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鈴虫  作者: 渡辺志郎
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 光輝の学年の音楽の授業は担任の加藤ではなく、特別講師の平井行則が音楽室で行っていた。だから加藤はいつもであれば音楽の時間は職員室で書類の整理をしている。しかしこの日平井は体調不良で欠勤しており、音楽の授業は自習の時間となっていた。自習の間、加藤は教壇で生徒達の自習に対する姿勢を評価、また指導しなくてはいけなかった。自習の時間に自分が教壇に立つことを生徒達にも伝えていた。だが自習の時間になると加藤は平井が欠勤していることを忘れており、職員室でいつものように書類の整理をしていた。生徒達もそのことに気づいていたが、それをラッキーと捉えて好きなことをしていた。水野や志保はそれぞれ仲の良い友人達と話し、光輝は自分の机で算数の予習をしていた。

 加藤が平井の欠勤に気づいたのは、音楽の次の時間に行われる算数の授業であった。加藤が教室に行き、算数の資料を教壇の上に置いてふと顔を上げると、教室の後ろにある時間割用の黒板に書かれた自習と言う文字を見つけたのだ。加藤は背筋を伸ばした状態で一瞬固まった。一本の道だと思って歩いていた道が実は分かれていて、その分かれていた地点は自分の後ろにある。それでいて一方通行だ。絶望とは多くの場合、既に終わってしまっていることに対して感じるものなのだ。

「自習、ちゃんとしていたか?」

 加藤がなんとか搾り出した言葉は、自分のミスがどこにも影響していないことを懇願するような質問だった。だが加藤はこのクラスの生徒が自習の時間に大人しく自習をするような子供だけではないことをよく知っていた。そして、水野の「してたしてた!」と言う元気な返事を聞いて、自分のミスが真にミスとなっていたことを悟った。

 加藤は怒りを覚えた。それはこの絶望に生徒という人間が関わっていて、その人間次第では回避できたものだったからだ。お前らは人間なんだから少しくらい自制できるだろう、という理屈が加藤の頭の中に浮かんだ。

「先生がいなかったこと、もし気づいていたなら職員室まで呼びに来なくちゃだめだ。学級委員でも、気づいた人でもいい。自習の時間、先生が教室にいるっていうのはそう決まっているからじゃなくて、ちゃんと意味があるからなんだ。だから、呼びに来なくちゃだめだ。何事も、自分から何かをしなきゃいけないんだ」

 加藤がそう喋ると教室は静かになった。水野も大人しくしていたが、内心は怒っていた。水野だけでなく他の生徒達も強く不満を抱いた。それは無論、非が加藤にあることを理解していて、加藤の喋ったことが言い訳がましく聞こえていたからであった。加藤ですら言い訳がましく聞こえていた。だが生徒達は、自分が否定されたときの悲しさ、大人に怒られたときの罪悪感も同時に感じていた。特に光輝は真面目が故にそれを強く感じていた。怒りや不満を感じてさえもいなかった。ただ何もしなかった自分を悔やんだ。そんな生徒達を前に、加藤は静かに算数の授業を始めた。

 算数の授業を進めていくうちに加藤の感情には後悔の念が強く浮かんでいった。自分は謝るべきであったし、叱りつけるように放った言葉は間違いなく言い訳であった。しかし加藤が生徒達に教えたかったことも実際に放った言葉とそう変わらなかった。ただ状況と、その内容の乱雑さがいけなかった。だから、改めて整理して生徒達に伝えるにも言い出しづらかった。教師としても人間としてもそれはなんとも惨めに思えたし、何よりも空気が口を塞いでいた。結局算数の授業は終わりの時間を迎え、加藤は何を訂正することもできずにノートだけを回収し、職員室に戻った。生徒達に残ったのは加藤が授業の最初に言い放った言葉だけであった。

 加藤は生徒達を支配している階級や立場を理解していた。教師の中にはそれを理解どころか認識できないものもいる。それは特に四十代後半や五十代の年配の教師に見られる傾向があり、また自身が子供のときに階級と立場を認識できずに過ごしてきた教師にも見られた。だがそう言った教師は子供と距離があるために、精神論を押し付けがちであったり、ヒステリックであったりといった特別な性質を持たなければ、子供達に与える影響は少なかった。むしろ、子供達に影響があるのは子供達の階級や立場を理解しながら、その社会の中に入り込んでしまう教師であった。いわゆるいじられる立場である子供を他の子供と同じようにいじったり、上位の階級にいる子供達と特別仲良くしたりする教師だ。彼らは良くも悪くも子供達に影響を与える。子供は立場を大人の力によって確立され、立場を必要以上に(少なくとも社会的に必要以上に)重んじて過ごす。上の階級にいる子供は上にいる人間として、下の階級にいる子供は下にいる人間として生きるのだ。あるいは下の階級にいる子供は、それがコンプレックスとなりその反動で上の階級にいたがる人間になるかもしれない。そういった可能性を視野に入れた、子供の社会の外から見守る教師は少ない。加藤はその数少ない教師の一人であった。だが、そんな加藤も今回の失敗で子供達の怒りと失望を買ってしまった。教師が抱える使命は重く、また果たすのは困難なものなのであった。加藤は悪い教師ではない。だが、子供であった。

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