11・エレジー先生と猫フィギュア
エレジー先生は美容室のダンジョンが気に入ったらしく、居着いてしまった。マアトが家に帰っている間も店内に寝泊まりし、モンスターの体液をしぼって薬を調合したり、訪れる人を勝手に診察したりしている。
「ああいう手合いは放っておくのが一番だよ。人の言うことなんて聞いてないし、聞いたとしても都合よく解釈するだけだからね」
水野は言う。とても説得力のある言葉だとマアトは思った。何しろ、水野自身がそういう人格だからだ。
水野はエレジー先生のこぼした薬品をモップで拭き、さっさと帰っていった。といっても、適当に伸ばして床に染み込ませただけのように見えた。入れ替わりに、客がやってきた。以前も来たことのある、ふわふわの猫だ。
「あっ、まるまりさん」
「お久しぶりです。毛が少し伸びちゃったので、また切ってもらえるかしら」
マアトは嬉しくなった。前にまるまりの毛をアレンジした時は、お世辞にも良い出来とはいえなかったが、それでもまた来てくれたのだ。
「さあ、入って。あたし、あれから猫の毛の切り方も勉強したんだから」
「あ、あの、実は」
まるまりは奥にいるエレジー先生をちらっと見て、そわそわと前足を動かしながら言った。
「あの人にやってもらいたいんだけど」
「えっ。エレジー先生に?」
「はい。前から噂を聞いてて」
まるまりはエレジー先生のところへ走っていき、ちょこんと座った。ところが、エレジー先生は構いもせず、薬を調合している。そしてまた、下手な歌を歌っている。
「凍ってしまったー、何もかもー、船もモグラもセメントもー、凍ったからには砕く! 砕く! あとかたもなくー!」
「素敵な歌ですね」
エレジー先生は歌うのをやめた。まるまりがいることに、初めて気がついたようだ。そしておそらく、生まれて初めて歌を褒められたに違いない。
「うん、まあ、大した歌じゃないよ。普通だね」
居心地の悪そうなエレジー先生を見て、マアトは可笑しくなった。
まるまりは濃い色の目を輝かせ、エレジー先生を見上げる。
「あのー、猫フィギュアってご存知ですか?」
「知ってるよ。猫耳少女の人形を作ってる変態のことだね」
「違います」
まるまりが言うには、最近、猫たちの間でフィギュアスケートが流行っているらしい。氷の上に直立し、前足を真横に開き、後ろ足を片方ずつ上げ、鳴き声に合わせて滑るというものだ。マアトは感心し、見せてほしいと言った。
まるまりは体を起こし、後ろ足だけで立った。それだけでも曲芸として成り立つレベルだが、さらに前足をぴんと横に広げる。そこまでは良かったが、後ろ足を上げようとするとふらつき、腹ばいに倒れてしまう。
「毛が重くて、うまくバランスがとれないの」
「それで短くしたいのね」
それなら、ただ切るだけでは寂しい。てっぺんをカールさせたり、編み込みを入れたりすると華やかになる。アイデアはいくらでもあったが、今日の担当は自分ではない。
マアトは仕方なく箒とちりとりを持ち、フロアを掃いて回った。さりげなく、いや露骨に、エレジー先生の仕事を監視するためだ。
まるまりは椅子に座り、エレジー先生に話しかけている。
「人間のフィギュアスケートはダイナミックな技が多くて、特に男子なんて四回転ジャンプを複数跳んだりするじゃないですか。先生はどう思います?」
猫とは思えないほどの早口だ。余程スケートが好きらしい。エレジー先生は無表情でハサミを磨いていたが、急にカッと目を見開いた。
「スケートというのはトータルパッケージだよ。滑りながら血糖値を調節したり、ジャンプを跳びながらブロッコリーを茹でる技術がないとね」
「そんな選手見たことないですけど」
「それじゃ、真のスケーターとはいえない。氷の上に転がってるコケシと同じだよ」
マアトは呆れ、エレジー先生をたしなめようと近づいていった。しかし、まるまりは気を悪くした様子もなく、ふんふんと聞いている。人間のスポーツを馬鹿にされても、猫にとっては痛くもかゆくもないらしい。
問題は、エレジー先生の手がまったく動いていないことだ。
「先生、切るんならちゃんと切ってください」
「慌てるとろくな結果にならないよ。例えばここに、とてつもなく大きな海老シュウマイがあったとして」
マアトが睨みつけると、エレジー先生はようやくまるまりの毛にハサミを当てた。耳の後ろから切り始め、そこから急に背中、そして足先、首まわりの順に切っていく。
「ほら、これでバランスが良くなった」
「そうでしょうか」
「大丈夫、エレジーが言うんだから間違いない」
まるまりは椅子から降り、後ろ足で立った。前足を広げ、ゆっくりと息を吸う。
「にゃー! にゃー!」
声に合わせて、左右の足を交互に上げる。背中が真っすぐ伸び、少しもふらつかない。十回繰り返しても、五十回繰り返してもついに転ばなかった。
「先生! マアトさん! 私、やりました……」
まるまりの声がしぼんでいった。鏡に映る姿は、ふさふさの毛があちこちむしり取られ、中途半端に雑草取りをした庭のようだ。
右足はほぼ丸裸なのに左足はまだら模様、後頭部には大きなドーナツ型のハゲができてしまった。
「猫フィギュアには……芸術点も……必要なのよ……」
まるまりは鏡の前に座り込んだ。うつろな目の中で、瞳孔が開き切っている。マアトはエレジー先生に軽く蹴りを入れ、ハサミを奪い取った。
「大丈夫! あたしが何とか……何とか」
そうは言っても、切ってしまった毛を元に戻すのは無理だ。全身を覆うような衣装を縫ってあげたらどうか。いや、それではまたバランスが取れなくなってしまう。
「もういいんです! 私が猫フィギュアに出るなんて、百年早いってことです!」
「待って、まるまりさん!」
まるまりはマアトの足元をすり抜け、走っていこうとした。しかし、階段にたどり着く前に滑って転び、ボールが跳ね返るように戻ってきた。毛がないのでよく滑るのだ。
「だっ、大丈夫?」
「うーん……なんだかいいにおいが」
まるまりは体を伸ばし、起き上がった。なんと、両耳がショートケーキになっている。マアトは仰天した。後頭部のハゲは本物のドーナツになっているし、背中には羽根のようなリーフパイが生えている。足の裏を見ると、肉球が全て茶まんじゅうになっていた。
「あー、エレジーがこぼしたグレートスイーツメディカルメーカーだ」
「グレート……何ですって?」
「子供は薬が苦手でしょ。飲んだらお菓子が生えてくるようにしたんだ。ちょっと見せられないようなモンスターのエキスを使ってはいるけど、七割ぐらいは安全だよ」
「何よそれ!」
水野の適当な掃除のせいで、フロア全体に薬の成分が染み渡っていたのだ。毛の少なくなったまるまりの体に、見事に効いてしまったというわけだ。
「まるまりさん、早くこっちへ! シャンプーで洗い流して」
「素敵」
まるまりは鏡を見つめ、つぶやいた。ゆっくりと立ち上がり、くるりと回って全身を映し、片足を上げてポーズを決めたり、背中を反らせたりしている。
「これ、素敵だわ」
「えっ」
「バランスも取りやすいし、とっても可愛いわ。それに、『猫とまんじゅう』のプログラムにぴったり!」
そんなプログラムは聞いたことがないが、まるまりは大喜びだ。エレジー先生は当たり前のようにうなずき、そうだろうね、と言う。
「スケートというのはトータルパッケージだからね。まんじゅう一箱分くらいの」
「はい。頑張ります!」
まるまりは甘いクリームとあんこの香りを漂わせ、優雅に一礼をして帰っていった。後ろ足で立って前足を広げ、にゃー、にゃー、と声を上げながら遠ざかっていくのを、マアトは複雑な気分で見送った。
「先生、あれって……日持ちするの?」
「大丈夫。添加物てんこ盛りだから」
医者の言うこととは思えないわ、とマアトは呆れる。
そして明日からしばらくは、ダンジョン内でうっかり転べない。身体中からケーキやまんじゅうが生えてきたらどうだろう。きっと食べずにいられない。
太るよ、とエレジー先生は言った。なぜか今度は、医者の言葉として心に刺さった。




