第1節:掃除婦と呼ばれる日々〜メガベンチャーの「後宮」で、最底辺の清掃員として生きる凛子の隠居生活。〜
第1章 給湯室の薬膳マスター
第1節:掃除婦と呼ばれる日々〜メガベンチャーの「後宮」で、最底辺の清掃員として生きる凛子の隠居生活。〜
「ちょっと、そこ。邪魔よ」
鋭いヒールの音が、大理石の廊下に響く。
声をかけてきたのは、光り輝くようなキャリアウーマンの一団だった。
「申し訳ございません」
私、森下凛子は、持っていたモップを抱えて壁際へ寄る。
深く頭を下げ、彼女たちが通り過ぎるのを待つ。
ここはメガベンチャー企業「クジョー・イノベーション」。
急成長を遂げたこの会社は、今や「社内後宮」と揶揄されるほどの派閥争いの真っ只中にあった。
社長である九条蓮の寵愛——つまり出世や評価を巡って、エリート女性社員たちが日々、熾烈な足の引っ張り合いを演じている。
「ふん、掃除婦は廊下の端を歩くのがマナーでしょうに。総務部の教育はどうなっているのかしら」
通り過ぎざまに投げつけられた言葉。
私は無表情のまま、心の中で「答えを決めない/保留する」というスタンスを保った。
かつての私なら、この屈辱に震え、倍返しのプランを練っていただろう。
でも、今は違う。
私は前職の広告代理店で、文字通り「24時間戦い」、そして心身を完全に壊した。
あの時の私は、命を削って数字を追い、他者を蹴落とすことでしか自分の価値を証明できなかった。
適応障害で倒れ、山奥の祖母の元で薬膳とハーブを学び、ようやく「苦しみから外れる」ことができたのだ。
今の私のモットーは「絶対に頑張らない」。
ここは、隠居生活のための静かな戦場(の端っこ)なのだ。
「……さて。お掃除の続きをしましょうか」
私は給湯室に入ると、まずは空気を入れ替えた。
ここは私にとっての聖域。
社員たちのドロドロとした情念が渦巻くオフィスの中で、唯一、中立でいられる場所。
私は自分用に、小さな水筒からハーブを出す。
今日は、少し喉がイガイガする。
「板藍根」に、少しの甘草とミントを加えて。
お湯を注ぐと、透き通った香りが給湯室に満ちる。
この瞬間だけは、私の心は「今ここで整う境地」に近づくことができる。
深夜、誰もいなくなったオフィス。
私は最後の手入れを終え、給湯室で自分用の一杯を淹れていた。
その時だった。
「……いい香りだな」
背後からかけられた低い声に、私は肩を跳ねさせた。




