五
鈴虫の鳴き声を聴きながら、光輝は緊張と焦燥を感じていた。それは加藤に与えられた罪の重みであった。罪自体は重くなかったが、その罪があるという事実が光輝には重く感じられ、しかもそれを罪の重さだと錯覚していた。光輝は許しがほしくて、必死に考えた。洗濯物を畳む瑠実を今日も手伝ったが、それだけでは許されなかった。今日加藤に言われた「自分から何かをしなきゃいけない」という罪が、一体何をすれば許されるのか光輝にはわからなかった。
鈴虫が光輝のために鳴き続けていた。光輝は鈴虫を手放すことを考えていた。それは無意識に罪に見合う罰を受けることを考えた結果であった。だがそれだけでは光輝の真面目を満たさなかった。「自分から何かをしなきゃいけない」には、やや的外れな方法であったからだ。そして光輝は一つの結論に行き着いた。志保に鈴虫をあげるのだ。光輝はまず、自分が志保の立場であれば鈴虫をもらえるのは嬉しいはずだと考えた。そして、そのために鈴虫を手放さなくてはいけなくて、クラスの階級に反旗を翻し志保と関わりを持とうとしなくてはいけなかった。光輝が元々志保と関わりたい願望を持ち合わせていたことが目的意識を高め、後押しした。これが、光輝を満足させる方法であった。緊張と焦燥は、現実への冒険心から出たものへとすりかわっていた。
光輝の次の登校は早かった。光輝がいつも登校している時間でもなく、志保の後ろを歩くための時間でもなかった。そして光輝に手には鈴虫の入った虫籠がぶら下げられていた。林でストレッチをしている青年はいなくて、優しいおじいさんもいなくて、工場の駐車場には誰もいなくて、志保もいなかった。それは全部、志保に向かって大きく踏み込むためであった。いつもと同じペースで歩いているのに、志保への距離だけが急速に近づいていくように光輝は感じていた。登校の道に誰もいないことが、さらに志保へ向かうための道だということを強調していた。空が曇っていて、籠の中で鈴虫が鳴いていた。
学校に着いて下駄箱のところまで行くと、今度は静寂が光輝を緊張させた。登校中も静かではあったが学校の中は普段騒がしい分、余計に静かに感じられるのだった。鈴虫の鳴き声が響き、その非現実感だけが光輝を落ち着かせた。
廊下もまた静かで、誰の気配も感じさせなかった。光輝も教室に入るまで誰もいないと思っていた。だが、教室には水野がいた。水野は一人教室の中で机に突っ伏して寝ていた。水野は両親の不仲を理由に家にいるのが嫌なので登校が早いのだった。また、家での立場を見失いつつある水野は、学校で上位の階級にいる人間としてクラス内での確固たる立場を手に入れたことで自己を肯定することができていた。だから水野にとって、学校は家よりも大事な場所であった。だが当然光輝はそんなことを知るはずもなくただ不思議に思った。するとまた光輝に別の緊張感が生まれた。一日だけ共にしたことがある水野と、再び二人きりになった。しかし二人の間には階級という壁があり、二人はその壁越しに話したことがなかった。光輝はどんな接し方をしていいのかわからないまま、静かに自分の席へと座った。水野に気を取られて虫籠を自分の机に置いてしまったが、これは志保の机に置く予定のものだった。気づいた頃には光輝は気まずく感じていて動き出せずにいた。だが鈴虫が鳴くので結局水野は光輝に気がつき、二人は目が合った。光輝が何を言おうか考えていると、水野はまたすぐに机に突っ伏して寝たので、光輝は安心した。少し遅れて悲しくも感じたが、とりあえず動けるようになった光輝は志保の机に虫籠を置いた。光輝にできることは、待つことだけになった。
やがて教室には生徒が集まりはじめた。そしてその誰もが志保の机の上に置いてある虫籠に注目した。「何これ」や「何で」といった疑問の声がいくつもあがった。鈴虫そのものに注目する人間はいなかった。この時点で、光輝は不穏な予感が生まれていた。そして、志保が教室に入ってきたときにその予感は形になった。志保は泣いたのであった。志保にとっても、この教室の生徒にとっても、光輝の行為はいたずらであった。志保は人当たりがよかったので、いたずらをされたことがなかった。だから志保は鈴虫の入った虫籠が置かれていたことよりも、いたずらをされたという事実に涙を流したのであった。光輝は「いたずらじゃない。プレゼントなんだよ」と言いたかったが、いたずらとされてしまった以上、何も言えなかった。加藤が教室に来て朝の会が始まると、早速このことが問題として挙げられた。加藤もまた、このことをいたずらだと捉えていた。
「こんなことをしたのは誰だ。名乗り出て、飯田さんに謝りなさい」
光輝は名乗り出なかった。光輝は加藤が言う“こんなこと”をしたわけではなかったからだ。だが無情にも水野が、
「増田くんです。朝、虫籠を持ってました」
と言い放った。加藤と全クラスメイトが一斉に光輝の方を向いた。光輝にできることは、もう何もなかった。クラスメイトの目には敵意が宿っていた。加藤は「どうしてこんなことをしたんだ」と尋ねた。加藤は真面目な光輝がこんなことをした理由がわからなくて聞いたのだが、光輝には責められているようにしか感じられなかった。クラスメイトが作る空気が、光輝に見えるすべてのものを敵に見せていた。当然、光輝は説明なんてできなかった。どうしてこんなことになってしまったのか光輝にはわからなかった。教室の空気に迫害された光輝は追い出されるように教室から出て、泣きながら下駄箱へ向かった。加藤は光輝を追うか朝の会を続けるか一瞬悩み、自分がいない教室のことを思い出して教室に踏みとどまった。
光輝がいなくなった教室で、鈴虫が鳴いていた。