第一話 犬嫌いの同心、狐を拾う
元禄八年、六月。
天下泰平を謳歌する江戸の町において、犬飼新之助は一匹の犬と死闘を繰り広げていた。
「待て、この盗人犬!」
日本橋の大通りを、黒い野良犬が駆け抜けていく。
口にくわえているのは、干した鰯が三尾。
新之助がなけなしの銭で買った、本日の夕餉である。
「返せ! せめて一尾だけでも返せ!」
「犬に値切ってどうするんだい」
魚屋の女房が腹を抱えて笑っている。
周囲の町人たちも、誰一人として犬を捕まえようとはしない。
それどころか、必死に追いかける新之助を見て、口々に囃し立てていた。
「犬飼の旦那、乱暴しちゃいけませんよ!」
「犬公方様のお膝元ですぜ!」
「棒で叩いたら、お役目を失いますよ!」
「わかっておる!」
新之助は北町奉行所に勤める同心見習いである。
二十二歳。
剣術は人並み以上。
読み書き算盤もこなし、悪党を前にしても退かぬ胆力を持っている。
しかし――犬だけは苦手だった。
幼い頃、野犬の群れに追い回され、尻を噛まれたことがある。
傷そのものはとうに消えた。
だが心の傷は、いまだしぶとく残っている。
よりにもよって名字は犬飼。
人からは「犬に好かれそうな名字だ」と笑われるが、実際には犬を見るたび道を変えていた。
「止まれ! 貴様、御用だ!」
犬が止まるはずもない。
黒犬は振り返り、新之助を小馬鹿にするように尾を一度振ると、人混みの間をすり抜けていく。
「この……!」
新之助は思わず刀の柄へ手を掛け――慌てて離した。
犬を斬ったなどと知られれば、どのような沙汰が下されるかわからない。
五代将軍、徳川綱吉。
世に「犬公方」と呼ばれる将軍のもと、生類をいたずらに傷つける行為は厳しく戒められている。
病んだ馬を捨ててはならぬ。
鳥をみだりに捕らえてはならぬ。
生きた魚や亀を、慰み半分に弄んではならぬ。
そして、犬をむやみに傷つけることも許されない。
法の趣旨が慈悲にあることは、新之助にも理解できる。
理解はしている。
だが――。
「人間が食う魚を盗んだ犬まで、ありがたく見逃せというのか……!」
新之助が愚痴をこぼした、その直後だった。
黒犬が突然、立ち止まった。
「……何だ?」
鰯を地面へ落とす。
そして、空を見上げた。
それまで賑やかだった往来から、音が消えた。
魚屋の威勢のよい声も。
荷車の軋みも。
子どもたちの笑い声も。
日本橋を埋め尽くしていた人々が、一斉に空を見上げている。
青かった空に、黒い筋が走っていた。
まるで巨大な刀で、天そのものを切り裂いたような亀裂だった。
「なんだ、あれは……」
誰かが呟いた。
亀裂の向こうから、紫色の光が漏れ出す。
その光は徐々に広がり、空一面を覆っていった。
次の瞬間。
大地が鳴った。
ごおおおおおおおおおっ――!
「地震だ!」
「伏せろ!」
「火を消せ! 竈の火を消せ!」
建物が激しく揺れ、瓦が落ちる。
悲鳴を上げた人々が、通りの中央へ殺到した。
「危ない!」
新之助は転びかけた子どもの腕を掴み、その身体を抱えて地面へ伏せた。
地鳴りは止まらない。
日本橋の欄干が軋み、川の水が逆巻く。
空の亀裂から降り注いだ紫色の光が、江戸の町を丸ごと包み込んでいく。
「目を閉じろ!」
新之助が叫んだ瞬間――。
世界が白く染まった。
◇
揺れが収まったのは、どれほど経ってからだったのか。
十数えるほどだった気もする。
一刻近く揺れていたようにも思える。
新之助が恐る恐る目を開けた。
「……生きている」
日本橋の町並みは、まだそこにあった。
橋もある。
川もある。
通りに並ぶ商家も残っている。
倒壊した建物は見当たらない。
瓦が何枚か落ち、桶が転がり、店先の商品が散乱している程度だ。
先ほどの揺れから考えれば、不自然なほど被害が少ない。
「助かった……のか?」
腕の中にいた子どもが、泣きながら母親のもとへ走っていく。
人々も次々と起き上がり、家族の無事を確かめ始めた。
「お前、生きてるか!」
「婆さんは!」
「店の火を見ろ!」
「誰か井戸を!」
安堵と混乱が入り混じった声が戻ってくる。
だが、新之助の足元で黒犬が低く唸った。
「今度は何だ」
黒犬は西を向いていた。
江戸の外へ続く方角である。
そこから、冷たい風が吹いてきた。
「……冷たい?」
六月とは思えぬ冷気だった。
しかも奇妙な匂いがする。
湿った土。
濃い草木。
それに獣の体臭を混ぜたような、これまで一度も嗅いだことのない匂い。
新之助が眉をひそめる。
やがて遠くから、半鐘の音が聞こえてきた。
火事を知らせる打ち方ではない。
何かとんでもない異変を知らせるような、激しく乱れた鐘だった。
「旦那!」
北町奉行所の小者が、人混みを掻き分けて駆けてくる。
「犬飼の旦那! すぐ奉行所へ!」
「何が起きた」
「江戸の外が……!」
男は息を整えることさえ忘れている。
「江戸の外が、まるごと変わっちまったんです!」
「何を言っている」
「海も山も街道も、何もかもです! とにかく、見りゃわかります!」
◇
半刻後。
新之助は北町奉行所から派遣された役人たちとともに、四谷大木戸へ向かっていた。
その道中にも、信じ難い報告が次々と飛び込んでくる。
「品川から知らせ!」
「申せ!」
「海はあります! ですが、房総の山々が消えております!」
「何?」
「見渡す限り、知らぬ海にございます! 沖には見たこともない島まで!」
別の小者が駆け込んでくる。
「千住の先には、山です! それも誰も見たことのないほど巨大な山々が!」
さらに別の報告。
「隅田川は流れております! そのまま未知の海へ注いでいるとのこと!」
「海は消えておらぬのだな?」
「ございます! ですが漁師どもが、『あれは江戸湾じゃねえ』と大騒ぎしております!」
「当たり前だろう!」
何しろ、海の向こうにあるはずの房総半島そのものが消えているのだ。
それだけではない。
空を見上げれば、昼間だというのに青白い月が二つ浮かんでいる。
一つは見慣れた月に近い。
もう一つは、それより小さく、淡い青を帯びていた。
「月が……二つ」
「夢ではないのか」
「全員同じ夢を見ているとでもいうのか」
役人たちが青ざめた顔で囁き合っている。
だが、四谷大木戸へ到着した新之助は、すべてが真実なのだと理解した。
「なんだ、これは……」
江戸の外にあるはずの甲州街道が消えていた。
内藤新宿もない。
その先に続く田畑もない。
代わりに広がっているのは――。
森。
ただの森ではない。
天を衝くほど巨大な木々が、地平の果てまで立ち並んでいる。
幹は、大人が十人で囲んでも足りないほど太い。
葉は光を受けるたび銀色に輝く。
見たことのない色鮮やかな鳥が木々の間を飛び交い、遠くからは獣とも鐘ともつかぬ奇妙な鳴き声が響いていた。
甲州街道は、大木戸から十間ほど先で途切れている。
だが、その境目に地割れはない。
段差すらない。
江戸の土と森の黒い土が、最初からそこにあったかのように自然に繋がっている。
「江戸だけが……どこかへ運ばれたというのか」
「まさか」
「だが、ほかにどう説明する」
西には巨大な森。
北には未知の山。
南東には、これまでとはまったく違う海。
そして空には二つの月。
江戸という巨大な町だけが、地面ごと別の世界へ移された。
そう考える以外に、説明のしようがなかった。
大木戸の内側には、すでに大勢の町人や浪人が集まっている。
「この森を抜ければ甲州へ出られるんじゃないか?」
「馬鹿言え! 見たこともない木ばかりだぞ!」
「妖術だ!」
「仏罰だ!」
「いや、南蛮人の術に違いない!」
「海へ行けば元の国へ戻れるんじゃねえか?」
「だったらお前が船を出せ!」
森へ踏み込もうとする者までいる。
「下がれ!」
新之助は声を張り上げた。
「奉行所の沙汰があるまで、誰も外へ出るな!」
「でも旦那!」
「知り合いが内藤新宿に!」
「畑はどうなったんだ!」
「俺の親戚が甲州にいるんだぞ!」
「俺に言われてもわからん!」
新之助自身、何一つ理解できていない。
それでも役人が混乱していては、町人はさらに混乱する。
「まずは調べる! 勝手に森へ入って行方知れずになれば、探す人間まで危険にさらすことになるぞ!」
町人たちが、不満そうながらも少しずつ下がっていく。
そのときだった。
ぱきっ。
森の奥から枝の折れる音がした。
「静かに!」
何かがこちらへ走ってくる。
かなり速い。
新之助は十手を抜いた。
「構えろ!」
同心たちが刀へ手を掛ける。
野次馬たちが一斉に後退した。
がさがさっ!
藪を突き破って、何かが飛び出してくる。
「……娘?」
一人の少女だった。
年は十六、七ほど。
粗末な麻の服をまとい、裸足の足は泥と血に汚れている。
茶色い髪。
金色の瞳。
そして――。
頭の上には、人間にはあるはずのないものが生えていた。
三角形の、狐の耳。
「ば、化け狐だ!」
誰かが叫んだ。
少女が怯えたように身を縮める。
腰の後ろでは、ふさふさとした大きな尾が揺れていた。
「人に化けきれなかった妖怪だ!」
「斬れ!」
「待て!」
新之助は、刀を抜こうとした浪人の腕を掴んだ。
「まだ何もしておらぬ!」
「見ればわかる! 化け物だ!」
「化け物なら、見ただけで斬ってよいと誰が決めた!」
「狐だぞ!」
「狐の耳があるだけだ!」
「十分だろう!」
「十分ではない!」
少女は新之助たちの言葉を理解していないらしい。
荒い息を吐きながら、何度も森の奥を振り返っている。
ただ怯えている。
何かに追われている。
それだけは誰の目にも明らかだった。
「おい」
新之助は十手を下げた。
「何かに追われているのか?」
「…………」
少女は答えない。
だが次の瞬間。
どどどどどっ――!
地面が揺れた。
「今度は何だ!」
森から四頭の巨大な獣が飛び出してくる。
一瞬、馬かと思った。
違う。
「蜥蜴……?」
馬ほどの大きさを持つ、緑色の鱗に覆われた巨大な蜥蜴だった。
二本の太い後脚で地面を蹴り、長い尾で身体の均衡を取っている。
その背には、銀色の鎧をまとった男たちが乗っていた。
顔立ちは人間に見える。
だが、手にしている槍の穂先には、青白い光が灯っていた。
「いたぞ!」
先頭の男が叫んだ。
聞いたこともない言葉だった。
だが――。
「逃がすな! その獣奴隷を捕らえろ!」
「……?」
新之助は目を見開いた。
聞いたことのない響きなのに、意味だけが頭の中へ直接入ってくる。
周囲の同心たちも、驚いた顔をしている。
「今の言葉……わかったか?」
「ああ」
「俺もだ」
狐耳の少女が、新之助の背後へ逃げ込んだ。
身体が震えている。
先頭の男が蜥蜴から飛び降りた。
「貴様らは何者だ」
男は新之助たちの服装を眺め、怪訝そうに眉を寄せた。
「見慣れぬ服だ。武装した異民族か?」
「それはこちらの台詞だ」
新之助は十手を構える。
「ここは徳川将軍家の御府内、江戸である。貴様らこそ何者だ」
「エド?」
男は聞き覚えのない名を反芻し、鼻を鳴らした。
「知らんな」
「こちらも貴様らを知らぬ」
「なら覚えておけ。我々はガルディア王国の者だ」
男は少女を指差した。
「その獣を渡せ」
「獣?」
「森から逃げ出した奴隷だ。狐族は高く売れる。耳と尾には傷をつけるな」
「…………」
新之助の眉間に皺が寄った。
「今、何と言った」
「聞こえなかったのか?」
男は苛立たしげに答える。
「そいつは我々の商品だ。返せ」
商品。
その言葉を聞いた瞬間だった。
少女が男の腰に下がった鞭を見て、びくりと身を竦ませた。
新之助は初めて気づいた。
少女の手首には、黒ずんだ鉄輪の跡が残っている。
服の背中も破れ、そこから幾筋もの古い傷が覗いていた。
「この者は……そなたらから逃げてきたのか」
「当たり前だ」
男は何でもないことのように言う。
「獣人は我ら人間に仕えるための種族だ」
「言葉を話すようだが」
「話すから便利なのだ。命令を理解できる」
「己の意思で逃げてもいる」
「奴隷が逃げることなど珍しくもない」
男が一歩近づく。
「異民族には関係のないことだ。退け」
「ここは江戸だ」
「知らん」
「俺たちもガルディアなど知らん」
「ならば――」
男が少女の腕を掴もうとした。
ぱしっ!
新之助の十手が、その手首を打った。
「ぐっ!」
「ここから先は江戸の地だ」
新之助は男と少女の間へ立った。
「江戸へ逃げ込んだ者を、貴様らが勝手に連れ去ることは許さぬ」
「我が国の財産だぞ!」
「貴様らの国の法など知らん」
「ふざけるな!」
新之助はちらりと背後を見る。
狐の耳。
大きな尾。
どう見ても普通の人間ではない。
妖怪なのかもしれない。
異国の獣なのかもしれない。
そもそも、ここがどこなのかさえわからない。
だが――。
怯えている。
痛みに耐えている。
助けを求めて、自分の背後へ隠れた。
それだけは、よくわかった。
「それに――」
新之助は自嘲するように口元を歪めた。
「今の江戸では、生き物をみだりに傷つけることは御法度でな」
「何をわけのわからぬことを!」
奴隷狩りの男が槍を突き出した。
穂先の青い光が一気に膨らむ。
「新之助!」
仲間の同心が叫ぶ。
「危ない!」
新之助は少女を抱え、横へ飛んだ。
直後。
青白い光が地面へ突き刺さった。
轟音。
土が爆ぜ、大木戸の外へ土煙が舞い上がる。
「なっ……!」
「妖術か!」
「魔法だ!」
男が叫ぶ。
「そいつらを殺せ! 獣人を取り戻せ!」
残る三人も騎獣から降り、武器を構えた。
「殺す、だと?」
新之助はゆっくりと立ち上がった。
少女を背後に庇う。
先ほどまでの戸惑いが、消えていた。
腰の刀を抜く。
「江戸の入り口で、奉行所の役人を殺すと申したな」
刀身が、二つの月の光を受けて白く光る。
「ならば貴様らは、もはや旅人ではない」
切っ先を男たちへ向ける。
「狼藉者だ」
新之助は言い放った。
「神妙に縛につけ」
◇
勝負は、長くはかからなかった。
奴隷狩りたちが放つ魔法は、確かに脅威だった。
青い光弾。
空気を裂く衝撃。
新之助たちがこれまで見たこともない攻撃である。
だが彼らは逆に、江戸の侍が迷わず間合いを詰めてくるとは思っていなかったらしい。
「撃たせるな!」
新之助は最初の男の懐へ飛び込んだ。
槍を十手で絡める。
「何っ!」
手首へ一撃。
「ぐあっ!」
槍が落ちる。
二人目が青白い光を集め始める。
その前に新之助が足を払い、地面へ転がした。
喉元へ刀を突きつける。
「動くな」
三人目は同心たちが背後から組み伏せた。
「放せ!」
「縄を持て!」
「こいつら、何て力だ!」
最後まで抵抗した頭目が、少女へ手を伸ばした。
「貴様だけでも――!」
「嫌っ!」
少女が、その腕へ噛みついた。
「ぎゃああああっ!」
「……元気ではないか」
新之助は少し安心した。
結局、四人全員が縄を打たれた。
北町奉行所へ連行することになる。
問題は、残された巨大な蜥蜴だった。
「……どうする、これ」
同心の一人が尋ねる。
巨大な蜥蜴四頭が、大木戸の前で大人しく座っている。
「俺に聞くな」
「犬飼、お前が捕らえた奴らの乗り物だろう」
「捕らえたのは人間だ!」
「でも、これも江戸へ入れるのか?」
「逃がして森へ戻す方が危ないだろう」
仕方なく、大木戸脇へ繋いでおくことになった。
すると早速、町人たちが遠巻きに集まってきた。
「竜だ!」
「いや、大蜥蜴だろう!」
「食えるのか?」
「鶏みたいな味じゃねえか?」
「誰だ、今つついたのは!」
「棒でつつくな! 生類憐れみの令に触れるぞ!」
「これも生類なのか?」
「生きてるんだから生類だろ!」
転移から、まだ半日も経っていない。
それでも江戸の町人たちは、早くも異世界の生き物へ順応し始めていた。
新之助は深いため息をつく。
「まったく、たくましい連中だ」
「シンノスケ」
「ん?」
背後から名前を呼ばれた。
振り返る。
狐耳の少女が立っていた。
「今……俺の名を呼んだか?」
「シンノスケ」
どうやら、誰かが新之助の名を呼んでいるのを聞いて覚えたらしい。
「言葉がわかるのか?」
「すこし……わかる」
少女は片言で答えた。
胸へ手を当てる。
「カヤ」
「カヤ?」
少女は頷いた。
「それが、お前の名か」
「カヤ」
「そうか」
新之助が頷いた瞬間。
カヤは新之助の手を取った。
「お、おい」
その手を、自分の額へ押し当てる。
掌へ柔らかな毛が触れた。
狐耳がぴくりと動く。
「ありがとう、シンノスケ」
新之助は慌てて手を引っ込めた。
「礼はよい!」
耳を触ってしまった。
なぜか妙に悪いことをした気分になる。
「それより、江戸城へ行くぞ」
「エドジョウ?」
「この地で最も偉い御方に、お前たちの世界について話してもらう」
新之助は江戸城の方角を見た。
江戸がどこへ来てしまったのか。
元の世界へ戻れるのか。
西の森の向こうには何があるのか。
北に現れた山々はどこまで続いているのか。
そして、品川の沖に広がったという未知の海の先には、何が待っているのか。
わからないことばかりだった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
徳川の世は――。
今日を境に、これまでとはまったく違うものになる。
◇
その夜。
狐獣人カヤは、江戸城本丸御殿へ通された。
将軍への目通りなど、本来なら下級御家人である新之助にも容易に許されるものではない。
だが、江戸そのものが異界へ移ったという未曾有の事態である。
老中。
大目付。
若年寄。
町奉行。
幕府の重臣たちが居並ぶ中、五代将軍徳川綱吉は上段の間からカヤをじっと見つめていた。
しばしの沈黙。
そして。
「耳がある」
第一声が、それだった。
老中の一人が咳払いする。
「上様。その者は異界より参った獣人なる種族にございます」
「尾もあるな」
「左様にございます」
「本物か?」
「恐らくは」
「触れてもよいか?」
「上様!」
老中たちの顔色が変わった。
カヤも警戒するように耳を伏せる。
新之助は平伏したまま口を開いた。
「恐れながら、その者はひどく怯えております。まずは事情をお聞きになるのがよろしいかと」
「うむ」
綱吉は素直に頷いた。
「もっともである」
新之助は少し意外に思った。
犬公方と陰で揶揄される人物である。
獣人を見るなり耳を触ろうとするのではないかと心配していたが――。
いや、すでに触ろうとはした。
それでも相手が怖がっていると聞けば引き下がる程度の分別はあるらしい。
新之助が、カヤから聞き取った話を伝える。
不思議なことに、この世界の者との会話は、互いの言葉が耳へ入ると意味だけが理解できた。
ただしカヤはまだ混乱が激しく、詳しい事情を話すには時間がかかった。
この世界には、幾つもの人間の王国があること。
獣人たちは人間より劣る種族とされ、奴隷として扱われていること。
江戸の西に広がる森には、ガルディア王国から逃れてきた獣人たちが隠れていること。
そして奴隷狩りが、今も森を巡回していること。
話を聞き終えた綱吉は、しばらく目を閉じていた。
広間の空気が重くなる。
やがて老中の一人が進言した。
「上様」
「申せ」
「江戸は現在、孤立しております」
「うむ」
「江戸湾は未知の海へ変わり、陸路も断たれました。米、薪、薬、その他あらゆる物資が、遠からず不足いたしましょう」
新之助も同じことを考えていた。
江戸は百万に近い人間を抱える巨大都市である。
その暮らしは、江戸の町だけで成り立っているわけではない。
米。
野菜。
薪。
炭。
魚。
塩。
油。
紙。
薬。
あらゆる物が、陸路と海路で外から運び込まれていた。
海そのものは残った。
だが、その先はもう日本ではない。
西へ続く街道も消えた。
備蓄だけで、いつまでも暮らせるはずがなかった。
「見知らぬ国と争うのは得策ではございませぬ」
老中が続ける。
「この獣人をガルディアなる国へ引き渡し、まずは交渉を――」
「ならぬ」
綱吉の声は静かだった。
だが広間にいた全員の口を閉ざすには、十分だった。
「言葉を話し、恩を知り、己の命を惜しむ者を、物として引き渡せと申すか」
「されど、人ではございませぬ」
「人でなければ、苦しめてもよいのか」
「それは……」
老中は答えられない。
綱吉はカヤへ目を向けた。
先ほどまでの好奇心に満ちた表情とは違う。
そこにいるのは、一国を治める将軍だった。
「余は、生きとし生けるものを憐れめと命じた」
綱吉はゆっくりと言葉を続ける。
「それは、犬のみを守れという意味ではない」
新之助の耳が動く。
「人が、己より弱きものを気ままに傷つけることを戒めたのだ」
「上様……」
「獣人が生類であることに、何の疑いがある」
綱吉は扇を取り、膝の前へ置く。
「本日より、江戸の地へ逃げ込んだ獣人を、幕府の庇護下に置く」
広間がざわめいた。
「上様!」
「軽々にお決めになられては!」
「これは異国との戦になりかねませぬ!」
「ただでさえ百万の民を抱え、今後の食糧すら――」
「余計な者を養う余裕などない、と申すか」
老中が言葉を詰まらせる。
綱吉は静かに言った。
「余計な者かどうかは、余が決める」
ざわめきが消えた。
そして将軍は、新之助へ視線を向けた。
「犬飼新之助」
「はっ」
「そなたは今日、この獣人を守ったそうだな」
「御法度に従ったまでにございます」
「生類憐れみの令を嫌っておると聞いたが」
「…………」
新之助の額から汗が噴き出した。
どこから聞いた。
魚屋の女房か。
奉行所の同僚か。
まさか犬へ向かって吐いた愚痴まで、将軍の耳へ届いているのか。
「お、恐れながら……」
「正直に申せ」
逃げられない。
新之助は額を畳へつけた。
「……人より犬を重んじる法であるならば、納得できぬと思っておりました」
老中たちが息を呑んだ。
将軍の政策を、その本人の前で批判したのだ。
首が飛んでもおかしくない。
だが。
「そうか」
綱吉は怒らなかった。
むしろ、わずかに笑った。
「ならば、そなたが確かめよ」
「何を、でございましょう」
「この異界において、生類を憐れむことが、人を苦しめる悪法となるか」
綱吉はカヤを見る。
「それとも、江戸を救う法となるか」
「…………」
「獣人」
綱吉が指を一本立てる。
「妖しき生類」
二本目。
「異界の獣」
三本目。
「その他、人ならざる者に関する一切を取り扱う役目を新たに設ける」
新之助は嫌な予感を覚えた。
「新たな、お役目……?」
「名は――」
綱吉は少し考えた。
「異類御用改方」
「…………」
嫌な予感が、確信へ変わった。
「犬飼新之助」
「はっ」
「そなたを、その最初の役人に任ずる」
「お待ちください、上様!」
「不服か?」
「私は犬が苦手にございます!」
「獣人は犬だけではあるまい」
「狐も得意ではございませぬ!」
カヤが隣で不満そうに唸った。
「うぅ……」
「ほら、怒っております!」
「案ずるな」
綱吉は楽しそうに笑った。
「じきに慣れる」
「そのような問題では――」
そのときだった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響く。
「申し上げます!」
小姓が転がり込むように広間へ入り、平伏した。
「四谷大木戸より、急ぎの知らせにございます!」
綱吉の表情が引き締まる。
「申せ」
「森の中より、獣人と思われる者たちが現れました!」
カヤが勢いよく顔を上げた。
新之助も息を呑む。
「数は」
「わかりませぬ!」
小姓の声が震える。
「老人、女、子どもを含め、少なくとも五百! なおも続々と江戸へ向かっております!」
広間が騒然となった。
「五百だと!」
「そんな数をどこへ入れる!」
「食糧は!」
「寝床はどうする!」
しかし知らせは、それだけではなかった。
「さらに!」
小姓が続ける。
「その後方より武装した軍勢が接近中! 旗印は、本日捕らえた者どもが申していたガルディア王国のものと思われます!」
一瞬で静まり返った。
江戸が異世界へ転移してから、まだ一日も経っていない。
それでもすでに、戦は始まろうとしていた。
綱吉は立ち上がった。
「門を開けよ」
老中たちが一斉に顔を上げる。
「上様!」
「逃げてきた者を江戸へ入れよ」
「しかし!」
「一人も外へ置き去りにしてはならぬ」
「敵軍が迫っております!」
「ならば、なおさら急げ」
綱吉は迷わなかった。
「ここは江戸である」
その目には、天下人の威光が宿っていた。
「余の治める地へ逃げ込んだ命を、異国の者へ勝手に奪わせるな」
そして新之助を見る。
「異類御用改方」
「……はっ」
「最初の役目である」
新之助は顔を引きつらせた。
「恐れながら上様。私は今、任じられたばかりにございますが」
「ちょうどよい。働け」
「五百人を、私一人でございますか!」
「カヤもおる」
カヤが自分を指差す。
「わたし?」
「この者も今日来たばかりです!」
綱吉は笑みを浮かべた。
「犬飼よ」
「はっ」
「生類を憐れむというのも、なかなか骨が折れるであろう?」
新之助は深く頭を下げながら、胸の内で叫んだ。
だから、この法は嫌いなのだ――と。
こうして異世界へ転移した江戸幕府は、最初の夜から五百人を超える獣人を保護し、未知の王国を敵に回すこととなった。
西には、人ならざるものが棲む大森林。
南東には、見たこともない島々が浮かぶ未知の海。
空には二つの月。
後に異世界全土を揺るがすことになる、新たな「生類憐れみ」の物語。
その始まりは――。
一匹の黒犬が盗んだ三尾の鰯と。
一人の狐獣人の少女だった。




