第1話:追放勇者、心を閉ざす
降りしきる冷たい雨が、鉄錆びた血の匂いを鈍らせていく。 レオン・アークライトは、ぬかるんだ泥水の中に膝をついていた。服に染みた雨水が体温を奪い、指先の感覚はとうにない。 目の前には、まだ息のある魔族の子供がいる。震える小さな肩。その奥で、昨日まで仲間だったはずの者たちが、歪んだ熱量を持つ憎悪の「音」を奏でていた。
「立て、レオン! なぜ殺さない!」 聖騎士ガレスの怒声が響く。鍛え上げられた声帯が発する「正義」の音は、雨音を切り裂くほど鋭い。だが、レオンにはできなかった。 スキル《共鳴》が、恐怖に怯える魔族の子供の「音」を、断末魔の叫びとなってレオンの鼓膜に叩きつけるからだ。
『死にたくない』 『痛い』 『寒い』 『怖い』
「……っ、ぐ……ぁ……!」 頭蓋を内側から万力で締め上げられるような苦痛。敵の苦しみも絶望も、区別なく自分のものとして流れ込んでくる。これが、彼が「敵を殺せない勇者」と呼ばれる所以であり、「戦闘に不向きなハズレスキル」と蔑まれる呪いだった。
「見損ないましたわ、レオン様」 恋心を抱いていたはずの魔術師セリーヌが、濡れた前髪をかき分け、裏切られた悲劇のヒロイン然とした「音」を纏い、涙ながらに叫んだ。その声は雨に濡れて妙に艶めかしく響く。 「あなたは……あなたは、魔族に与した裏切り者です!」
『違う』。レオンは声なき声で反論する。 お前の心の「音」は、違うことを言っているじゃないか。 ――(私の醜い嫉妬や独占欲を、この男に知られるのが怖い。ここで排除しなければ。私の“完璧”が壊れてしまう)。
「その力、神の教えに反する異端なり」 神官リュシアンが、濡れた法衣の裾を忌々しげにつまみ上げながら、冷徹な「音」で宣告した。 ――(神託でもないのに真実を見抜くその目。俺の権威を脅かす存在。消えろ。消えてしまえ)。
ああ、そうだ。 俺にはずっと聞こえていた。お前たちの、ドス黒く濁った本音の「音」が。 ガレスの「理想だけでは誰も守れないという焦り」。セリーヌの「歪んだ恋慕と恐怖」。リュシアンの「神への不信と、俺への嫉妬」。
仲間たちの心の醜さを知覚しながら、それでも彼らを信じようと戦ってきた。だが、それも今日で終わりだ。
「光の勇者」の称号は剥奪され、レオンは使い古された剣も、魔法の加護が込められた防具も、すべて奪われた。 ただの薄汚れた布一枚を渡され、雨の中、ただ一人、魔族との境界に近い辺境の街へと追放された。
それから、半年。 アークライト王国の辺境の街「ダスクウォール」。 乾いた埃と、家畜の糞尿の匂いが混じり合う街。 レオン・アークライトは、その名を捨て「ライル」と名乗っていた。日雇いの荷運びで日銭を稼ぎ、埃っぽくカビ臭い安宿の、固く軋むベッドで眠るだけの日々。
「(……また、この音か)」 ライル(レオン)は、夕暮れ時の酒場の喧騒を聞きながら、水で薄められたエールを口に運ぶ。ぬるく、酸っぱい液体が喉を焼く。
酒場の中は、仕事終わりの労働者たちの汗の匂いと、安酒の匂いで満ちている。 酔客たちの下品な欲望、明日への漠然とした不安、店主の客への不満、隅の席で密談する衛兵のタカりの算段。 あらゆる人間の感情が、不快な「ノイズ」として彼の耳に流れ込んでくる。
追放されて以来、彼は《共鳴》を極限まで封じていた。他人の心を「聞く」ことをやめたのだ。 もう誰も信じない。誰の心も読みたくない。 心を読みすぎて、すべてを失ったのだ。信じようとした仲間に裏切られ、守ろうとした民衆に石を投げられた。もう、うんざりだった。
彼は心を閉ざした。 感情の「音」が聞こえてきても、それを「情報」として認識しないよう努める。ただの雑音として聞き流す。 今の彼は、抜け殻だった。最強の「心を読む力」を持て余し、無気力に生きるだけの、ただの「ライル」だった。
「ダスクウォール」は、王都の支配が薄い無法地帯だ。 街は悪徳商会「黒蛇」と、そこと癒着した衛兵隊によって実質的に支配されている。誰もが嘘をつき、他人を出し抜こうとし、強い者には媚びへつらう。 街全体が、歪んだ「不協和音」を奏でているようだった。
その日、ライルは仕事を終え、近道である薄暗い路地裏を歩いていた。陽が落ち、建物の影が濃くなったそこは、汚水と残飯の酸っぱい匂いが漂っている。 「おい、嬢ちゃん。いい加減にしろよ。その『本』を渡せって言ってんだ」 下品な男たちの声。またゴロツキのいざこざか。 ライルは壁に背を預け、面倒事が過ぎ去るのを待とうとした。関わるつもりは毛頭ない。
だが、その時だった。 ライルは、奇妙な「音」に気づいた。 ゴロツキたちの「強欲」と「焦り」の騒がしい音に混じって、一つだけ、場違いなほど静かな「音」が聞こえる。 それは、少女のものらしかった。 (……音が、静かすぎる?)
普通、これだけ脅されれば「恐怖」や「怒り」の音が激しく鳴り響くはずだ。 だが、その少女から発せられる音は、まるで感情がないかのように静かで、凪いだ湖面のようだった。それでいて、水底には折れない鋼のような芯が一本、通っている。 そんな複雑で、しかし整った「音」を、ライルは初めて聞いた。
「いいから、それを寄越せ!」 ゴロツキの一人が錆びたナイフを抜き、殺意の「音」が甲高く響いた。 ライルは思わず顔をしかめる。その下品な殺意のノイズが、彼のトラウマを刺激した。
「(やめろ……)」 口に出すつもりはなかった。だが、体が勝手に動いていた。 彼は《共鳴》をほんの一瞬だけ解放し、ゴロツキたちの意識を「読んだ」。 (狙いは、あの少女が抱えた……『古い本』?)
なぜ本などを? 疑問が浮かぶと同時に、ゴロツキの一人が少女に掴みかかろうとした。 ライルは、足元に転がっていた石ころを、無意識に蹴り上げていた。
カツン、と乾いた音が響き、石はゴロツキたちの背後の壁に当たって跳ね返った。 「あ? 誰だ!」 ゴロツキたちが一斉に振り返る。 その一瞬の隙。 少女は、ライルが予想だにしなかったほどの俊敏さで、ゴロツキの腕をすり抜け、路地を駆け抜けていった。
「ちっ、逃げやがった!」 「追うぞ!……いや、待て。今の物音は……」 ゴロツキたちはライルの方に気づき、薄暗がりの中、忌々しげに舌打ちした。 「……今日のところは見逃してやる。おい、行くぞ」 彼らはライルをただの酔っ払いか何かと判断したのか、少女を追うのを諦め、大通りへと消えていった。
路地に残されたのは、ライル一人。 彼は、自分が石を蹴った右足を見下ろした。埃にまみれた、履き古したブーツ。 「(……また、聞いてしまった)」 自己嫌悪が、冷たい泥のように腹の底に溜まっていく。 もう二度と使うまいと誓った力。 もう二度と関わるまいと決めた他人の「音」。
あの少女の、奇妙なほど静かな「音」だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
ライルは溜息を一つ吐き、乾いた喉を潤すために唾を飲み込んだ。酸っぱい残飯の匂いが鼻をつく。 彼は壁から背を離し、安宿への道を無気力に歩き出した。陽が完全に落ちた「ダスクウォール」は、白昼よりもなお一層、「音」がうるさくなる。
酒場から漏れ出す酔客の野太い笑い声と、その裏にある「孤独」の音。 裏路地で交わされる密売の「焦燥」と「猜疑心」。 建物の窓から聞こえる夫婦喧嘩の「苛立ち」。 街全体が、熱に浮かされた病人のように、不快なうなり声を上げている。
ライルは《共鳴》を再び固く閉ざし、それらのノイズを遮断する。 (うるさい……) 聞こえるのは、自分の足音だけ。 カツ、カツ、と石畳を打つ無機質な音。それだけが、今の彼にとっての現実だった。
彼が寝床にしている安宿「埃まみれの寝台亭」は、大通りから三本外れた、崩れかけの建物だ。
ギィ、と軋む扉を開け、薄暗い共有スペースを抜ける。カビ臭さと安酒の匂いが混じり合った空気が肺を満たした。 割り当てられた小部屋は、ベッド一つで埋まる狭さだ。窓はなく、壁のシミが廊下から漏れるわずかな光でぼんやりと浮かんでいる。
ライルはブーツも脱がずに、固いベッドに倒れ込んだ。スプリングが軋み、抗議の音を立てる。 (……明日も、荷運びか) 同じことの繰り返し。意味のない、無価値な日々。 かつて「光の勇者」と呼ばれた男の成れの果てが、これだ。
彼は目を閉じた。 頭に響くのは、街の不協和音。 そして――そのノイズの合間を縫うように、ふと、あの少女の「音」が蘇る。 (なぜ、あんなに静かなんだ……?) 恐怖も、怒りも、焦りもない。ただ、そこにある。 まるで、深い森の奥深くにある湖のような、静謐な音。
その「音」は、この半年間ライルが聞き続けた、欲望と欺瞞に満ちたダスクウォールのどの「音」とも異なっていた。 (……いや、考えるな) ライルは無理やり意識を沈めた。 他人の心に興味を持てば、また裏切られる。 もう、あの絶望を味わうのはごめんだ。
翌日。 空は鉛色に曇り、乾いた風が砂埃を巻き上げていた。 ライルはいつものように、港で荷運びの仕事をこなす。重い木箱を背負い、汗を流す。肉体の疲労だけが、余計な思考を麻痺させてくれた。 「おう、ライル! 相変わらず無口だな!」 日雇い仲間の男が、下品な「音」(今夜の娼婦のことしか考えていない)を垂れ流しながら声をかけてくる。ライルは小さく会釈だけして、その場を離れた。
仕事が終わり、日銭を受け取る。 これで今夜の宿代と、黒パン、そして水っぽいエールが買える。 それだけの日々。 のはずだった。
ライルは、無意識に、昨日とは違う道を歩いていた。 街の北側。比較的、治安が良いとされる地区だ。とはいえ、衛兵の「怠惰」な音は変わらない。 彼の足は、ある建物の前で止まった。 「……市立図書館」 看板の文字は擦れ、建物自体も古く、壁にはツタが絡まっている。
街の規模に似つかわしくない、小さな、忘れられたような場所。 この街に来て半年、一度も足を踏み入れたことはなかった。
(なぜ、俺はここに……?) ライルが自問した、その時だった。 ギィ、と古びた扉が開き、中から一人の少女が出てきた。 昨日、路地裏で見た少女だった。 彼女は数冊の古書を抱え、日差しが眩しいのか、少しだけ目を細めている。 そして、昨日と同じ「音」がした。 静かで、整然とした、不思議な音。
少女はライルの存在に気づくと、小さく会釈した。感情の読めない、硝子玉のような瞳。 ライルは、その「音」の正体を知りたいという、自分でも気づかなかった衝動に駆られていた。 心を閉ざし、他者との関わりを絶ったはずの自分の中に、抑えきれない好奇心が芽生えている。 (関わるつもりはない。ただ……確かめたいだけだ) その一心で、ライルは自分がなぜここにいるのかという問いの答えを見つけた気がした。この不協和音に満ちた街で、唯一澄んだ音を奏でる少女。その存在が、彼の閉ざされた心をわずかに揺さぶったのだ。




