サッコちゃん
朝ごはんの、牛乳をかけたコーンフレークをもそもそと食べていると、家のチャイムが鳴った。
母さんがげんかんのドアを開けると、セミの鳴き声が大きくなった。
「あら、あら!」
ドアを開けたままで母さんがぱたぱたと走ってきた。
「ユート、早くごはん食べて着がえなさい」
「え、どうしたの?」
「エダくんとトモキくんよ。遊びに行くんでしょ?」
思わず目をぱちくりさせた。
大急ぎでお皿の牛乳を飲みほして、パジャマからTシャツと短パンに着がえる。
「ごめん、お待たせ」
「いいって。で、どうする? 公園でも行く?」
「んー……、とりあえず自転車で走ってみようぜ」
カンカン照りの中を走る。あっというまにあせが背中をぬらした。
エダは野球をやってるだけあって、暑さなんて感じてないみたいにどんどん進んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってよ、エダ」
トモキははあはあしながら自転車をこいでいる。首があせでぬれているのが見える。
ぼくもちょっとつらい。息があがっているトモキに代わって、大声でエダを呼んだ。
「なんだよ、だらしねえなあ」
エダは文句を言いながらも、もどってきてくれた。
自転車をおりて、近くの建物の日かげに入る。Tシャツのえりをバタバタさせてすずむ。
「ぼくらはエダみたいにグラウンドを走り回ったりしてないんだからさ」
おでこを手のこうでぬぐいながら、トモキが口をとがらせた。
「ユートはスイミングしてるんだろ?」
「スクールのプールは建物の中だし、こんなに暑くないよ」
エダに言い返す。エダは「しかたねえなあ」と鼻を鳴らした。
「ところでこの建物、なんだ?」
エダの言葉に、ぼくとトモキは後ろをふり返った。
さびたシャッターが下りている。長い間使われてないみたいだ。看板もかかっていたけど、色はすっかりとあせてしまっていた。
「お店かな?」
ぼくたちはその建物を一周してみた。
「……ここから入れそうだな」
エダがボロボロの窓を指した。ガラスもすっかり外れている。
「危ないんじゃない? ねえ、トモキ……」
「面白そうだね」
ぼくは口をぽかんと開けた。トモキはこういうときにはエダのブレーキになってくれるはずだったのに。
「だろ?」とエダは得意げな顔だ。
「ただ、もうお昼だから、それぞれの家でごはんを食べてから、またここに集合でいいよね?」
トモキは細いうでににあわない、銀色の時計を見て言った。
「おう」
「わ、わかったよ」
あんまり乗り気はしなかったけど、こわがってると思われるのがイヤでそう答えた。
お昼にほうれんそうを乗っけたラーメンを食べる。
「これ持っていきなさい」と、母さんは氷をいっぱい入れた麦茶のすいとうをぼくにわたした。
重くなるからやだなって思ったけど、「ネッチューショーになったらどうするの」っていう母さんのことばに負けた。
「これも持っていく?」
母さんが出してくれたのは、小分けになったビスケット。
「うん!」
「おかしはどれだけでも持っていくのにねえ」
母さんはリュックにビスケットをつめこむぼくを見て笑った。
「エネルギー補給は大事なんだよ」
「はいはい」
水分補給も同じくらい大事にしなさいよ、と母さんはぼくのことばをまぜっかえした。
自転車を走らせていると、むこうから女の子が歩いてきた。年はぼくと同じくらい。学校にはいない子だけど、どこか知らない気がしないような――。
「ユートくん!」
その子がぼくを見て手をふる。近くまで行って自転車をゆっくり停めた。
「ひさしぶり!」
「えっと……」
確かに知ってるような気がするんだけど、だれだったか思い出せない。女の子は気を悪くしたふうもなく笑った。
「サッコだよ。遊びにきちゃった」
「サッコちゃん!?」
そうだ、サッコちゃんだ。帰ってきてるなんて思わなかった。
「いま、ユートくんちに行こうと思ってたんだ」
「そうだったんだ」
エダでもトモキでもなく、ぼくの家に来ようとしてくれてたっていうことが、なんだかすごくうれしい。
「これからエダとトモキと遊びにいくところだったんだ。サッコちゃんも来る?」
「うん!」
自転車をおしながら、サッコちゃんと並んで歩く。背はぼくと同じくらいで、にこにこ笑う顔は変わってない。海の近くに住んでるからかな、昔と比べてちょっと日焼けしたみたいだ。
女の子と二人でいるなんて、だれかに見られたらひやかされるかな。サッコちゃんに会えたうれしさと、そんな照れくささがぶつかり合う。
あのボロボロの建物の前に着くと、もうエダもトモキも来ていた。
「あれ、ユート、その子……」
「サッコちゃんだよ」
「エダ、トモくん、久しぶり」
ちょっとぽかんとした後に、二人は「サッコちゃん!?」とびっくりしてさけんだ。
中を探検する、というぼくたちの作戦を、サッコちゃんは「ふうん」と聞いていた。
「あ、でも、サッコちゃんがいるなら別のことがいいかな。服もよごれちゃうと思うし」
トモキのことばに、サッコちゃんの格好を見た。かたにリボンを結んだTシャツに、ひらひらの付いたデニムスカート。それとピンクのサンダル。確かにぼくたちが着ているみたいな、「よごれてもいい服」っていう感じじゃなさそうだ。
でもサッコちゃんは「だいじょうぶだよ」って首をふった。
「なんか楽しそうだし。サッコもいっしょに行く」
「なら、きまりだな」
エダがニッと笑った。
建物をぐるっと回って、割れた窓から中に入る。
うす暗くてむわっとしていた。
「うわ、ほこりまみれだ」
辺りを見わたしてみても、ここが何だったのかはわからない。灰色の固いゆかが広がっていて、そのあちこちからポールが生えている。ポールのいくつかには、円ばん型の何かが乗っている。
正面には、ぼくたちが入ってきたのと同じようなボロボロの窓があって、そこから外……、というか、となりの建物のカベが見える。
左のほうには、外からも見たさびたシャッター。右のほうには、大きなとびらと小さなとびらが並んでいる。
そして、カベに沿って、いろいろなものがごちゃっと置かれている。横だおしのたな、ぐしゃぐしゃの紙ぶくろ、なにかにかぶせられたビニールシート。
ぼくたちはまず、この部屋をぐるっと回ってみることにした。歩くとくっきりと足あとが残る。もしかしたらこのゆかは、元々は灰色じゃなかったのかもしれない。
ポールは赤茶色をしていて、うっかりさわると手に粉が付いた。鉄くさい。さびきった金属みたいだ。エダが思いっきりけったら折れちゃうんじゃないだろうか。
そこに乗っている円いものも観察した。おもての赤い皮は破れていて、中から黄色いスポンジが飛びだしている。
「イスみたいだね」
トモキがつぶやいた。
「イス? これがぜんぶ?」
サッコちゃんが部屋を見わたした。ずらりと並んだポールのそれぞれに、だれかが座っていたことがあったんだろうか。
カベに近づいてみると、空きカンとかタバコの吸いがらとかも落ちているのがわかった。
「やだあ、クモの巣」
サッコちゃんが大きく手をはらう。
「クモなんかでこわがるなよ。これだから女子は」
「こわいわけじゃないもん。さわりたくなかっただけ」
エダのいじわるにサッコちゃんはたくましく言い返した。
「け、けんかは止めようよ」
ぼくはなんとか二人をなだめようとしたけど、両方から「ふん」って言われただけだった。
ぐるぐるまきのカーペット、色あせてぐにゃぐにゃにゆがんだポスター。たおれた銀色の柱。割れて散らばったガラス。
絶対にさわりたくなんてないんだけど、なぜかこの部屋の様子にぼくの心は引かれた。だれからも忘れられたここを、ぼくが、ぼくたちが、発見したんだ。
その気持ちはほかの三人も同じみたいで、「うわあ」「きたないなあ」とは言っても、「早く出よう」とはだれも言わない。
結局、四人で部屋をぐるりと回り終えた。
「これからどうする?」
トモキがたずねる。その目は二つのとびらに向けられていた。「どうする?」っていうのは「どっちのとびらに先に入る?」っていう意味なんだろう。
「……あっ!」
とつぜんエダが大声を出した。
「いけね、わすれてた。これ、母ちゃんがみんなで食べなって」
リュックをごそごそして、タッパーを取り出すエダ。中には赤いものが入っていた。
「あ、ぼくもおやつ持ってきてるよ」
ビスケットがあったのを思い出す。
「じゃあ、ちょっと休もう」
赤いイスにエダがタッパーを置いて開ける。そのフタの上にぼくのビスケットを広げた。
エダが持ってきたのは、サイコロみたいに四角く切ったスイカだった。おばさんはつまようじも用意してくれていた。
ちょっとぬるくなっていたけど、シャクシャクしていて、あまくて水気がたっぷりでおいしかった。ビスケットに比べて、スイカはすごい早さで減っていく。
こんどおやつを持っていくときには、口の中がかわかないものにしよう。ぼくはこっそり決心した。
「サッコちゃん、きょうは何時に帰るの?」
トモキが聞く。サッコちゃんはちょっときまり悪そうに、えへへと笑った。
「何時でもだいじょうぶだよ。えっとね、サッコ、パパとママにはないしょで来ちゃったんだ」
そのことばにぼくたちは声も出ないほどおどろいた。それからいっせいに口を開く。
「サッコちゃんの家からここまでって、遠いんだよね?」
「家出でもしてきたのかよ?」
「家の人にはなんて言って出てきたの?」
サッコちゃんは「ちょっと待ってよ」と言いながらも、ぼくたちの質問に答えてくれた。
どうやらサッコちゃんは、おうちの人には本当になにも言わずに出てきたらしい。おこづかいを使って、電車に二時間くらい乗って。
「家出じゃないよ」とサッコちゃんはいっしょうけんめいに言った。
「向こうの家にいてもつまんないし、久しぶりに来てみたくなっただけだから」
ほんのちょっとだけ安心した。
「じゃあ、何時くらいに帰るの?」
ぼくが聞いてみると、サッコちゃんは困った顔をした。うつむいて、口をぎゅっと閉じてしまう。何か悪いことを言っちゃったのかな。はらはらしていると、やっとサッコちゃんは小さく言った。
「帰りの分のお金……、持ってくるの忘れちゃった……」
ぼくたちはもう一度、おどろきのあまりなんて言えばいいのかもわからなくなって、ぽかんと口を開けた。