を二つ差し出した。
「高級ししゃもキクラゲの佃煮、三つセットだったの。よかったらどうぞ」
マアトとゆみかは瓶を受け取った。ずっしりと重い。つやつやとしたキクラゲに、ししゃもの卵がまんべんなくまぶしてある。
「すごい! これめったに売ってないのよ」
ゆみかは目を輝かせて言った。
「マアトさん、私たち本当にラッキーだったわね!」
「えっ……ええ……」
礼を言う暇もなく、少女は急ぎ足で行ってしまった。袋の端にはもう穴があいている。欲張りなのか太っ腹なのかわからない。
「ゆみかさん、ばたばたしちゃってすみません」
「ううん。とっても楽しかったわ」
マアトは手を伸ばし、ゆみかの頭についていたカワウソの毛を取った。夕日に照らされ、まるで金の糸くずのように見えた。
本当にラッキーだわ、とゆみかは噛みしめるように言った。




