12・クレンザー大魔神
エレジー先生がこぼした薬は、ダンジョンの床に染みついて取れなくなってしまった。さわると体からお菓子が生えてくる、ありがた迷惑な効果つきだ。先生は中和剤を持ってくると言い、ダンジョンを出て行った。そのまま一週間戻らない。
「もう、待ってられないわ」
マアトは友達のタイガを呼んで、掃除をしてもらうことにした。タイガは掃除ギルドで働いているので、店では売っていない強力な洗剤も持っているのだ。
「これがいいと思うんだ」
タイガが出してきたのは、クレンザーと書かれた大きな缶だった。黒いパッケージに銀のロゴがついた、昔ながらの洗剤だ。
「どこがすごいの?」
「あっ、気をつけて」
受け取ってみると、缶は見た目以上に重かった。マアトは手を滑らせ、勢いよく落としてしまった。
「ああっ!」
蓋が取れ、中身がこぼれた。煤のように真っ黒な粉だ。色も質感もクレンザーとは思えない。
マアトは箒とちりとりで片付けようとした。その途端、黒く積もった粉がごそごそと動き、起き上がった。二本足で立ち、上背はマアトを追い越して伸び、形を帯びていく。まるで巨人のようだ。
「クレンザー大魔神だ!」
タイガが叫んだ。
その時にはもう、おぼろげな姿ではなくなっていた。青白い顔に、絡まった蔓のような黒い髪、その間から覗く瞳は鋭く光っている。黒い毛皮をまとった、悪鬼のような男が立っていた。
ダンジョンだらけの町とはいえ、こんなに大きな魔物は滅多にいない。マアトは震え上がった。
「だ……大魔神?」
「やだあ、クロちゃんって呼んでよ」
その声に、マアトは脱力した。鬼どころか、サラリーマンが宴会芸をしているような声だ。タイガはため息をつき、何で出てきたんだよ、と言った。
「ずっと缶の中なんてつまらないもん」
「お前はクレンザーだろ。缶の中にいるものなんだよ」
どうやら、あまり怖くはなさそうだ。マアトは恐る恐る近づき、クロさん、と言った。
「あなたは……モンスターなの?」
「違うよ。ボクはクレンザーの精霊」
「精霊? じゃあ、水野さんやロージアさんの仲間なのね」
「うーん。水の精霊は乱暴だから、ボク苦手なんだよ」
クロはそう言って、散髪用の椅子に座った。
「髪を切ってくれるんだよね?」
「えっ。でもあなたはクレンザー……」
「ここは美容室でしょ? 髪を切ってくれるんだよね?」
鏡に映ったクロの目は、優しいけれどやはり怖い。マアトは黙ってうなずき、毛皮の上からこわごわとビニールのケープをかぶせた。人間用のケープでは膝から下がはみ出してしまうが、大した問題ではないだろう。
マアトは踏み台の上に乗り、クロの髪にハサミを当てた。しかし、どんなに力を入れても切れない。髪の一本一本が針金のように固く、まったく歯が立たないのだ。
「貸して。俺がやるよ」
タイガがペンチを持ってきた。クロは小さく叫び、身をよじる。椅子が大きく軋んだので、マアトは横から押さえつけた。
やだやだ、とクロは言った。
「乱暴なのは嫌だってば!」
「こうするしかないんだよ……うわ、固っ」
ばちん、ばちんとものすごい音を立てて、タイガはクロの髪を切っていく。クロはしばらくすると慣れたようで、もっと短く、ふわふわした感じに、などと注文をつけた。
「無理。ふわふわは無理」
「タイガったら、そんなふうに言うもんじゃないわ」
マアトは柔軟剤と潤滑油、それにシール剥がしを持ってきて、クロの頭に塗ってみた。しかし、若干つやが出ただけで柔らかくはならなかった。
「精霊っていうのは、特別なものじゃないんだ。ダンジョンがあって、人間がいて、モンスターがいて、そこから生えてくるキノコみたいなものだよ」
髪を切られながら、クロは話してくれた。タイガは興味深そうに聞いている。
「キノコか。じゃあ、自然に発生するってこと?」
「そうそう。乾燥シイタケみたいな精霊もいるけど、生まれたてのオチバタケみたいな精霊もいる」
「あ、俺も乾燥シイタケ好き!」
「そうそう。歯ごたえがいいんだよね」
かみ合っているのかいないのかわからない会話だ。
そうは言っても、水野の説明よりは納得できた。何しろ水野は『精霊は精霊、とにかく精霊』しか言わないし、図書館の本を見ても同じようなことしか書かれていないのだ。
クロの髪の毛は、床に落ちると砕けて粉になった。
「なるほど。これで掃除ができるってわけね」
マアトはバケツに水をくみ、黒い粉の上にちょろちょろとかけた。粉はすぐに泡立ち始め、すずらんのように爽やかな香りが漂う。デッキブラシでこすろうとすると、クロが突然悲鳴を上げた。
「あ、あ、あ、あ、あああああああー!」
椅子の上で、クロが体を二つ折りにして震えている。髪をとかしていたタイガは、驚いて熊手を落としてしまった。熊手でとかしていたこと自体が驚きだったが、それどころではない。マアトは駆け寄った。
「クロさん? クロさん、どうしたの?」
「み、み、水は……水は苦手だって言ったのにー!」
クロの体は大きくねじれ、顔が溶け始める。苦しげな表情を見る暇もなかった。やがて全身が黒い泡になり、床にこぼれ落ちる。ぱちんと弾ける音が、おどけたような、寂しいような、短い余韻を残した。
「ふう……何だったのかしら」
マアトは再びブラシを手に取り、泡になったクロをごしごしこすった。タイガがひえっと声を上げる。
「そんなことしたら、もう元に戻らないんじゃ……」
「困るの?」
「困りはしないけど、でも」
マアトはクロを床の隅々まで伸ばし、丁寧に磨いていった。さらに上から水をまき、ゴム製のスクイージーで仕上げをする。床はぴかぴかになり、フロア中が良い香りに包まれた。
「ごめんね、たくさん使っちゃって」
ほとんど空になったクレンザーの缶を、マアトはタイガに返した。タイガは複雑な表情で受け取り、それはいいんだけど、と言った。
「何だかなあ。さっきまでここにいて、話してたのに」
「クロさんは精霊でしょ。他の缶からひょっこり出てきたりするんじゃないの?」
「そ、そうかな」
「それに、クレンザーはこうして使うものよ。あたしは効率重視なんです」
クロの嬉しそうな顔が、ふと頭をよぎった。精霊とは何なのか、もっと話を聞きたかったような気もする。
「でも、そんなことばっかり言ってたらきりがないのよ。仕事だからね」
後日、水野が掃除に来た時に、クロから聞いた話を伝えてみた。精霊はキノコのように自然発生するんだってね、と言うと、水野は笑顔で首をかしげた。
「ごめん。全然意味わからない」




