希死念慮に満ちた女と、悪魔の話
朝の通勤ラッシュの時間。忙しく足早に過ぎる人、顰めっ面で列を成している人、スマホしか見ていない人、休みなのかラフな格好をした人。軽く見渡しただけでも、多様な人達がひしめく駅のホーム。
その中のひとりが、私だ。特筆することは特にない。どこにでもいるようなOLで、社畜でもなければ、窓際族でもない。ただ日々の業務を粛々とこなし、たまに残業をして。そんなありふれた生活を送る、どこにでもいるひとり。
いつでも、どこにでも代替品がある。
そんな歯車のような存在、それが私だ。ただ他と違って、希死念慮という、欠陥のようなものを抱えてはいるけれど。
行きたくもないが、行かなければ生活が立ち行かない会社に向かう電車の、待機列の最前列でただぼうっと電車を待つ。見下ろすと目に入るのは、線路ではなくホームドアで。安全上のため、ホームドアが設置されてから、何年経っただろう。私みたいな人間が、ホームドアのおかげで死に損なっているのだから、設置しているだけでもかなり効果はあるのだろうなと思う。
ホームドアがない頃は、誘惑に負けそうになることが多かった。すぐそこに、死への片道切符があったのだ。ふら、と足を踏み出して、そのまま。そうやっていなくなる人も、何人もいたのだろう。
——まもなく、電車がまいります。ご注意ください
その機械越しの声に呼ばれるようにして、踏み出した人もいる。実際、私も何度足を踏み出そうと思ったかわからない。
“ゆめうつつ”
呼ばれていると感じたときは、決まってその言葉がふさわしいくらい、頭がふわふわとしていた。ただ、このまま踏み出せば楽になるかもしれないという誘惑が、足を進ませる。けれど、賠償金や遅延で迷惑を被る人達がいるという現実が、進む足を引っ張った。
結果としていつもいつも、警笛を鳴らす電車が目の前を通っていく。そんな朝を繰り返していたのだけれど。ホームドアが登場してからは、めっきりその機会も減った。
しかし、そのかわりなのだろうか。ふとした瞬間に、死への恐怖感が薄れるタイミングがあるのだ。その感覚は日常生活を徐々に侵していく。たとえば、手に刃物を持ったとき。たとえば、高いところから景色を見下ろしたとき。たとえば、お風呂に入っているとき。
たとえば、たとえば、たとえば。
死への昏くて甘い誘惑は、いつだって私にまとわりついて離れない。
だからといって、すぐに死のうとも思えないのだ。瀕死の理性が、小さな声で“死ぬな”と訴え続けているから。ことあるごとに聞こえなくなるくらい、か細い理性の声は、それでもなんとか私の命を留めることに成功しているのだから、すごいのだろうと思う。
そういえば、明確な意思を持って、自死を選ぶ動物は人間だけらしいと聞いた。そのときは、ただ単にへえって思った。今思うと、私が持つこの感覚は、他の動物にはわかりえないのだと感じたときの、感嘆の声だったのかも。
——ただ、でも。今の状況について、言い訳をするのなら。それこそ、魔が差したのだと思う。
びゅうびゅうだか、ごうごうだか、よくわからない風の唸るような音が、聞こえる。いまどき、屋上に住民でもない人間が簡単に立ち入れて、なおかつ、安全策がほとんど取られていない建物なんて、ないに等しいのに。たまたま導かれるようにして、不法侵入を果たしてしまった私は、これ幸いとばかりに囁いてきた希死念慮に、ついに負けたのだ。
(飛び降りた死体って飛び散って汚いんだっけ。なにがとは言わないけれど)
そんな思考をして、来る衝撃に目を閉じて。ようやく終われることにか、自然と笑みが浮かんだ。
——パシッ
そんな軽い音の後。ガクン、と衝撃に襲われた。頭を地面に強かに打ちつけたなら、もっと違う音がするだろう。この感覚は、たとえるならば、車で急ブレーキをかけたときにシートベルトが作動した、みたいな。まるで、引き止めるような衝撃だったのだ。
「人間ちゃん、ひ〜ろった♡」
ゾワっと背筋に泡が立つ。足首を掴む手はひやりと冷たく、足首を一周しても余りあるくらいに大きい。耳朶に触れた声は、うっとりするくらい、心地いい。ベルベットのように艶やかでありながら、綿のようにふわふわとしているようにも感じられる。チョコレートみたいに甘いのに、シナモンみたいな辛さを孕んでいる。そんな、奇妙な感覚を齎す、声。
「……だ…れ…?」
急速に遠退き始める意識の中で、私を生へと引き留めた存在を見上げる。視界がとらえたのは、皮膜のような翼。それは、闇夜を呑み込むような漆黒で、掠れゆく視界でとらえられたのは奇跡だったのだと思う。ただ、人間ではない存在が、目の前にいることだけが、わかって。
「誰?っておもしろいことを聞くね、人間ちゃん。死のうとしてたのに、そんなこと気になるんだ」
確かに。言われてみれば、気にすることも、ない、のかも…しれな……
「まあ、拾ったのは僕だから。なんだっけ、ゴシューショーサマ?とりあえず、今日から僕がキミのご主人サマね♡」