潮騒
一
江ノ島へ続く橋の上は、いつも風が強い。
七月の終わり、その橋を渡りながら、二年生の田川凛は鞄の肩紐を両手で握り直した。潮の匂いが鼻の奥を刺す。
海の匂いというより潮の匂い、もっと正直に言えば、少し腐ったような磯の匂いだ。湘南育ちのはずなのに、この匂いにはいつまで経っても慣れない。
橋の欄干の向こうに、海が広がっている。夏の昼下がり、光の粒が水面で砕けて、目を開けていられないほど白く輝いている。
サーファーが数人、波に乗っていた。その向こうに江ノ島の緑が盛り上がり、さらにその奥に、霞んだ空との境界線が引かれていた。
凛は橋の中ほどで立ち止まった。 別に用があって江ノ島へ来たわけではない。写真部の夏の課題として、「自分の好きな場所を撮る」というテーマが出ていた。好きな場所。そう言われると困る。毎日歩いている通学路も、週末に友達と行くカフェも、「好き」というより「慣れている」という感覚に近い。
だから結局、海に来た。海なら何か撮れる気がした。 橋の手すりにもたれて、凛はカメラを構えた。 ファインダーの中に、逆光で光る海が収まった。シャッターを切ろうとして、ふと気づく。
橋のたもと、江ノ島側の入り口に、一人の男子が座っていた。
石造りの低い壁の上に腰を下ろして、海のほうを向いている。制服ではなく、白いTシャツと薄いグレーのデニム。素足にクロックス。そして、両耳に大きなヘッドホン。 観光客でもなく、サーファーでもなく、ただ何かを聴きながら、海を見ている。 凛は無意識にカメラを向けた。 ファインダーの中で、彼の輪郭が夏の光に溶けていた。
二
藤木蒼介は、音楽部の三年生だった。
といっても、吹奏楽でも軽音でもない。「音楽部」という名前の、部員三人の小さなクラブ。活動内容は各自が作曲した楽曲を学期末に発表する、というものだ。実態としてはほぼ個人活動で、蒼介は放課後の音楽室を一人で使って、ピアノを弾いたり、ノートに音符を書き連ねたりしていた。
その日、蒼介が江ノ島にいたのに特別な理由はなかった。ただ、行き詰まっていた。
夏の終わりにある部内発表に向けて、三ヶ月かけて曲を書いていた。構成は決まっている。メロディもある。なのにどこかが違う。弾くたびに、何かが足りないと感じる。その「何か」が何なのか、音楽室の中にいるとどうしても分からなくて、外へ出た。
電車に乗って、気づいたら江ノ電に乗り換えていた。江ノ島駅で降りて、橋を渡って、とくに目的もなく島の入り口まで来て、壁の上に座った。
ヘッドホンから流れているのは、今書いている曲の録音だ。スマートフォンで弾き語りを録ったもので、音質は悪く、ピアノの音はくぐもっていて、自分の声はか細い。それでも繰り返し聴いている。どこが違うのか、聴けば分かるかと思って。
波の音が、ヘッドホン越しにも薄く聞こえてくる。
蒼介はふと、ヘッドホンを片耳だけ外した。
音楽が止んで、海の音が入ってくる。波が砂を引きずる音。遠くでサーファーが叫ぶ声。橋の上を渡る観光客の足音と、笑い声。風。
なんだ、と蒼介は思った。
ここに全部ある。
三
凛がシャッターを切ったのは、彼がヘッドホンを片耳外した瞬間だった。
後から確認したら、ピントが少しずれていた。でも、光の入り方が良かった。逆光で横顔が暗くなって、その分ヘッドホンの白いイヤーカップが光を反射している。背景の海がぼんやりと白く飛んでいて、彼だけがシルエットとして浮かんでいる。
悪くない写真だと思った。
でも撮ったことに気づかれたら気まずいな、と思って、そっとカメラを下ろした。
橋を渡って島のほうへ歩いていくと、彼の横を通り過ぎることになる。目を合わせないようにしようと思いながら歩いていたら、向こうが先に顔を上げた。
「写真部?」
突然話しかけられて、凛は一瞬固まった。
「……えっ、あ、はい」
「俺の写真、撮ってましたよね」
やっぱり気づかれていた。凛は少し焦りながら、「すみません、消します」と言おうとしたら、彼は首を振った。
「消さなくていいです。良ければあとで見せてほしいくらい」
そう言って、少し笑った。
凛はその笑い方を、すぐに誰だか分かった。
「……あの、もしかして、音楽部の藤木先輩ですか」
蒼介は目を丸くした。
「知ってるの?」
「去年の文化祭で演奏されてたの、聴きました。ピアノ」
それは去年の秋のことで、凛はたまたま音楽室の前を通りかかって足を止めた。廊下に音が漏れていた。派手な曲ではなかった。でも、どこか引っかかって、扉の小窓から中を覗いたら、ピアノの前に一人の男子が座っていた。
「……ああ」
と蒼介は言った。
「あれ聴いてたんだ」
「好きだったので、覚えてました」
蒼介はしばらく黙って、それから壁の上を少し横にずれた。
「座る?」
四
二人は並んで、海を見た。
凛は蒼介の一年後輩で、蒼介は凛の顔を知らなかった。でも同じ高校の生徒だと分かると、なんとなく話は続いた。
「何撮るの?」
と蒼介が訊いた。
「部長からは好きな場所を撮れ、って言われたんですけど、よく分からなくて。とりあえず海に来ました」
「海、好き?」
「好きかどうか……あんまり考えたことないです」
凛は少し考えて、
「でもここに来ると、何かが整う気がします」
蒼介は少し黙った。
「分かる」
「先輩は何しに来たんですか」
「行き詰まって、ね」
蒼介はスマートフォンを見た。
「曲作ってて、どこかが違う気がして、でも何が違うか分からなくて」
「それで江ノ島まで?」
「来たら分かった気がした。たぶん、足りなかったのは音楽室の外の音だったんだろう」
凛はそれを聞いて、ヘッドホンを見た。
「さっきヘッドホン外してましたね」
「うん。外したら波の音がして、あ、これだって思った」
「波の音が入るんですか、曲に」
「そういうわけじゃないけど……インスピレーション、みたいな」
凛は頷いた。うまく理解できたとは言えなかったけれど、何となく分かるような気がした。部屋の中でファインダーを覗いていても撮れない何かが、外に出ると見えることがある。
「先輩の曲、夏っぽくないですね」
と凛は言った。
「え?」
「文化祭のやつ。七月に聴いたんですけど、冬みたいだなって思って」
「冬」
蒼介は繰り返した。
「なんで冬だと思った?」
「なんか、空気が薄い感じがして。冬の朝みたいな」
蒼介はしばらく黙っていた。風が来て、凛の髪が横に流れた。
「わかる人にはわかるんだね」
と蒼介はやがて言った。
「十二月のイメージで書いたから」
七月の海の上で、二人は十二月の話をした。
五
その日以来、二人は特別に仲良くなったわけではなかった。
廊下で会えば会釈くらいはした。一度、図書室で隣の席になって、五分ほど話したことがある。それくらいだった。
でも凛は、ヘッドホンをつけた蒼介の横顔が頭の中に残り続けていた。
あの写真を現像して、写真部の課題として提出した。指導の先生には「構図が甘い」と言われた。確かにピントはずれていた。でも凛は、その写真が一番好きだった。
蒼介の顔は暗くてよく見えない。でも、片耳のヘッドホンと、その向こうの光る海が、何かを物語っているように見えた。何を物語っているのかは、うまく言えなかった。
写真には言葉がない。音もなければ匂いもない。だから分からないことが残ってもいい、と凛は思うようにしていた。
そして八月になった。
学校は夏休みに入ったが、凛は写真部の合宿で海沿いの宿に泊まっていた。三日間、朝から晩まで写真を撮り続ける。浜辺で、路地で、漁港で、灯台の上で。
二日目の夕方、一人で砂浜を歩いていたら、人影を見つけた。
砂浜の端、テトラポッドの影に、ヘッドホンをつけて座っている人がいた。
見間違えるはずもなかった。
凛は近寄ろうか迷って、結局そっとカメラを構えた。今度はちゃんとピントを合わせた。夕日の光が赤くて、彼の白いTシャツが橙色に染まっていた。ヘッドホンのコードが砂の上に垂れていた。
シャッターを切った。
その音が聞こえたのか、蒼介がこちらを向いた。
「また撮ったね?」
と彼は言った。笑っていた。
「すみません」
「謝らなくていいって言ったじゃないですか」
先輩後輩なのに、蒼介はなぜか「ですます」で話す。凛も合わせてそうなっていた。
凛は近くの岩に腰を下ろした。
「合宿ですか?」
「いや、一人で来た。曲がほぼできたから、仕上げる前に聴きに来た」
「波の音を?」
「うん」
蒼介はヘッドホンを首にかけた。その瞬間、かすかに音楽が漏れてきた。凛の耳には届かないくらいの音量だったが、確かに何か流れていた。
「それ、今書いてる曲ですか」
「そう。田川さんに言われてから、変えたから」
凛は目を丸くした。「私が何か言いましたっけ」
「冬みたいって言ったでしょ。空気が薄い感じがするって」
「それで変えたんですか」
「足りないものが分かった気がして」
蒼介は少し遠くを見た。
「あの曲は確かに十二月のイメージで書いたんだけど、冬だけじゃなくて、冬に向かっていく秋の気配も入れたかったんだと思って。だから今、書き直してる」
凛は何も言わなかった。
ただ、自分の一言がそんなふうに作用したことが、不思議だった。写真と音楽は違う。でも、外の空気から何かを受け取るという点では、似ているのかもしれなかった。
「発表、聴きに行ってもいいですか」と凛は言った。
「もちろん」と蒼介は言った。
「ぜひ」
六
夏休みが終わって、九月になった。
写真部の課題展示が廊下に貼り出された。凛が提出したのは五枚組で、すべて江ノ島と湘南の海を撮ったものだった。一枚目は橋の上から見た海。二枚目は参道の路地に差し込む光。三枚目は夕方のテトラポッド。四枚目は波打ち際に残った足跡。五枚目は——逆光の中のヘッドホンの少年。
最後の一枚は、最初に撮った七月の写真だった。
先生には「ピントが甘い」と言われ続けたが、最終的に展示には入れた。一番好きだったから。
その廊下を、蒼介が通りかかったのは偶然だった。
足を止めて、五枚の写真を順番に見た。最後の一枚の前で、しばらく動かなかった。
自分だと気づいたかどうか、凛には分からない。凛はちょうど廊下の反対側から歩いてきて、蒼介が写真を見ているのを見つけた。足を止めたが、声はかけなかった。
蒼介は一度だけ、その写真を振り返るように見て、それから歩き去った。
凛はしばらくその場に立ったまま、写真を見ていた。
七
音楽部の発表は、九月の終わりだった。
体育館の端にある小ホールで行われる小さな発表会で、観客は数十人ほどだった。写真部の友人を誘って、凛は一番後ろの席に座った。
蒼介の出番は最後だった。
スタインウェイではなく、学校の古いアップライトピアノ。それでも蒼介が弾き始めると、音が変わった気がした。
曲は静かに始まった。右手だけのメロディが、低音の和音に支えられてゆっくり動く。秋の朝みたいな、光の入り方が細い感じ。凛は最初の数小節で、あの夏の砂浜を思い出した。
中盤、曲が少し動く。波のように音が重なって、また引いていく。波の音ではないけれど、波の気配がある。そういう音楽だった。
終盤、メロディが高音に移って、じわじわと静けさの中に消えていく。消えるのに、寂しくなかった。どこか清々しい終わり方だった。
拍手が起きた。
凛も手を叩きながら、ああ、と思った。
これは今年の夏だ。
七月の橋の上で出会って、八月の砂浜で話して、それが音になった。自分はその一部だったのかもしれない、とぼんやり思った。たぶん大した一部ではない。でも、何かを渡した気がした。
八
発表のあと、小ホールの外の廊下で、蒼介と話した。
「聴いてくれてたんですね」
と蒼介は言った。
「もちろんです。約束しましたから」
「どうでした?」
凛は少し考えた。「今年の夏みたいな曲でした」
蒼介は目を細めた。「それ、最高の感想」
「冬から秋になってました」
「変えた甲斐があった」
二人はしばらく廊下に立っていた。
「先輩、来年どうするんですか」と凛は訊いた。
「音楽の学校を受けようと思ってる。まあ、どうなるか分からないけど」
「絶対受かると思います」
「なんで」
「あの曲を書けたんだから」
蒼介は少し笑った。「田川さんが来年も写真撮ってたら、また見たい」
「来年もいますよ、私は」
「そうですね」
と蒼介は言った。
「そうか、来年も会えますね」
なんでもないような言葉だった。でも凛にはその言葉が、橋の上の風みたいに、一瞬だけ強く吹いて、すぐ通り過ぎていった。
九
十月になって、蒼介は本格的に受験勉強に入った。
音楽室に姿を見せなくなり、廊下で会う機会も減った。凛は相変わらず写真部に通い、週に一度は海に行って、シャッターを切り続けた。
ある日、現像した写真を並べていて、気づいたことがある。
海の写真が増えていた。それ自体は以前からだ。でも最近の写真には、人の気配が入ることが多くなっていた。サーファーの遠い影。砂浜に並んだサンダル。橋の上を歩く人の後ろ姿。
以前は風景ばかり撮っていた。
何かが変わったのかもしれない、と凛は思った。何がとは言えなかった。ただ、カメラを向けるものが、少し変わった。
十一月の半ば、図書室で蒼介と会った。
受験参考書を積み上げて、蒼介は窓際の席に座っていた。凛が隣の席に教科書を広げると、蒼介が気づいて小さく手を挙げた。
二人は並んで勉強した。話はほとんどしなかった。一時間ほどして、凛が先に立ち上がった。
「邪魔してすみませんでした」と小声で言うと、蒼介は首を振った。
「全然。落ち着いた」
「受験、頑張ってください」
「ありがとう。写真展、あったら教えてください」
「来られますか? 受験中なのに?」
「行ける時間があったら、行く。絶対に行く」
それきり蒼介は参考書に視線を戻した。凛は図書室を出て、廊下を歩きながら、スマートフォンをポケットから出した。
蒼介とは連絡先を交換していなかった。
交換すればよかった、と思ったが、引き返すのも変だと思って、そのままにした。
十
冬になった。
受験シーズンで三年生はほとんど教室にいなくなった。蒼介とはほぼ会わなくなった。凛はそれを寂しいとは思わないようにしていた。先輩と後輩で、少しだけ同じ海を見た、ただそれだけの話だと思っていた。
写真部の冬の課題が出た。
テーマは「時間」。
凛は江ノ島に行った。七月に初めて蒼介を見た橋の上に立って、同じ角度で海を撮った。夏とは光が違う。青さの種類が違う。波の立ち方も、風の強さも、全部違う。
でもここは同じ場所だ。
凛はシャッターを切りながら、あの日のことを思い出していた。橋のたもとに座って、ヘッドホンを片耳外した横顔。空気が薄い感じがする、冬みたいな音楽。砂浜の夕日の中で、曲がほぼできたと言っていた声。
五枚撮って、カメラを下ろした。
潮の匂いがした。夏より鋭く、少し冷たい。
凛はその匂いを、しばらく吸い込んでいた。
三月、卒業式の翌日、凛は海に行った。
特別な理由はなかった。ただ、なんとなく行きたかった。
橋の上を歩いていると、向こうから誰かが来た。
お互いに気づいたのは、すれ違う直前だった。
「田川さん」
「先輩……あ、卒業おめでとうございます」
「ありがとう。今日も写真?」
「はい」
「受かりました、音楽学校」
凛は思わず顔がほころんだ。
「やっぱり」
「やっぱりかどうかは分からないけど、受かった」
「よかった」
蒼介は海のほうを見た。風が強くて、髪が乱れた。
「ここ、また来ますよ」
「東京から遠くないし」
「来てください。私もまだしばらくここで撮ってます」
「写真展、結局一度も見に行けなかった」
「また機会があれば」
「あったら教えてください」
「今度こそ」
凛はカメラを持ったまま、「連絡先、交換しますか」と言いかけて、やめた。
代わりに、「次は約束を破らないでくださいね?」と言った。
蒼介は頷いて、じゃあ、と言い、橋を渡っていった。
凛はその後ろ姿をしばらく目で追っていた。
カメラを構えようとして、やめた。今日は撮らなくていい、と思った。
橋の上で、風が吹いた。
潮の匂いがした。
海は相変わらず光っていた。蒼介の後ろ姿は、観光客の流れに混ざって、やがて見えなくなった。
凛はしばらくそこに立っていた。
胸の中に、何かある気がした。名前をつけようとして、うまくつけられなかった。悲しいとも嬉しいとも違う。ただそこにある、確かな何か。
写真に撮れないものが、世界にはある。それが分かった気がした。今年の収穫は、それかもしれない。
凛は橋を渡り始めた。
波の音が、ずっと聞こえていた。
了
読んでくださってありがとうございます。評価いただけると、やる気が増します。;;




