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第2話

 気がつくと喜嶋直斗は、帰路に立っていた。事故など無かったかのように、あの時と同じ夕日の光が世界を赤く染めている。直斗は辺りをしばらく見渡した。人や車も無く、直斗以外の音源は存在しない。入道雲は停滞し、それを運ぶ風さえも身を潜めている。茹だるような暑さも今は感じられない。無音無風の世界は、まるで絵画にでも閉じ込められたかのような不気味さと、静寂による孤独さを直斗に与えていた。

 「とりあえず、家に帰らないと。晩御飯なんだったけな……」


 異様な光景に戸惑いながらも、視界に映る見慣れたものがわずかな安心感を与え、直斗は取り乱さずにすんでいた。辺りに目をやりながら、重く感じる足でアスファルトを踏み締めながら自宅を目指した。程なくして、30mほど離れた先の少し傾いた電信柱の側に、人影があるのに気がついた。その人はおぼつかない足取りで、直斗の方向に向かって来ていた。直斗と距離が相対的に短くなるにつれ、その人の姿がはっきりし始める。その女性の動きを視認できた時、直斗の足は歩みを止めた。直斗の心臓はゆっくりと強く脈動する。女性は左足だけを前に出しながら、角ついた足取りで一歩、また一歩と進み左右に揺れながら近づいてくる。心臓の鼓動がゆっくりと加速し、耳の裏で大きな拍動が響き渡る。女性の全容を確認できた時、心臓が一瞬止まった。直斗の身体から熱が取り払われ、再会した拍動は熱さと強さを伴って、ドクドクと全身を響かせ、額からの汗が頬を伝い始めた。

 「えっ?」


 震える小さい声で疑問を口にした時、急に雨が降り始めた。止まっていた時間が動き出したかのように辺りを暗く染め、雨が重くのしかかる。

 直斗はその女性と目が合っていた。

 

 ヒールを履いた右足は外側に曲がっており、裸足の左足を前に出す度に、ヒールを引きずりながら歩いている。歩く度に垂れ下がった手や黒い長髪は揺蕩い、隙間から蒼白な顔が直斗を覗いていた。スーツに点在する無数にある褐色の染み。止めどなく流れる血液は体の先端に向かって流れ、ポタポタと溢れ落ち続けていた。


 網膜に焼き付いて忘れるはずが無かった。あの時の、あの女性だと認識した瞬間に、音にならない声で震える唇で謝罪の言葉を発した。

 ごめんなさい。

 

 アスファルトを引っ掻くヒールの音が少しずつ大きくなっていく。

 カラッ……カラッ…………カラッ、カラッ……カラッ……


 音が聞こえる度に総毛立ち、直斗の動悸が激しくなる。浅い呼吸を何度も繰り返し、目からは涙が伝い始める。踵を返して走り出そうにも、石像の様に体が固まり、自由に動かすことができなくなっていた。

 動け、動け、動け。何で、何で、何で。


 涙と脂汗が身体中から吹き出しながら、何度も発した。その言葉は声になることは無く、青ざめた唇を震わすだけだった。


 10m、5mと距離が消えて行く。直斗は女性を直視しながら、何度も、何度も何度も同じ言葉を反芻し始める。

 ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


 女性の嗚咽が聞こえてくる。水を含んだ声は所々に曖昧さをもたらし、唇からポタポタ垂れる血は時折り、吐き出される様に地面に血痕を残した。

 「゙あ……ぎ……だ…………、ど、ご……ぬ…………の……。あぐ……だ…………どご……゙い……の……」  


 直斗は浅い呼吸で、涙を流しながら繰り返し謝り、ただただ女性が近づくのを見つめることしかできなかった。女性が一歩、一歩と近づいて来る。直斗の身体に起こる変化はだんだんと激しくなり恐怖をより煽り出す。

 

 ヒールの音がすぐ近くで鳴った。女性の瞳孔が開いた暗い目が目の前に来た時、直斗の心臓は血管がはち切れんばかりに強く、早く拍動を繰り返し、浅い呼吸が苦しさを増していく。女性は口元だけ不気味に微笑むと、ポタポタと滴る青白い腕を、慄然とした直斗の肩にゆらりと伸ばした。沈黙の中、直斗の耳には激しく降る雨の音だけが悲しく響き渡る。


 急に、直斗の服の裾が強く引かれ、半身の体勢になった。目に突然強い光が入り、その光の眩しさに直斗は強く瞼を閉じた。

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