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潮騒

作者: 犬飼
掲載日:2026/04/05


 江ノ島へ続く橋の上は、いつも風が強い。


 七月の終わり、その橋を渡りながら、二年生の田川凛(たがわりん)は鞄の肩紐を両手で握り直した。潮の匂いが鼻の奥を刺す。


 海の匂いというより潮の匂い、もっと正直に言えば、少し腐ったような磯の匂いだ。湘南育ちのはずなのに、この匂いにはいつまで経っても慣れない。


 橋の欄干の向こうに、海が広がっている。夏の昼下がり、光の粒が水面で砕けて、目を開けていられないほど白く輝いている。


 サーファーが数人、波に乗っていた。その向こうに江ノ島の緑が盛り上がり、さらにその奥に、霞んだ空との境界線が引かれていた。


 凛は橋の中ほどで立ち止まった。 別に用があって江ノ島へ来たわけではない。写真部の夏の課題として、「自分の好きな場所を撮る」というテーマが出ていた。好きな場所。そう言われると困る。毎日歩いている通学路も、週末に友達と行くカフェも、「好き」というより「慣れている」という感覚に近い。


 だから結局、海に来た。海なら何か撮れる気がした。 橋の手すりにもたれて、凛はカメラを構えた。 ファインダーの中に、逆光で光る海が収まった。シャッターを切ろうとして、ふと気づく。


 橋のたもと、江ノ島側の入り口に、一人の男子が座っていた。


 石造りの低い壁の上に腰を下ろして、海のほうを向いている。制服ではなく、白いTシャツと薄いグレーのデニム。素足にクロックス。そして、両耳に大きなヘッドホン。 観光客でもなく、サーファーでもなく、ただ何かを聴きながら、海を見ている。 凛は無意識にカメラを向けた。 ファインダーの中で、彼の輪郭が夏の光に溶けていた。


 藤木蒼介(ふじきそうすけ)は、音楽部の三年生だった。

 といっても、吹奏楽でも軽音でもない。「音楽部」という名前の、部員三人の小さなクラブ。活動内容は各自が作曲した楽曲を学期末に発表する、というものだ。実態としてはほぼ個人活動で、蒼介は放課後の音楽室を一人で使って、ピアノを弾いたり、ノートに音符を書き連ねたりしていた。


 その日、蒼介が江ノ島にいたのに特別な理由はなかった。ただ、行き詰まっていた。


 夏の終わりにある部内発表に向けて、三ヶ月かけて曲を書いていた。構成は決まっている。メロディもある。なのにどこかが違う。弾くたびに、何かが足りないと感じる。その「何か」が何なのか、音楽室の中にいるとどうしても分からなくて、外へ出た。


 電車に乗って、気づいたら江ノ電に乗り換えていた。江ノ島駅で降りて、橋を渡って、とくに目的もなく島の入り口まで来て、壁の上に座った。


 ヘッドホンから流れているのは、今書いている曲の録音だ。スマートフォンで弾き語りを録ったもので、音質は悪く、ピアノの音はくぐもっていて、自分の声はか細い。それでも繰り返し聴いている。どこが違うのか、聴けば分かるかと思って。


 波の音が、ヘッドホン越しにも薄く聞こえてくる。


 蒼介はふと、ヘッドホンを片耳だけ外した。


 音楽が止んで、海の音が入ってくる。波が砂を引きずる音。遠くでサーファーが叫ぶ声。橋の上を渡る観光客の足音と、笑い声。風。


 なんだ、と蒼介は思った。


 ここに全部ある。


 凛がシャッターを切ったのは、彼がヘッドホンを片耳外した瞬間だった。


 後から確認したら、ピントが少しずれていた。でも、光の入り方が良かった。逆光で横顔が暗くなって、その分ヘッドホンの白いイヤーカップが光を反射している。背景の海がぼんやりと白く飛んでいて、彼だけがシルエットとして浮かんでいる。


 悪くない写真だと思った。


 でも撮ったことに気づかれたら気まずいな、と思って、そっとカメラを下ろした。


 橋を渡って島のほうへ歩いていくと、彼の横を通り過ぎることになる。目を合わせないようにしようと思いながら歩いていたら、向こうが先に顔を上げた。


「写真部?」


 突然話しかけられて、凛は一瞬固まった。


「……えっ、あ、はい」


「俺の写真、撮ってましたよね」


 やっぱり気づかれていた。凛は少し焦りながら、「すみません、消します」と言おうとしたら、彼は首を振った。


「消さなくていいです。良ければあとで見せてほしいくらい」


 そう言って、少し笑った。

 凛はその笑い方を、すぐに誰だか分かった。


「……あの、もしかして、音楽部の藤木先輩ですか」


 蒼介は目を丸くした。


「知ってるの?」


「去年の文化祭で演奏されてたの、聴きました。ピアノ」


 それは去年の秋のことで、凛はたまたま音楽室の前を通りかかって足を止めた。廊下に音が漏れていた。派手な曲ではなかった。でも、どこか引っかかって、扉の小窓から中を覗いたら、ピアノの前に一人の男子が座っていた。


「……ああ」


 と蒼介は言った。


「あれ聴いてたんだ」


「好きだったので、覚えてました」


 蒼介はしばらく黙って、それから壁の上を少し横にずれた。


「座る?」


 二人は並んで、海を見た。

 凛は蒼介の一年後輩で、蒼介は凛の顔を知らなかった。でも同じ高校の生徒だと分かると、なんとなく話は続いた。


「何撮るの?」


 と蒼介が訊いた。


「部長からは好きな場所を撮れ、って言われたんですけど、よく分からなくて。とりあえず海に来ました」


「海、好き?」


「好きかどうか……あんまり考えたことないです」


 凛は少し考えて、


「でもここに来ると、何かが整う気がします」


 蒼介は少し黙った。


「分かる」


「先輩は何しに来たんですか」


「行き詰まって、ね」


 蒼介はスマートフォンを見た。


「曲作ってて、どこかが違う気がして、でも何が違うか分からなくて」


「それで江ノ島まで?」


「来たら分かった気がした。たぶん、足りなかったのは音楽室の外の音だったんだろう」


 凛はそれを聞いて、ヘッドホンを見た。


「さっきヘッドホン外してましたね」


「うん。外したら波の音がして、あ、これだって思った」


「波の音が入るんですか、曲に」


「そういうわけじゃないけど……インスピレーション、みたいな」


 凛は頷いた。うまく理解できたとは言えなかったけれど、何となく分かるような気がした。部屋の中でファインダーを覗いていても撮れない何かが、外に出ると見えることがある。


「先輩の曲、夏っぽくないですね」


 と凛は言った。


「え?」

「文化祭のやつ。七月に聴いたんですけど、冬みたいだなって思って」


「冬」

 蒼介は繰り返した。


「なんで冬だと思った?」


「なんか、空気が薄い感じがして。冬の朝みたいな」


 蒼介はしばらく黙っていた。風が来て、凛の髪が横に流れた。


「わかる人にはわかるんだね」


 と蒼介はやがて言った。


「十二月のイメージで書いたから」


 七月の海の上で、二人は十二月の話をした。


 その日以来、二人は特別に仲良くなったわけではなかった。


 廊下で会えば会釈くらいはした。一度、図書室で隣の席になって、五分ほど話したことがある。それくらいだった。


 でも凛は、ヘッドホンをつけた蒼介の横顔が頭の中に残り続けていた。


 あの写真を現像して、写真部の課題として提出した。指導の先生には「構図が甘い」と言われた。確かにピントはずれていた。でも凛は、その写真が一番好きだった。


 蒼介の顔は暗くてよく見えない。でも、片耳のヘッドホンと、その向こうの光る海が、何かを物語っているように見えた。何を物語っているのかは、うまく言えなかった。


 写真には言葉がない。音もなければ匂いもない。だから分からないことが残ってもいい、と凛は思うようにしていた。


 そして八月になった。


 学校は夏休みに入ったが、凛は写真部の合宿で海沿いの宿に泊まっていた。三日間、朝から晩まで写真を撮り続ける。浜辺で、路地で、漁港で、灯台の上で。


 二日目の夕方、一人で砂浜を歩いていたら、人影を見つけた。


 砂浜の端、テトラポッドの影に、ヘッドホンをつけて座っている人がいた。


 見間違えるはずもなかった。


 凛は近寄ろうか迷って、結局そっとカメラを構えた。今度はちゃんとピントを合わせた。夕日の光が赤くて、彼の白いTシャツが橙色に染まっていた。ヘッドホンのコードが砂の上に垂れていた。


 シャッターを切った。


 その音が聞こえたのか、蒼介がこちらを向いた。


「また撮ったね?」


 と彼は言った。笑っていた。


「すみません」


「謝らなくていいって言ったじゃないですか」


 先輩後輩なのに、蒼介はなぜか「ですます」で話す。凛も合わせてそうなっていた。

 凛は近くの岩に腰を下ろした。


「合宿ですか?」


「いや、一人で来た。曲がほぼできたから、仕上げる前に聴きに来た」


「波の音を?」


「うん」


 蒼介はヘッドホンを首にかけた。その瞬間、かすかに音楽が漏れてきた。凛の耳には届かないくらいの音量だったが、確かに何か流れていた。


「それ、今書いてる曲ですか」


「そう。田川さんに言われてから、変えたから」


 凛は目を丸くした。「私が何か言いましたっけ」


「冬みたいって言ったでしょ。空気が薄い感じがするって」


「それで変えたんですか」


「足りないものが分かった気がして」


 蒼介は少し遠くを見た。


「あの曲は確かに十二月のイメージで書いたんだけど、冬だけじゃなくて、冬に向かっていく秋の気配も入れたかったんだと思って。だから今、書き直してる」


 凛は何も言わなかった。


 ただ、自分の一言がそんなふうに作用したことが、不思議だった。写真と音楽は違う。でも、外の空気から何かを受け取るという点では、似ているのかもしれなかった。


「発表、聴きに行ってもいいですか」と凛は言った。


「もちろん」と蒼介は言った。


「ぜひ」


 夏休みが終わって、九月になった。


 写真部の課題展示が廊下に貼り出された。凛が提出したのは五枚組で、すべて江ノ島と湘南の海を撮ったものだった。一枚目は橋の上から見た海。二枚目は参道の路地に差し込む光。三枚目は夕方のテトラポッド。四枚目は波打ち際に残った足跡。五枚目は——逆光の中のヘッドホンの少年。


 最後の一枚は、最初に撮った七月の写真だった。


 先生には「ピントが甘い」と言われ続けたが、最終的に展示には入れた。一番好きだったから。


 その廊下を、蒼介が通りかかったのは偶然だった。


 足を止めて、五枚の写真を順番に見た。最後の一枚の前で、しばらく動かなかった。


 自分だと気づいたかどうか、凛には分からない。凛はちょうど廊下の反対側から歩いてきて、蒼介が写真を見ているのを見つけた。足を止めたが、声はかけなかった。


 蒼介は一度だけ、その写真を振り返るように見て、それから歩き去った。


 凛はしばらくその場に立ったまま、写真を見ていた。


 音楽部の発表は、九月の終わりだった。


 体育館の端にある小ホールで行われる小さな発表会で、観客は数十人ほどだった。写真部の友人を誘って、凛は一番後ろの席に座った。


 蒼介の出番は最後だった。


 スタインウェイではなく、学校の古いアップライトピアノ。それでも蒼介が弾き始めると、音が変わった気がした。


 曲は静かに始まった。右手だけのメロディが、低音の和音に支えられてゆっくり動く。秋の朝みたいな、光の入り方が細い感じ。凛は最初の数小節で、あの夏の砂浜を思い出した。


 中盤、曲が少し動く。波のように音が重なって、また引いていく。波の音ではないけれど、波の気配がある。そういう音楽だった。


 終盤、メロディが高音に移って、じわじわと静けさの中に消えていく。消えるのに、寂しくなかった。どこか清々しい終わり方だった。


 拍手が起きた。


 凛も手を叩きながら、ああ、と思った。


 これは今年の夏だ。


 七月の橋の上で出会って、八月の砂浜で話して、それが音になった。自分はその一部だったのかもしれない、とぼんやり思った。たぶん大した一部ではない。でも、何かを渡した気がした。



 発表のあと、小ホールの外の廊下で、蒼介と話した。


「聴いてくれてたんですね」


と蒼介は言った。


「もちろんです。約束しましたから」


「どうでした?」


 凛は少し考えた。「今年の夏みたいな曲でした」


 蒼介は目を細めた。「それ、最高の感想」


「冬から秋になってました」


「変えた甲斐があった」


 二人はしばらく廊下に立っていた。


「先輩、来年どうするんですか」と凛は訊いた。


「音楽の学校を受けようと思ってる。まあ、どうなるか分からないけど」


「絶対受かると思います」


「なんで」


「あの曲を書けたんだから」


 蒼介は少し笑った。「田川さんが来年も写真撮ってたら、また見たい」


「来年もいますよ、私は」


「そうですね」


 と蒼介は言った。


「そうか、来年も会えますね」


 なんでもないような言葉だった。でも凛にはその言葉が、橋の上の風みたいに、一瞬だけ強く吹いて、すぐ通り過ぎていった。



 十月になって、蒼介は本格的に受験勉強に入った。


 音楽室に姿を見せなくなり、廊下で会う機会も減った。凛は相変わらず写真部に通い、週に一度は海に行って、シャッターを切り続けた。


 ある日、現像した写真を並べていて、気づいたことがある。


 海の写真が増えていた。それ自体は以前からだ。でも最近の写真には、人の気配が入ることが多くなっていた。サーファーの遠い影。砂浜に並んだサンダル。橋の上を歩く人の後ろ姿。


 以前は風景ばかり撮っていた。


 何かが変わったのかもしれない、と凛は思った。何がとは言えなかった。ただ、カメラを向けるものが、少し変わった。


 十一月の半ば、図書室で蒼介と会った。


 受験参考書を積み上げて、蒼介は窓際の席に座っていた。凛が隣の席に教科書を広げると、蒼介が気づいて小さく手を挙げた。


 二人は並んで勉強した。話はほとんどしなかった。一時間ほどして、凛が先に立ち上がった。


「邪魔してすみませんでした」と小声で言うと、蒼介は首を振った。


「全然。落ち着いた」


「受験、頑張ってください」


「ありがとう。写真展、あったら教えてください」


「来られますか? 受験中なのに?」


「行ける時間があったら、行く。絶対に行く」


 それきり蒼介は参考書に視線を戻した。凛は図書室を出て、廊下を歩きながら、スマートフォンをポケットから出した。


 蒼介とは連絡先を交換していなかった。


 交換すればよかった、と思ったが、引き返すのも変だと思って、そのままにした。


 冬になった。


 受験シーズンで三年生はほとんど教室にいなくなった。蒼介とはほぼ会わなくなった。凛はそれを寂しいとは思わないようにしていた。先輩と後輩で、少しだけ同じ海を見た、ただそれだけの話だと思っていた。

 写真部の冬の課題が出た。


 テーマは「時間」。


 凛は江ノ島に行った。七月に初めて蒼介を見た橋の上に立って、同じ角度で海を撮った。夏とは光が違う。青さの種類が違う。波の立ち方も、風の強さも、全部違う。


 でもここは同じ場所だ。


 凛はシャッターを切りながら、あの日のことを思い出していた。橋のたもとに座って、ヘッドホンを片耳外した横顔。空気が薄い感じがする、冬みたいな音楽。砂浜の夕日の中で、曲がほぼできたと言っていた声。


 五枚撮って、カメラを下ろした。


 潮の匂いがした。夏より鋭く、少し冷たい。


 凛はその匂いを、しばらく吸い込んでいた。


 三月、卒業式の翌日、凛は海に行った。


 特別な理由はなかった。ただ、なんとなく行きたかった。


 橋の上を歩いていると、向こうから誰かが来た。


 お互いに気づいたのは、すれ違う直前だった。


「田川さん」


「先輩……あ、卒業おめでとうございます」


「ありがとう。今日も写真?」


「はい」


「受かりました、音楽学校」


 凛は思わず顔がほころんだ。


「やっぱり」


「やっぱりかどうかは分からないけど、受かった」


「よかった」


 蒼介は海のほうを見た。風が強くて、髪が乱れた。


「ここ、また来ますよ」


「東京から遠くないし」


「来てください。私もまだしばらくここで撮ってます」


「写真展、結局一度も見に行けなかった」


「また機会があれば」


「あったら教えてください」


「今度こそ」


 凛はカメラを持ったまま、「連絡先、交換しますか」と言いかけて、やめた。


 代わりに、「次は約束を破らないでくださいね?」と言った。


 蒼介は頷いて、じゃあ、と言い、橋を渡っていった。

 凛はその後ろ姿をしばらく目で追っていた。

 カメラを構えようとして、やめた。今日は撮らなくていい、と思った。


 橋の上で、風が吹いた。


 潮の匂いがした。


 海は相変わらず光っていた。蒼介の後ろ姿は、観光客の流れに混ざって、やがて見えなくなった。


 凛はしばらくそこに立っていた。


 胸の中に、何かある気がした。名前をつけようとして、うまくつけられなかった。悲しいとも嬉しいとも違う。ただそこにある、確かな何か。


 写真に撮れないものが、世界にはある。それが分かった気がした。今年の収穫は、それかもしれない。


 凛は橋を渡り始めた。


 波の音が、ずっと聞こえていた。


読んでくださってありがとうございます。評価いただけると、やる気が増します。;;

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