神様だって癒されたい
青いモザイクタイルを足の指でなぞる。ところどころ金箔が散りばめられたそれは、家族代わりの巫女が愛用するトルコランプによく似ていた。
もうもうと立ち込める蒸気に息苦しさを覚え、ふうと息をつく。
足湯から立ちのぼる花の香りが胸いっぱいに広がり、無意識に頬が緩む。入り口の看板によると、ラベンダーの精油入りのアロマ水、らしい。普段は香が焚きしめられた拝殿の中にこもっているから、洋風の香りは新鮮だった。お湯に香りをつけるなんて、人間は本当に面白い生き物だと思う。
「ひゃっ」
天井から垂れた水滴が首筋に落ち、思わず声が出た。
口元を押さえて周囲を見渡す。平日の真っ昼間だからか、他に客の姿はない。
すくめた肩を落として左手で首筋に触れる。折れそうなほど細い腕には汗の粒がいくつも浮き、降り注ぐ橙色の間接照明の光で淡く色づいていた。
視線を足湯に落とし、水面に映る自分を眺める。頭頂部でお団子にした艶やかな黒髪に、那智黒のような瞳。体型はやや痩せ型。歳はおそらく……二十代の女性に見える。
現世に顕現したのは数百年ぶりだが、うまくいってよかった。そうでなければ、こんな風にミストサウナを堪能できなかっただろう。もし精神体のままだったら、頭に乗せたタオルが宙に浮いて見えるはずだ。たちまち令和の怪談が生まれてしまう。
昔と違って、神の姿をはっきりと見える人間は少なくなった。神仲間には「その方が気楽でいい」というものもいるが、こと私に限っては、できる限り人の輪に混じっていたかった。依代が人形だから、他の神よりは人の思考に近いのかもしれない。
幸いにも歴代の宮司と巫女が見鬼――人ならざるものが見える体質だったので、話し相手には困っていない。神が消える時は完全に信仰が廃れた時だ。いつ終わるともしれない孤独に耐え続けなければならないかと思うと、それだけで気が滅入る。
大阪の東の方。生駒山脈の麓にひっそりと広がる八ツ森町の氏神、八ツ森ノ神。それが私の名前だ。
始まりは嘉祥三年。巫女の高校の教科書によると平安時代の最初の頃になる。当時はまだ村ともいえない規模の集落だった八ツ森の住民たちが、地震で倒壊した古木から作り上げた人形を御神体として八ツ森神社を創建した。
生まれたばかりで朧げな形しか持たなかった私を神と呼ぶ氏子たちの切実な表情は今でも覚えている。何しろ明日を生きるにも事欠く時代だ。健康長寿を願うのは必然と言ってもよかった。
それから一千年以上の長きにわたり、氏神として働き続けている。いつの間にか健康長寿だけではなく、縁結びまで仕事になったのは閉口したが、それも可愛い氏子たちのためと思えば頑張れる。
ただ、コロナ禍になってからというもの、氏子――特に若い世代の氏子の参拝は目に見えて減ってしまった。
神社の運営は氏子たちの寄付金と参拝者の初穂料で成り立っている。つまり参拝者が減れば、手入れも行き届かなくなる。社務所の老朽化はもはや隠せていないし、朱塗りの鳥居はところどころ塗料が剥げてきた。この分だと、来春の例大祭の開催も危ぶまれるかもしれない。
そんな中、巫女が爪に火を灯すような思いで節約して貯めたお金で送り出してくれたのが、ここ、都会のど真ん中に開店したばかりのスーパー銭湯だった。
周りは高層ビルばかりという立地に関わらず、温水プールやジム、食事処などもあり、朝から晩まで楽しめる施設だ――と、近所の大神社の祭神にすすめられ、「一度でいいから行ってみたいなあ」とこぼしたのを巫女が聞いていたのだ。
『いつも働き詰めなんですから、たまにはリフレッシュしてきてください。これから年越しで忙しくなるし』
日々の暮らしもカツカツなのに申し訳ないと思う反面、笑顔で送り出してくれた気持ちに胸が熱くなる。
私の姿が見えなくても、「八ツ森様が喜んでくれるなら」と多めに寄付をくれた氏子たちにも感謝しかない。
「私は幸せな神よね……」
しみじみと頷いた時、かすかに眩暈がした。サウナにこもって十分。そろそろのぼせてきたようだ。
扉を開けると、ひやりとした風が頬を撫でた。冷房が入っているわけではないだろうが、中との温度差で涼しく感じる。サウナを出てすぐ右手には水風呂、左手には籐の長椅子が並べられている。水風呂で汗を流した後、休憩するためだろう。
年配の――といっても、私に比べたらみんな若者だが――氏子たちが言うには、サウナ、水風呂、休憩を何度か繰り返すことで、脳と体が「整う」らしい。
とはいえ……禊でもあるまいし、水風呂に浸かるのはなかなか勇気がいる。試しに足先だけ浸けてみて――やめた。とても入れる気がしない。高齢者は極端な温度差に気をつけなさいとテレビでもやっていたし、ここは戦略的撤退をしよう。
心の中で言い訳をして、近くに備え付けられていたシャワーを浴び、長椅子に寝転ぶ。
サウナよりも若干明るめの照明が優しく私を見下ろしている。籐の硬さも疲れた体をしっかりと受け止めてくれて、とても心地がいい。頭の向こうには洗い場と内湯が広がっていて、きゃいきゃいと楽しそうな声が響いていた。
それにしても、すごい時代だと改めて思う。
巫女が持つスマホもそうだが、ついこの間まで何もなかった埋立地にこんな立派なものを作り上げるのだから人間って本当に侮れない。よくは知らないが、今は機械が相談に乗ってくれる「えーあい」なんてものもあるそうだ。
神により意見は違うが、私は人に寄り添うために神が生まれたと思っている。えーあいがその役目を果たすなら、そのうち神なんていらなくなるのではないだろうか。
「……っくしゅ!」
つらつらと詮無いことを考えているうちに体が冷えたらしい。間抜けなくしゃみに恥ずかしさを覚えつつ、長椅子から降りて湯船に向かう。
浴場内を見渡すと、近所の銭湯とは違って比較的若い客が多かった。左から時計回りに岩風呂、日替わりハーブの湯、ジェットバス、寝転び湯、シルキー風呂、炭酸風呂……となかなか種類が豊富だ。一番奥の壁には富士山の代わりに桜吹雪が舞う映像が流れていて、そのお洒落さに圧倒されてしまう。
とりあえず手近な岩風呂に浸かり、人心地つく。心が落ち着くと頭もはっきりしてきたらしい。周りの会話が明瞭に聞こえてきた。
「あー! またマチアプ不発に終わってもうた〜! こうなったら神頼みしかないわ! どっか、ええ神社知らん?」
その言葉を発したのは、対面の炭酸風呂に浸かる若い女性だった。氏神のサガで、そっと耳をそばだてる。すると、隣で目を細めていた友人らしき女性が上気した頬で答えた。
「ああ、せやったら八ツ森神社がええで。彼氏が八ツ森に住んでんねんけど、私と付き合えたんはそこにお参りしたからやって言うてくれてさ〜」
「何やねん、のろけか? ムカつくわ〜!」
ひょんなところで氏子の関係者に出会ってしまった。ばしゃ、とお湯をかけ合う姿を見ながら、ぴくぴく震える頬を必死で引きしめる。
えーあいが進化しても、まだまだ神の需要はあるみたいだ。彼女らの周りからも、仕事の愚痴を漏らしたり、老親の健康を心配する声が聞こえる。
――何よ、今も昔も変わらないじゃない。
どれだけ時が流れても、人が生きる限り悩みは尽きない。そして、癒しを求めるのは人も神もきっと同じなのだ。
顔が熱いのは、きっとお湯のせいだけではない。ともすれば緩む口元を隠すように、お湯に深く身を沈め、ふふ、と息を漏らした。
***
「はー……一時間以上も浸かっちゃった。気持ち良すぎて危うく寝ちゃうところだったわ」
浸かりすぎてシワシワになった手のひらをさすりながら階段を上がる。化粧室に備え付けられていた高級ドライヤーのおかげで、ご自慢の黒髪はさらさらだ。普段使うことのない化粧水や乳液で肌も一層ツヤツヤしている気がする。
このスーパー銭湯は一階が浴場、二階がお食事処やくつろぎスペース、三階がジム、屋上が屋外プールになっている。目指すは二階のお食事処だ。そう長くない階段を上り切ると、左手にお食事処、右手にマッサージの受付所が見えた。
受付所の看板には背中を指圧された女性が至福の笑みを浮かべた写真が載せられている。お風呂で体を温めた後、ああしてほぐしてもらえたら、それこそ高天原に昇る気持ちになるだろう……が、いかんせん懐具合は芳しくない。
マッサージと食事なら迷わず食事をとる。食事処の入り口に近づくと、愛想の良い笑みを浮かべた女性店員が二人掛けのテーブル席に案内してくれた。
注文はスマホでするらしい。スマホは巫女のを借りてきたし、最低限の操作はあらかじめ予習してきた。テーブルには懇切丁寧に注文方法を書いた紙も置かれていたので何とかなりそうだ。
しかし、強敵は他にいた。
「メニューに載っているの、全部おいしそう……。でも、ふぃっとちーねって何? 似ているけど、パスタとは違うの?」
日本語を読めて、スマホで注文ができても、メニュー名が何を意味しているのかよくわからない。巫女のおかげでイタリアンや洋食が神饌に上がることも珍しくなくなったが、私が食べた覚えがあるものといえば、ナポリタンかミートソースぐらいだった。
調べようとも、ネット検索の方法までは教えてもらっていない。スマホを手に頭を捻っていると、先ほどの店員が近寄ってきて、「フィットチーネはパスタの種類の一つですよ」と教えてくれた。いつもの細麺とは違い、平べったい形状で、もちもちして食べ応えがあるらしい。
「じゃあ、それにしよ。かるぼなーらセットが一つと……飲み物はせっかくだからワインにしようかな。考えたら、いつも日本酒ばっかりで洋酒は飲んだことないのよね……」
つつがなく注文を終え、ソファに背を預ける。他の客たちみたいにスマホはいじらない。下手に触って壊すのが怖いからだ。
お食事処は思ったよりも広く、奥には団体用のお座敷もあるみたいだった。
「今度は巫女や氏子たちとも来てみたいなあ……って、氏子たちは見えないから無理かあ」
取り止めのないことを呟きつつ、ほのかにレモンの香りがする水を飲んだり、猫を模した配膳ロボットに目を丸くしたりしていると、厨房の奥からお待ちかねのものが運ばれてきた。
チューリップ型のグラスに半分ほど注がれた白ワインに、秋らしくカボチャを使用したカルボナーラパスタ。それに、たっぷりサーモンが乗ったサラダとふわふわの丸パンだ。見るだけで口内に唾が湧いてくる。
はやる気持ちを抑えて白ワインを一口含む。日本酒とは違う酸味と甘味が舌に広がり、一気に気分が高揚する。続いてパスタを頬張れば、ここはもう楽園だ。ゆっくり食べようと思うのに、あっという間に皿が空になっていく。
――ああ、なんておいしいの。あの子たちにも食べさせてあげたかったわ。
両目から涙がこぼれそうになり、フォークを握ったまま乱暴に拭う。長い神生、飢饉には何度も見舞われてきた。必死の祈りが届かずに氏子たちを看取ったことも一度や二度ではない。今はもうそんなことは滅多にないとわかってはいるけれど、こうして実感すると感動もひとしおだ。
本当に、いい時代になったのね。
パンでソースを一滴残らず拭い取り、しっかり胃袋に収納する。
机上のスマホに表示された時刻は十八時半。そろそろ夜の帷が降りる頃だ。あまり遅くなれば巫女が心配するだろう。
不意に泣き出したからか、こちらを気遣わしげに見つめる店員に微笑みを返して一階に戻り、館内着から巫女に借りたワンピースに着替えた後、会計に向かう。
これから帰る人間と仕事終わりにひと風呂浴びたい人間とで、フロントは少し混雑していた。とはいえフロントの女性も慣れているのか、さほど待たずに順番が巡ってくる。
新しい紙幣には慣れていないので少々手間取ったものの、フロントの女性が補助してくれたおかげで、無事に支払いを済ませることができた。……支払額が印字されたレシートを見ると、物価の上昇をひしひしと感じる。
「ご利用ありがとうございました。こちら下足箱のキーと、次回お使いいただけるサービス券です」
手渡されたのは、一ヶ月後まで使える千円引きのお食事券だった。元値が少々お高いとはいえ、これを使えばほとんど利益が飛んでしまうのではないだろうか。
「まだ一回しか来ていないのに、どうしてこんなに良くしてくれるの?」
思わず本音をこぼした私に、フロントの女性は満面の笑みで答えた。
「お客様は神様ですから」
大きなリュックを背負っていたから、肩がびくりと揺れたのには気づかれなかったようだ。
もしかして正体がバレたの? まさか見鬼?
ドキドキしながら礼を言い、そそくさとその場を立ち去る。震える手で下足箱から靴を取り出していると、さっきの女性が他の客に同じ文言を告げているのが聞こえた。
「よ、よかった。定型句なのね。――でも、なんだか嬉しい。今までの頑張りを認めてもらえたみたいで」
まだ新築の香りがするビルを出ると、空にはたくさんの星が瞬いていた。電灯などなかった頃ほどではないにしろ、都会の真ん中とは思えないぐらい綺麗だ。ガラス張りの壁面に星空が映り込んでいるから、そう見えるのだろうか。
「ええと……。駅はあっちね。たぶん」
秋の風に吹かれながら、多くの人間たちが行き交う中をぶらぶらと歩く。時折、人に化けた人外や喫煙所を探しているらしき神を見掛けたが、見て見ぬふりをした。
大阪駅は迷路みたいに広くて大きい。頭上の案内板を確認していると、ポケットに突っ込んだスマホからピロンと音がした。邪魔にならないように端に寄り、送信者を確かめる。
猪戸寝子――巫女からだ。彼女のスマホは私が持っているから、あいぱっど、とやらから送っているのだろう。『リフレッシュできましたか?』という一文に口角が上がる。
そうだ。まだ少しお金が残っているから、あの子の好きな豚まんでも買って帰ろう。そして共にちゃぶ台を囲み、今日一日の話を聞いてもらうのだ。
巫女や氏子たちのおかげで、とても癒されたわよ――と。
「よーし、明日も神様頑張ろう!」
高い天井に突き出した右手は煌々と灯る明かりに照らされて、湯上がりの肌のように艶やかに輝いていた。
神様だって癒されたい!
ということで、スーパー銭湯を堪能していただきました。
八ツ森は所帯くさい神ですが、これは現世の神だからです。高天原の神々は人間に対してドライなところがあります(私の作品の中では)。
↓登場人物まとめ
八ツ森ノ神 千歳越え
八ツ森町の氏神にして土地神。ご利益は健康長寿と縁結び。長生きなので結構力は強い。人間が大好き。
猪戸寝子 15歳
八ツ森神社の巫女。陸上部所属。猫は好きだが、自分の名前は正直気に入っていない。常に冷静なクール系女子。




