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鈴虫  作者: 渡辺志郎
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 鈴虫を捕まえた次の日の朝、光輝は寝坊をした。いつもは七時に起きるところを、七時三十分に起きた。前日の夜、鈴虫を眺めていたり、いつもと違う部屋に眠る高揚のせいで、眠りにつくのが遅くなったのだった。光輝の部屋は二階にあり、一階ではリビングで瑠実が朝食を作って待っていた。幸弘が七時に家を出るので、いつもなら幸弘を見送ってすぐに光輝が一階に下りてくる。ただ、五分くらいであれば起きて来ないこともあるので、瑠実は光輝が下りて来なくても気に留めず洗濯物を干した。しかし洗濯物を干し終わって一息ついたところで、既に三十分も光輝が一階に下りてきていないことに気づき、光輝を起こしたのだった。光輝は七時四十五分に家を出るため、十五分で支度をしなくてはいけなかった。光輝は食事に時間が掛かるタイプであったので、食事だけで十五分以上使う。急いで顔を洗い歯を磨き、食事をして着替えて家を出た。七時五十五分だった。

 小学校までは歩いて二十分掛かる。八時二十分から朝の会という、中学校や高校で言うところのホームルームがあるので、間に合わなくはないと言った時間だった。だから光輝は急ぐことなく、いつものペースで学校へ向かった。

 いつも同じ時間を歩いていると、決まった時間に散歩している人や、決まった時間に通るバスなどがあったりするが、光輝の登校も例外ではなかった。家を出て南に向かってしばらく歩くと交差点がある。交差点の左手前の角には田んぼ、右手前の角には小さな社がある林、交差点の向こう側は左に民家、右に小さな工場とその駐車場がある。いつもはこの林の中でストレッチをしている青年がいて、田んぼ沿いで柴犬を散歩させている老人とすれ違う。老人は光輝の顔を覚えたようで、すれ違う旅に「おはよう」と声をかける。光輝も「おはようございます」と返す。光輝はその老人のことを「優しいおじいさん」という人として捉えていた。その優しいおじいさんと挨拶をした後交差点を渡ると、工場の前の駐車場で作業着を来た様々な年齢の男性が朝礼をしている。光輝をそれを横目に先へ行く。だが今日はそのどれもがなかった。

 もう一つ違う出来事が起きた。工場の裏のアパートから、光輝のクラスメイトの飯田志保が出てきて、光輝の前を歩いたのだ。志保は活発な子供で、スポーツがよくできるのもあってクラスの中では目立つタイプの女の子だ。女の子らしい丸みはないが、細いながらもバランスはよく、顔立ちも整っていたので異性から人気があった。光輝も志保の顔を可愛い顔だと思っていた。光輝は「この時間に登校しているんだ」と志保の一面を知ることができたような気がして、嬉しい心持ちで志保の数十メートル後ろを歩いた。その先の交差点を左に曲がって、しばらく左手側に民家、右手側に田んぼが続く道に出る。その三つ目の田んぼの辺りでいつもなら、林の中でストレッチしていた青年が光輝を追い越す。青年はジョギングをしているのだ。今日は青年に追い越されることもない。だが光輝は青年に追い越されなかったことにも気づかなかった。光輝の意識は志保に奪われていたからだ。

 二人は距離を保ったまま学校に着き、志保が靴を上履きに履き替えて教室へ向かおうとしたときに、丁度光輝が下駄箱に着いた。二人はクラスメイトであるということ以外にほとんど接点を持たないので、挨拶をすることもなく別々に教室へ向かった。教室に入ったときに何人ものクラスメイトがすでに教室にいるのは志保にとっていつも通りの光景であったが、光輝にとっては新鮮な光景であった。光輝は少しの緊張の中自分の席に向かい、何事もなく朝の会を迎えた。いつもと違う自分に興味を持ってもらいたかった半面、人と話すことがあまり得意でない光輝は、安心したような残念なような気持ちになった。志保のことについてもまた誰かに話してしまいたい半面、自分だけが知っている秘密にもしておきたかった。光輝はそのまま自分の気持ちに明確さを持たせられないまま、時間の波に飲み込まれたのだった。

 授業中、光輝はその高揚を忘れていた。真面目な光輝はいつものように先生の話を聞き、先生が黒板に書いた文字をノートを書いた。光輝のクラスの担任である加藤勝は、黒板に書いた内容を生徒がノートに書き写すよう指導しており、そのノートは授業後に回収し内容を確認してからその日の帰りの会(朝の会と同じような会を下校前にもやるのだ)で生徒に返す。基本的にはどの科目でも同じで、加藤はそれを昼食後にまとめて確認する。また午後の授業ではまとめて確認する時間がないので、授業後その場で確認する。それは生徒の成績に直接関わってくるので、多くの生徒はノートをしっかりと取る。だが、そのことがテストの結果に大きく反映されることはない。加藤はそのことを理解しているが、クラス全体の成績をできるだけ高水準で保ちたいということと、生徒の差別化を図るために採点する要素を増やしたいということもあり、新しい方法を考えながらも思い浮かばずこういった方法をやむなしに使っている。加藤は今年初めてクラスを受け持った、若い新米教師であるのでまだ試行錯誤をしている段階であった。そんな加藤も真面目といえば真面目な性格をしていたが、光輝の真面目はそれとは違った。いわば光輝は純粋であった。光輝は授業を聞いていて、ノートも取っていて、そしてテストの点数も取れる。言われたことをしておけば、結果が自然についてくる才能を持っていたのだ。だから、例えば光輝が教師であるのなら教科書に書いてあることをそのまま伝えるだろう。それは光輝にとって正解であるのだ。それに加えて、光輝は優しい少年であった。常々、幸弘と瑠実から「優しくなりなさい」と言われて育てられたのだ。真面目な子供に育った光輝は、同時に優しくなることにも疑いを持たず、幸弘と瑠実に言われた通りの子供に育った。光輝は今も優しさへの意識が強い。

 そんな光輝は、今日の道徳の授業を特に真面目に聞いた。まさにその日の道徳の授業のテーマは優しさであったのだ。使用された教材は『道のはじっこ』と言うタイトルだった。『道のはじっこ』では、あかりちゃんという少女が母親との買い物の帰りに、道のはじっこですすり泣く自分よりも小さい女の子に声をかけられずに通り過ぎてしまう。そのことが心に引っかかっていたときにあかりちゃんもまた買い物の帰りに母親とはぐれてしまい、道のはじっこで泣くことになる。そのとき見知らぬお姉さんが話しかけてくれて、結果あかりちゃんは無事に母親と再会できる話だ。あかりちゃんは最後に「誰かが困っていたら、あのお姉さんのように助けてあげよう」と思って終わる。そんな話を、加藤が生徒を指名する形で一段落ずつ音読させた。光輝が音読することはなかったが、むしろそのことで光輝は『道のはじっこ』を熱心に読むことができた。真面目な光輝は、読み終わったときには人助けの精神に燃えていた。そして授業の後半、先生はこの『道のはじっこ』のまとめとしてこう言った。

「この『道のはじっこ』では、人助けが大切であるということはもちろんだけど、相手の立場に立って考えることが大事だということがわかるだろう? あかりちゃんは道のはじっこにいた女の子に話しかけられなかったけど、最後は自分が助けられることでその子の気持ちがわかったんだ。きっとあかりちゃんは、また同じようにお母さんと道を歩いていて泣いている女の子を見かけたら声をかけるだろう。だからみんなも、人と話すときや何かをするときは、まずは相手の立場に立って考えるということをしよう。それが“優しさ”だ」


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