13・風邪と悪霊
マアトは熱を出して寝込んでいた。風邪など滅多にひかないのだが、冷え込んだ夜に髪を乾かさないままテレビを見ていたのが良くなかったようだ。これくらい大丈夫、と思って出勤したものの、階段を下りたところで力尽きた。洗髪用の椅子をベッド代わりに、今日は寝て過ごすことにした。
「まったく、エレジー先生はどこに行ったのよ」
こういう時しか役に立たないくせに、と思ったが、こういう時ですら役に立つかどうかわからない。一人で寝ているほうがきっと安全だ。
毛布代わりのタオルにくるまり、あちこち痛む体を持て余していると、ふっと上から影が差した。黒い髪に穏やかな目をした男が、いつの間にかそばに立っていた。
「タフさん!」
マアトは起き上がろうとして咳き込んだ。タフはマアトの腕をそっと押さえ、寝ててください、と言った。
マアトは入り口の看板を「開店中」にしたままだったことを思い出した。
「ごめんなさい。今日は……」
「わかってます。だから来たんです」
タフは肩掛け鞄から音叉のような銀の棒を出すと、フロアの天井や床、そして最後にマアトに向け、うなずいた。
「このダンジョンには悪霊がいます」
「えっ」
「そうに決まってます。風邪でこんなに熱が出るなんておかしいでしょう」
ゴーストハンターのタフは、前回もそんなことを言って壁のシミを退治していた。エレジー先生といい勝負だわ、とマアトは呆れる。
「あのね、風邪で熱が出るのは当たり前……」
マアトはまた咳き込んだ。反論の言葉も、今日はうまく出てこない。タフははっと体の向きを変え、この下にいます、と叫んだ。そして階段を下りていき、一人の男を引きずって戻ってきた。
「こいつです! こいつが悪の元凶です」
「え。水野さん?」
今日はタイガが休みなので、水野が掃除に来てくれていた。しかしモップが少しも汚れていないところを見ると、ろくに仕事をしていないようだ。
「僕は悪霊じゃなくて水の精霊だよ」
「同じです。さっさとこのダンジョンから出ていきなさい! さもなければトイレに流しますよ」
ちょっと、とマアトは口を挟んだ。別に水野は友達ではないが、そこまで言われて黙っているわけにはいかない。
「水野さんは悪霊なんかじゃないわ」
「悪霊ですよ。今、下の階で堂々と寝転がってさぼっていました」
「それは仕事ができないだけでしょ」
水野は二人の言い合いが聞こえていないのか、黙って掃除に戻っていった。そして案の定、モップをワゴンにぶつけてひっくり返し、ムースとワックスのボトルを割ってしまった。
「恐ろしい……! こんな災厄を起こすなんて、最強クラスの悪霊ですね」
「まあ、そういえばそうね」
ここはいっそ、水野が悪霊だろうが何だろうが、タフに任せてしまおう。そうすれば、マアトはどちらにも構わず眠ることができる。
「ゴーストライターさん、そこどいてくれない?」
水野は悪気のない声で言った。タフはさっと向き直る。
「僕はゴーストハンターです」
「どっちでもいいけどどいてよ」
「立ち去るのはあなたです。悪霊のくせに図々しすぎますよ!」
「でも、そこにガラスの欠片がいっぱい」
タフの悲鳴が響き渡り、また何かが割れるような音がした。マアトはタオルにくるまって眠ろうとしたが、二人はいつまでも言い争っている。尖った破片が飛んできて、マアトの後頭部に当たった。
「もう、うるさいわね!」
飛び起きると、タフと水野は櫛やハサミを投げつけ合って戦っていた。マアトは大きく咳払いをし、いい加減にして、と言った。
「用がないなら帰ってちょうだい。ここは美容室、髪を切るところよ」
さぞ文句を言われるだろうと思ったが、二人は物を投げるのをやめた。
「それもそうですね」
「じゃあ髪を切ろう」
「いいんですか? じゃ、お願いします」
タフは散髪用の椅子に座り、水野はハサミや霧吹きを用意する。そんなつもりじゃ、とマアトは言いかけたが、せっかく大人しくなってくれたのだ。勝手に切らせておくことにした。
「誰のゴーストライターやってるの?」
「ゴーストハンターですってば」
「目立たないように、地味めな髪型にしておくね」
「だから違いますってば」
噛み合ない会話だが、ハサミの音は軽快だ。甘い香りの風が吹き、虹色の霧に包まれ、マアトはうとうととし始めた。
小さなオバケが頭の上を漂っている。ピンク、白、水色、薄緑、藤色、レモンイエローの、丸い吹き出しのような形をしたオバケたちだ。
おいしいね、おいしいね、とオバケたちはささやき合う。熱、おいしいね。風邪、おいしいね。動けない人、おいしいね。
オバケが一匹、マアトの額をかすめていく。また一匹、また一匹触れて飛んでいく。
「あなたたちが悪霊なの?」
オバケたちは笑うだけで、何も答えなかった。動きを目で追っているうちに、視界がぼやけてくる。
「できたよー」
水野の声で、マアトは起き上がった。オバケの笑い声が、いつの間にかタフの笑い声になっていた。
「見てくださいよ、マアトさん」
タフの頭は、虹色のイソギンチャクのようになっていた。あちこち結び、飾りもつけてある。髪の色に合わせて、ピンク、白、水色、薄緑、藤色、レモンイエローのオバケが、フェルトで丁寧に作られていた。
「ゴーストライターだから、目立たないほうがいいって言ったんだけど」
「僕はゴーストライターじゃありません、思いっきり目立つ髪型にしてくださいって頼んだんです」
マアトは笑った。まるで、倒したオバケを頭にくくりつけているようだ。ゴーストハンターとして、これ以上目立つアピールはないだろう。
「そのまま帰るの?」
「仕方ないでしょう。言った通りの髪型にしてもらったんですから」
タフはそう言ったが、何度も鏡に映しているところを見ると、気に入ったようだ。それもそのはず、水野の作ったオバケたちはマシュマロのように滑らかな形で、この上なく可愛かった。
二人に気づかれないように、マアトはため息をつく。フェルト手芸は子供の頃から大好きだった。でも自分が作ったら、タフはこんなに喜ばなかったかもしれない。
「相変わらず上手ね、水野さん」
「えっ。あれ、マアトが作ったんじゃないの?」
水野はくるりとハサミを回してポケットにしまい、モップに持ち替えた。床に散っている虹色の髪を、さっさと壁際に押しやる。
「マアトが寝てるほうから飛んできたんだよ」
「えっ……」
帰る支度をしているタフのほうを見る。気づいていない。よく見ると、オバケたちは時々動いたりあくびをしたりしている。それなのに気づいていない。
「それじゃ、お世話様です。マアトさん、お大事にしてくださいね!」
タフは虹色の髪を弾ませ、オバケたちを弾ませ、帰っていった。
マアトは伸びをして、首を左右に動かした。体がだいぶ楽になっている。
変わった人だね、と水野が言った。
「ゴーストライターなのに、世に出て目立ちたいなんてさ」




