ウサギとこども
「ユート」
父さんの声がして、部屋のドアが開いた。
「……なに?」
ぼくはかけ布団がわりのタオルケットにくるまったまま顔を上げた。
「……暑くないのか」
そういえば、クーラーもせんぷうきも付けていない。でも暑さなんてちっとも感じなかった。
ぼくが首をふると父さんは「……そうか」とだけ答えた。そうしてすぐに声を明るくする。
「いや、久しぶりにゲームでもしないか? きょうは父さんも休みだしな」
その気にはなれなかったけど、父さんがそう言うなら、って思って布団からはい出した。
父さんが大きな箱といっしょに部屋に入ってきた。
「母さんは買い物に行ってるそうだ。夕飯はなんだろうな」
明かりをつけて、クーラーのスイッチを入れる。ごうん、と風がふき出す音がした。
「この間、ユートとウサギの話をしたのを思い出してな」
箱は緑色だ。読めない外国の文字。野原にウサギがたくさんはねているイラスト。びくっとしたけど、ウサギはいかにも外国のアニメっていう感じで、陽気な目と口をしている。これならだいじょうぶ。そんなにこわくない。
父さんはボードをローテーブルに広げて、茶色と白のコマをバラバラとちりばめた。コマは全部ウサギの形をしていた。
ルールはおたがいにカードを引いてニンジンを集め、そのニンジンを使ってウサギをつかまえるというものだった。
「茶色いノウサギは一点、白いウサギは三点だからな」
父さんはそう言ってカードをめくった。
いいカードをいいタイミングで引くのが最大のコツ、っていう感じの運まかせのゲームだった。父さんはいつもならじっくり考えて遊ぶゲームが好きなのに。
ただ、今のぼくには、あまり考えずにカードをめくってニンジンをやり取りしていればいい、気楽なこのゲームがなんとなく合っていたみたいだ。
「……おまえも、大変だったよな」
ぽつりと父さんが口を開いた。どう答えればいいかわからず、あいまいにあいづちをうった。
「父さんも、昔はいろいろイタズラしたよ。カエルやバッタやダンゴムシなんかをつかまえてな」
「……そうなんだ」
「母さんにはだまっててくれな。いい顔しないだろうから」
「わかった」
それからぱし、ぱし、と固くて厚いカードをめくっていく。どうしてだか、三点の白いウサギはぼくのほうにばっかり集まった。
「ついてるなあ、ユート」
父さんがじょうだんめかして言う。
小さな木のコマにポチッとかかれた赤い目がこっちを見ているように思えてしかたなかった。
「そういえば、昔ウサギがいたって、言っただろ」
とつぜんのことばに「え?」って聞き返した。
「学校の飼育小屋。それでな、父さん思い出したんだよ」
「う、うん」
しいくごや。ウトさまがいる、飼育小屋。イヤなひびきだ。
父さんはぼくにかまわずに話し続ける。
「そのウサギな、死んじゃったんだよ。父さんが六年生……ちょうど、今のユートと同い年のときだな」
どうして父さんはいきなりそんな話をはじめたんだろう。ぼくはボードに目を落としていた。
「夏休みが終わってすぐだったかな。犬におそわれたって聞いて、見に行ってやろうと思ったんだ」
「……ウサギを?」
「ああ。ふつう見られないからな」
「こわくなかった?」
父さんは笑った。いつもの声じゃないみたいだった。
「そんなこと言ったら笑い者だ。死んだウサギにさわってきた、なんてじまんするやつがいたくらいなんだぞ」
もしも同じことが今あったとして、ぼくのクラスでもそんなふうになるんだろうか。ちょっと考えてみた。
さわるかどうかはわからないけど、やっぱりみんなして動かなくなったウサギを見に行きそうだ。ぼくもきっと、こわごわだけど見に行くんだろう。
「父さんも飼育小屋に走ったよ。父さんが行ったときにはもう、人だかりができていた」
「それで……、見たの?」
父さんもぼくも、ゲームの手はすっかり止まっていた。
「見たよ。飼育小屋の真ん中で、ちょっと見ただけじゃウサギだってわからないくらいにボロボロだった。……赤かったんだ」
「……赤かった?」
テーブルの上の、ウサギの赤い目が光ったように見えた。父さんはうなずいた。
「茶色い毛が、血で赤くなってたんだ。それで、すごくイヤなにおいがしたな。まだ暑かったからかな」
どんなにおいだったんだろう。動物園みたいなにおい。さびたかなあみの鉄くさいにおい。それとも。
父さんはふーっと息を長くはき出した。
「すぐに先生が来て、追いはらわれたよ。いや、今思えば、見るもんじゃないってわかるけどな。父さんも昔は、ばかなことをやったんだって話さ」
それから暗い空気を変えようとするかのように、「さ、次は父さんの番だったかな」とボードに手をのばす。
不自然に父さんの動きが止まった。
――そう、こどもはいつだってバカなコトをする――
ロボットみたいなぎこちない声。
「父さん?」
ぼくの呼びかけに答えて、父さんが顔を上げた。いや、ちがう。これは父さんじゃない。ヘンにのっぺりした表情をしていて、鼻を落ちつきなくヒクヒク動かして。そして、目が。目が真っ赤だ。白目も黒目もなくて、ひたすらに赤い。
父さんみたいななにかがくちびるを動かした。
「カナモリ、ユートくん。ネガイとムクイは、いかがだったかな」
口の動きと出てくる声が合っていない。前にテレビで見た腹話術の人形みたいだ。
このしゃべり方は、前にも聞いたことがある。
「ウ……、ウトさま……?」
「おぼえていたんだね。それなら、ヤクソクをやぶったのは、わざとだね」
ビクッとしてウトさまから目をそらした。
「キミのトモダチは、どうしているかな。エダ、トモキ、サッコちゃん」
ぼくはなにも言わなかったけど、ウトさまはゆっくりと続けた。
「ああ、エダくんはもうやきゅうができない。トモキくんはシリツのちゅうがくにあがれない。ユートくん、おめでとう。これからもキミたちさんにんは、いっしょにいられるようだね」
ぼくは首をふった。ぼくのせいで二人がそんなことになって、これまで通りに付き合っていけるわけがない。
「そしてサッコちゃん……、いや、タニグチ、サヤコちゃんは、おねがいをした。ワタシはかなえた」
「サッコちゃんはどこ? ウトさま、なにをしたの?」
ウトさまは父さんの目でじっとぼくを見た。
「ねえ、サッコちゃんのお願いって、なんだったの!?」
「……ガッコウにもイエにも、もどらずにすみますように」
なんてさびしい願いごとだろう。サッコちゃんの顔を思い出して胸が痛くなった。
ウトさまがそんなぼくをじっと見ている。
「ヒミツが、ヒミツでなくなった。サヤコちゃんにもムクイがいる」
「やめて!」
ウトさまは「しずかに」と告げるようにぼくの前に人差し指を立てた。それでもだまってなんかいられなかった。
「サッコちゃんは、なにも悪くないじゃないか! 言ったのはウトさまなのに、ひどいよ!」
「きいたのはキミだ。ワタシにヤクソクをやぶらせたのは、キミだ。サヤコちゃんはキミのせいでムクイをうける」
指が、ぼくに向けられる。ウトさまがぼくの心をぐさぐさとさす。
「キミたちはオロカだ。ワタシはそのオロカさに、フクシュウする」
ぼくはその声を聞いていた。口を開けばまただれかを不幸にしてしまいそうだった。
「キミたちはワタシをとじこめ、ドクをたべさせた。ワタシをころした。そしてソレを、おもしろがった。ワタシはキミたちにムクイをあたえるため、ウトさまになった」
わかってしまった。ウトさまの目的は、ぼくたちの願いをかなえることじゃない。ぼくたちが「だれにも言っちゃいけない」という約束を破るのを待って、「ムクイ」をすることだったんだ。
「キミたちはひとりのこらず、ヤクソクをやぶった。オロカなコトだ」
ちがう。サッコちゃんは、願いごとをだれにも言ってない。ぼくは口をつぐんだままぶんぶんと首を横にふった。
「オロカなトモダチをもつのもまた、オロカなコトだ」
見すかしたようにウトさまは言った。
ごうごうとクーラーが音を立てる。そのせいだろうか。とても寒い。
「やだよ……」
ウトさまはなにも答えない。ぼくの言葉は宙に消えた。
「ウトさま、止めて。みんなを元にもどしてよ。お願いだから……」
「キミのネガイはもうかなえた」
キンキンした声はそっけない。
「どうしてもというなら、キミのしっているなかでいちばんオロカでないこどもにたのんでみることだ」
あははははは。書かれた文字を読みあげるみたいだ。笑っているのに、笑っているように聞こえない。父さんの顔も、無表情でのっぺりしたままだ。
ははははははははははははははははは。
息つぎもしないでウトさまは笑い続けている。
やめて。父さんが、父さんが死んじゃう。
のどになにかがつめられたみたいに、ぼくも息ができなかった。声も出なかった。
とつぜん父さんの頭がバンッとテーブルの上にたおれた。広げていたボードの上のウサギのコマがはねた。
はははははははははははははは。
「父さん、父さん!」
ぼくは必死で父さんのかたをゆすった。ウトさまの声は止まない。父さんはぴくりとも動かずに、はははははははは、と言うだけだ。
どのくらい続いただろう。
電池が切れるみたいにその声も急に止んだ。でも父さんは動かないままだ。
どうしよう。
母さんはまだ帰ってきていないみたいだ。不安が黒いけむりみたいにふくらむ。
ぼくはオロカなこどもだったんだ。オロカでないこどもを探さなきゃ。オロカでないこども。かしこいこども。
トモキ。そうだ、トモキなら。
トモキなら、私立の中学を受験するほど頭がいいし、ぼくの言うことを信じてくれるはずだ。
二学期になったら、トモキにたのんで、「みんなが元にもどりますように」って、ウトさまにお願いしてもらわなきゃ。
ああ、早く、早く、夏休みが終わりますように。