14、過去
――俺と彼女の出会いは、委員会活動が一緒だったことから始まった。
高校入学直後、風邪で学校を休み、三日ぶりに登校した俺に担任が伝えてきたのは、「春日君、図書委員だからね。早速で悪いけど今日の放課後図書室に行ってね」だった。
ふざけるなと思った。委員長の座を押し付けなかっただけでも有難いでしょ、みたいな空気も同時に漂わせていたからだ。
不請ながら放課後図書室に向かう。最初に簡単な自己紹介。そこで初めて彼女の姿を見たわけだが、この時は特に何も思うものはなかった。
一目惚れするほど美人というわけでもなく、むしろ地味な印象だった。本が好きだから図書委員になったんだろうなーなどと漠然と考えたのを今でも覚えている。
初めて話したのはそれから数週間後のこと。隣町で閉館した図書館の本が大量に寄贈されることになったのだが、その仕分け作業に駆り出された時だった。
この時の俺は、ホームルームが長引いて遅れたせいで仕分けのやり方を聞いておらず、司書の先生も不在。同じクラスのもう一人の図書委員はこの日学校を欠席。周りは話したことのない人ばかり。
点呼を取ったのかどうかすらも知らないので、正直、このまま帰っても問題ないような気もしたのだが、なんとなく罪の意識にさいなまれ一人居座ることに。
その時話しかけてきてくれたのが彼女だった。
「えっと、もしかしてやり方わからないの?」
素直にうなずいた俺に、加古は一つ一つ説明していってくれた。
俺と同じように、何をしていいのかわからなそうな人のところに行っては、説明したりそのまま作業を手伝ったり……。
大人しそうな人だが、その割りに積極的に自分から声をかけて周りをフォローしている。そのくせ、口下手だったりドジ踏んで積み上げた本を倒したり、天然だったりおっちょこちょいだったり……。
なんか危なっかしい人だな、それが彼女と間近で触れてみて感じた印象だった。
数日後、昼休みに図書室に行くと、彼女がいた。軽く会釈して通り過ぎようとしたところ、俺が手に持っていた本を見るや向こうから話しかけてきた。どうやら彼女が好きな作家の本だったらしく、身内かよというくらい懸命にその本の良さについてアピールしてこられた。
ネタバレのせいで読む気が失せてしまったのだが、本人に悪気はなさそうだったので――未読だったことを伝えていなかったせいもあるのだが――コロコロ変わる彼女の表情を見ているのが面白かったので、別に怒る気になんてならなかった。
それからというもの、図書室で顔を合わせては挨拶したり会話したり、隣りに座っては一緒に黙々と本を読んだり……。
彼女に引かれるのに、それほど時間はかからなかった。
告白したのは夏休みに入る前。俺の方からだった。もしフラレてもしばらく顔を合わせなくて済むからとか、そんな打算的な考えからではなく、一ヶ月以上も会えなくなることが我慢ならなかったからだ。
俺の預かり知らぬところで彼女に恋人ができたらどうしようとか、あの時はそんなことばかり考えて悶々としていた気がする。
「あ……はい、じゃあ、その……、お願いします」
この返事をもらった瞬間から俺たちの関係性は変わった。
夏祭りや誕生日、体育祭や文化祭、クリスマスやお正月。
初々しくも確かな足取りでお互いの距離を詰め、そして一年の月日が流れた。
事の発端は八月中旬。まだ暑い夏の日の出来事。喫茶店に呼び出された俺は消沈した様子の彼女を見て、何かあったんだなと察した。いや、薄々感づいてはいた。一、二ヶ月ほど前から加古が浮かない顔をすることが増えていたからだ。
注文したコーヒーが届くまでお互いに無言だった。
やがて、彼女の口から切り出された言葉は、
「あのね、できちゃったみたいなの……」
何が? とは訊かなかった。
本来なら喜ばしいことのはずなのに、あまりにも稚拙で未熟、衝動的で無計画なもとに行われた俺との『行為』が、今の彼女から笑顔を奪う要因になってしまったのだった。
それっきり押し黙ってしまった彼女。俺もなんと声をかけてやればいいのかわからなかった。無責任にも産んでくれなどとは言えず、ただ時間だけが二人の間を過ぎていった。
結局、お互いの親に相談してからもう一度きちんと話し合える場を作ろう、ということでこの日は別れることになった。
今さらだが、先にうちの親に報告し、対応を決め、その後俺の口から彼女の両親に報告した方がまだ『幾分マシ』だったかもしれない。
というのも、俺が家に着いた直後、加古の父から電話がかかってきたのだ。電話口で平謝りする母の姿を見て、俺の顔から血の気が引いていった。
事情を説明し、俺と母はすぐに相原家へと向かうことになった。
まず玄関に入るなり頬っぺたをぶん殴られた。平手打ちではなく握り拳だ。だが、痛みなんて気にならないほど加古の父の剣幕に圧倒されてしまった。
散々怒鳴り散らされた後、母と二人で玄関の石畳に正座することを強要される。もちろん抵抗などできるわけもない。
俺だけが怒られるのであればいくらでも怒鳴ってくれて構わないのだが、その怒りを母にぶつけるのは本当にやめてほしかった。
なぜなら、再婚したのが五月。その二ヵ月後には父は事故で亡くなっているのだ。実質、この段階では母とは三ヶ月しか生活を共にしていない。そんな、この前まで赤の他人だった母に向かって、「どう落とし前つけるつもりだ!」とか「お前の教育がなっていないからこんなことになったんだろうが!」などと言われても、母としては理不尽で遣り切れない想いしか残らないだろう。俺も針のむしろだった。
無論、ここで我が家の事情など説明することに意味はない。言い訳するなと一喝されるだろうし、それが逆に火に油を注ぐことになるからだ。
何よりも俺が怖れていたのは、怒り狂う加古の父よりも、その横で一秒たりとも目を離さず俺を見ていた加古の母親だった。
青白く、冷気すら孕んでいるような瞳。それが、灼熱の火をともす加古の父親よりも高温に満ちているような気がして、心底身を焦がされるような想いだった。
結論など述べるまでもないが、俺たち二人は別れさせられた。加古も俺も転校までさせられるようなことはなかったが、代わりに二度と近づくな、二度と話しかけるなと、脅迫まがいの圧力をかけられた。
ここで加古との関係が途絶してしまったのだ。
出来てしまった子供も堕ろすことになったらしい。『らしい』というのは、それすらも聞かされていないからだ。二学期が始まり、彼女の姿を遠目に見て、お腹が大きくなっていかないことで俺は初めてそれを知ったのだ。
昔、本で読んだことがある。
中絶手術というのは、器具で胎児の頭を潰してから子宮から掻き出すのだという。妊娠何週目かにもよるだろうが、その時赤ちゃんは危険を察知して逃げようとするらしい。逃げ場のない羊水の中で……。真っ暗で何も見えなくても、五感はあって痛みも感じるのだという。
その時赤ちゃんはどんな気持ちだったのか。その時加古はどんな気持ちだったのか。そのことを考えるだけで、俺は苦しくて泣いて眠れなくて何度も吐いてしまった。
謝罪しようにも会うことはできない。メールを送ることも考えたが、こんなことメールで済ませられることでもない。待っていても向こうから連絡が来るわけでもない。
それ以前に、俺はどんな言葉をかけてやればいい。俺は人殺しだ。俺は愛する人の子供を見殺しにしたんだ。
この子は俺が育てます。高校辞めて働きます。加古には絶対苦労させません。なぜあの場でこれを言わなかったのか。喫茶店で加古に「できちゃったみたい」と言われた時、なぜ産んでくれと言わなかったのか。
簡単にそれを口にすることが無責任なことだと思ったからなのだが、加古は俺がそれを言わないことが逆に無責任なことだと思ってしまったのかもしれない。
深い愛情は、一転して容赦のない憎悪へと切り替わる。
二日前、笠原が俺に抱きついているところを目撃してしまった加古は、どんなことを思っただろうか。謝罪一つなく私の子供を見殺しにしたくせに、もう新しい女を見つけている。
引き金はそれだけで充分だ。昨日、【御免なさい】とメールを送ってきたのも、俺宛じゃなく、天国にいる子供に向けて発信したメッセージじゃなかったのか。
俺にそのことを思い出させて反省させ、死んで詫びさせるための最後の言葉。
「……………………」
まいったな……。そんなこと知っちゃったら、もう抵抗できないじゃないか……。
自己犠牲の精神でも悲劇のヒロイン気取りでもない。
それが俺に許された罪滅ぼしなら、俺はそれを受け入れるしかなさそうだった。




