10・エレジー先生とミカン
マアトの美容室に、エレジー先生がやってきた。
エレジー先生は別の町でクリニックを開業しているが、今日は特別に往診してくれるというのだ。
「あたし、往診なんて頼んでないけど」
「うん。頼まれなくても来るから」
エレジー先生は散髪用の椅子に座り、勝手に荷物を広げてしまった。荷物といっても薬品の入った瓶がいくつかと、注射器とタブレット端末しかない。
「あいにくだけど、ここに病気の人はいないわ」
「そのうち来るよ。エレジーが言うんだから間違いない」
しばらくすると、ミカンちゃんがやってきた。ミカンちゃんは八百屋の娘だ。八百屋のダンジョンはすぐ近くの商店街にあるが、野菜に混じってモンスターが並んでいたり、普通の野菜もなぜか噛み付いてきたりするので、マアトはあまり利用していない。
「困ったことになりました」
ミカンちゃんは言った。なぜ困っているのかは一目でわかった。ミカンちゃんの長い髪のそこかしこに、ナスやトマトが鈴なりになっている。とても小さくてアクセサリーのようだが、本物の野菜だ。
「あ……これは、寄生野菜です。昨日仕入れた箱の中に混じってたみたいで」
「寄生野菜? 初めて聞くわ」
マアトは恐る恐る、ミカンちゃんの髪をひと束つかんで持ち上げた。インゲン、カブ、ニンジン、ミョウガ、どれもしっかり絡みつき、取れそうにない。
気をつけて、とミカンちゃんが言った。
「あんまり触るとうつるって、お父さんが」
マアトはさっと手を引っ込めた。これでは髪を切ることができない。根元から切り落としてしまうか、バリカンで剃ってしまうかどちらかだろう。
ミカンちゃんはいつになく顔色が悪い。野菜たちに栄養をとられているのだ。
「寄生野菜は栄養をとったりしないよ。感染力も弱いから大丈夫」
エレジー先生が、ミカンちゃんの髪をろくに見もせず言った。そしてそのまま、何もしようとしない。ちょっと、とマアトは叫んだ。
「あなた医者でしょ? 何のためにいるのよ」
「エレジーはエレジーのためにいるんだよ。そういう簡単なことを見失うから、人はいつまでたってもハネジネズミに進化できないし、稲妻から卵焼きを抽出することもできない」
「ごたく並べてないで、何とかしなさいよ」
二人の間で、ミカンちゃんは心配そうに様子をうかがっていた。エレジー先生は今さら気がついたように椅子を空け、どうぞ座って、と言った。
ミカンちゃんは水玉のスカートをふわりとさせ、椅子に腰かけた。
「肩のあたりがハネてしまうので、もうちょっと短くしたいんです」
「えっ」
「どんなふうでもいいんですけど、切ってもらえますか?」
エレジー先生はぽかんと口を開けている。どうやら、寄生野菜の話はとっくに終わっていたらしい。そして、とにかく早く髪を切ってほしいらしい。
マアトはかごを持ってきて、ミカンちゃんの髪から野菜をもいでいった。今にも感染して、爪の先から野菜が生えてくるのではないかと心配だったが、そんなことにはならなかった。
野菜はどれもピーナッツほどの大きさだが、隙間なくびっしり付いている。全部取り終わると、かごが一杯になった。
これで散髪ができる、と思って向き直ると、エレジー先生がすでにハサミを持ち、ミカンちゃんの髪を梳かし始めていた。
「ちょっと、勝手に……!」
「大丈夫大丈夫。医者と床屋はもともと同業だったんだから」
ミカンちゃんは嫌がる様子もなく、大人しく鏡の前に座っている。エレジー先生には、なぜかそうさせてしまう雰囲気と眼光があった。
「顔色が悪いね。ちゃんと寝てる?」
「このところ、仕事が忙しくて……」
「ふーん。じゃあ歌でも歌うといいよ」
「歌はあんまり知らないんです。お経なら知ってます」
ミカンちゃんはさっそく般若心経を読み、エレジー先生は下手な歌を歌った。あまりにうるさいので、マアトは野菜を持って上の階へ行った。
野菜はどれも新鮮で、洗うと水をよく弾いた。触って大丈夫なら、食べてももちろん大丈夫だろう。トマトとレタスとキュウリをボウルに盛りつけ、マヨネーズをかけた。豆のサラダにしか見えないが、量は十分だ。
散髪フロアへ戻ると、ミカンちゃんはまだお経を読んでいて、エレジー先生は歌っていた。肝心の髪は、ようやく肩のあたりまで切ったところだ。
「先生。ちょっと」
「あなたもわたしもしあわせになれるおまじないーそれはピザ! ラザニア! クエン酸! まぎれもなくー!」
「先生。歌うか切るかどっちかにしてください」
エレジー先生は歌うのをやめた。ミカンちゃんのお経とハサミの音だけがフロアに響いている。マアトはほっと息をついた。
しかし、散髪はあまりはかどらない。てっきり水野のように派手で豪快な切り方をするのかと思っていたが、いたって慎重で普通だ。いや、普通以下だった。ミカンちゃんの髪をほんの少し指でつまんでは、直線的にチョキチョキと切り落とす。
「これでもうハネませんか?」
ミカンちゃんは言った。あくまで髪のハネだけが悩みの種だったらしい。エレジー先生はうなずく。
「ハネは不安や苛立ちから来るものだよ。まずは自信をつけることだね。得意なことからでいいんだけど」
「私はお経が得意です」
「うん。それはさっき聞いた」
結局、ミカンちゃんの髪は何の変哲もないおかっぱに落ち着いた。せめてもう少し毛先を軽くして、とマアトは思ったが、本人が満足しているので何も言わないことにした。
「ああ、すっきりした。忙しくてしばらく散髪もできなかったので」
いつの間にか、顔色も良くなっている。お経が良かったのか、エレジー先生の歌が良かったのか、髪型が本当に気に入ったのか、マアトにはわからなかった。
ボウルに盛りつけたサラダを、三人で食べた。レタスはシャキシャキと歯ごたえがあり、トマトは桃のように甘く、キュウリは最高にみずみずしい。はずなのだが、どれも豆サイズなので想像で補うしかなかった。
「寄生野菜って、一体どこから来るの?」
「さあ。私もさっぱりわからないんです。でも困ってないんですよ。八百屋にいると当たり前のことなので」
ミカンちゃんは、自分の髪から採れた野菜をおいしそうに食べた。放っておくと大きく育つこともあるという。
「育ててみようか迷ってるんですけど」
「やめたほうがいいよ」
エレジー先生はさらりと言った。どうせ新種のホニャホニャ菌に感染しやすいとか、スチャラカ病の原因になるとか、いい加減なことを言うのだろうと思えば、そうではなかった。
「ずっとぶら下げてると首や肩が凝るから」
確かに、としか言いようがなかった。
ミカンちゃんは帰り際に、甘いミカンの見分けかたを教えてくれた。皮の上から指でハート型を描くと、私は甘いですよ、と声が聞こえてくるというのだ。
それは常識だね、とエレジー先生は言ったが、絶対に嘘だとマアトは思った。ミカンちゃんのおかっぱ頭が風に揺れ、綺麗にむいたミカンの皮のような形になっていた。
「うん、いいスタイルだ。考えに考えを重ねた甲斐があった」
それも絶対に嘘だった。




