湖の魔物1
バシャっと大きな音を立てて宙に飛び上がったのは、人の腕くらいの大きさの魚だった。ただ、普通の魚ではない。大きく開けた口にはおよそ魚とは思えない牙がズラリと生えている。
(カミツキウオか)
カミツキウオはモネたちが陸にいるにも関わらず、一直線に向かってきた。
「おねがいできますか」
モネが一歩下がると同時に、ラウルが前に出た。直後、二人の眼前に魔法防壁が現れ、水面から飛び上がってきたカミツキウオたちが勢いよくその魔法防壁に跳ね返される。陸に落下したカミツキウオはビチビチと地面の上を飛び跳ねていた。これでもう襲ってくることはできないだろう。
しかしモネはさっと弓をかまえ周囲を見渡した。
(どこかにカミツキウオを操っていたものがいるはずだ)
カミツキウオが自発的に陸上へ飛び上がってくることはない。そんなことをしても彼らには何のメリットもないからだ。ただの自殺行為である。
魚は自殺しない。
となれば、カミツキウオを操っていたものがいるはずなのだ。
(どこだ)
モネは素早く視線を動かしあやしいものを探す。
すると、湖の沖にある岩に何かいるのが見えた。遠くて見えにくいが、あれは。
「人魚……?」
とそのとき、がたっと近くで物音がした。モネがちらと物音のした方に目を向けると、さきほど独りでクレープを食べていた男が立ち上がって湖を見つめていた。男はひどく驚いた様子でクレープを落っことしてしまったことにも気づいていない。
まあ無理もない。モネだってこの目で人魚を見るのははじめてである。
モネは湖面の岩に視線を戻した。直後、人魚と思しきものは水の中へもぐってしまった。
「この湖、人魚が棲んでいるんだな」
ラウルがビチビチ飛び跳ねているカミツキウオを避けながらモネの隣へやってきた。
「ラウルさん。今日はこの辺りで野宿しませんか」
「ここで?」
「ええ」
「俺は構わないが。ずいぶんやる気満々だな……ひょっとしてさっきの人魚が気になっているのか?」
「はい。だって人魚の肉を食べると不老不死になれるんですよ」
「ちょっと待ちなさい。おまえ人魚を食べる気か!?」
「……」
「何で黙る。おいこら目を背けない。駄目だからな。人魚を食べるなんて」
「…………冗談です。私だって条約のことくらい知ってますよ」
人間と人魚の間には、互いに不可侵の条約があった。
「ならいいが。おまえのは冗談に聞こえないんだよ。まったく」
まあ食べるか問題は置いておいて、あの人魚に話を聞いてみる必要はある。カミツキウオに襲われた直後に人魚が現れたとなれば、一番に疑わしいのはあの人魚である。人魚は水棲の生き物を操る力があると言われているのだ。
「人魚を探す方法はあとで考えるとして、まずは晩ご飯ですね。今夜はあれで我慢しましょうか」
モネは手をすり合わせながら後ろをふり返った。そこにはギラリと牙をむき出しにしてこちらを睨んでいる魚の姿。
ラウルはモネの視線の先を確認すると、一歩後ずさる。
「おまえ本気か……」
「晩御飯にちょうどいいでしょう」
モネがカミツキウオの調理に夢中になっている間に、いつの間にかクレープの男は姿を消していた。
焚火であぶったカミツキウオを頂いたのち、モネとラウルは湖岸を歩いて人魚の手がかりを探すことにした。
「ここに人魚がいるっていうのは学園の人たちはみんな知ってるんですか?」
「いや、少なくとも俺は聞いたことがないな」
ではあの人魚はいつからこの湖に棲みついているのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、湖岸沿いに苔むした岩を発見した。
「ちょっと見に行ってみるか」
近くまで行って明かりで照らすと、その岩はどうやら碑石のようだった。文字が刻まれている。
「読めませんね」
「俺もこの文字は知らないな」
モネとラウルが碑石の前で首を傾げていると、後ろから声が聞こえた。
「そこに書かれているのは昔話よ」
モネとラウルが驚いて振り返ると、湖の沖にある岩からこちらを見つめている女がいた。
月光に照らされた女は、なめらかな肌に冴え冴えとした瞳をもち、きらめく白銀の髪を風になびかせていた。そしてその下半身には宝石のような鱗がついている。
「あなたは昼間の……」
モネの言葉を、人魚はまるで聞いていない様子で続ける。
「それは大昔にいた人魚のお話よ。人間に恋をして泡になった、馬鹿で哀れな人魚のね」
「泡になったとはどういうことですか?」
「本来、人魚と人間は相容れないもの。なのにその物語の人魚はあろうことか人間の男に心を奪われてしまった。そして結局恋は叶わず悪い魔女に騙され、泡になって死んでしまったの」
「それが俺たちを襲った理由と関係があるのかな?」
「そういう悲劇をくりかえさないようにするためよ。あなたたち人間は私たちにとって毒。でもそれを分からず人間に憧れて人間になりたいと望んでしまう人魚がいるのも事実。とくに人間の恋人たちに憧れる馬鹿な人魚はときどきでてくるわ。人魚にとって人間の恋人たちはあまりにも輝いて見えるから」
「しかし条約のことはあなたも知っているだろう。これは条約違反になる」
「少し脅したくらいで大袈裟ね。条約を持ち出すなら、そもそも人間をこの湖に近寄らせないで。私たちは関わるべきじゃない。それがあなたたちにとっても、私たちにとってもいいことなのよ」
そこまで言うと、人魚は暗い湖の底へと消えていった。
「これはもう立ち入り禁止にするしかないかな」
人魚の消えた水面を見つめながら、ラウルがつぶやいた。
条約がある以上、こちらとしても人魚たちを討伐するわけにはいかない。人魚の口ぶりからすると、人を近づけなければそれ以上悪さをするつもりはないようであるし、一番穏便にすませようと思えば立ち入り禁止が妥当なところだろう。
「でもそうなったら今回のクエストは失敗ですよね」
「まあそうなるな」
モネとしてはこのまま終わるのは嫌だった。中途半端にするのはモネの性分に合わないし、なによりここまで来て何の報酬も手に入らないというのは釈然としない。
なんとかあの人魚に嫌がらせやめさせることはできないだろうか。
モネはもう一度人魚との会話を思い返した。
(あの人魚は本当に人間と関わりたくないのだろうか)
それにしては人間の言葉をあれほど流暢に話せるというのは不思議だ。言葉とはその向こうにいる相手と関わるためのものなのに。
それに彼女の言っていた。
「人魚にとって人間の恋人たちは輝かしく見える」
という言葉はまるで……。
「ラウルさん。もう少しだけ、試してみたいことがあるんですけど」
モネはある人物を探すため、昼の食堂で張り込んでいた。
昼は時間がないので外に食べに行く学生はほとんどいない。つまりここで待っていれば目的の学生に会える可能性が髙いということだ。
「あっ」
モネの思惑どおり、探していた人物が食堂へやってきた。
モネは気合を入れてその人物に近づく。いつもなら知らない人に声をかけるなんて絶対しないことだが、クエストのためならやむをえない。本当はこんなときこそ魔神級の社交スキルをもつラウルがいてくれればよかったのだが、彼もああ見えて忙しいらしかった。
「あ、あの……!」
モネが声をかけると、男は目をぱちくりさせた。モネは一瞬メガネを外す。
「君は…………昨日湖にいた女の子?」
「そうです。実はお話ししたいことがありまして」
男が首を傾げる。
「あの人魚のことで」
男は困った様子だったが、最終的には提案を受け入れてくれた。
二人は食堂の隅のテーブルについて、食事をしながら話をすることにした。
まずは互いに自己紹介をする。
男は名をフレドといい、高等科の三年生ということだった。
「それで、僕に聞きたいことってなにかな?」
「実は、フレドさんとあの湖にいた人魚との関係を、お聞きしたいなと」
「関係……」
フレドは口にするのをためらっているように見えた。もう少し突っ込んだことを聞いてみることにする。
「もしかして、フレドさんとあの人魚は恋人同士なんじゃないですか?」
「な、どうしてそう思ったんだい」
「彼女が人間の言葉を話せるのは、人間に興味がある証拠です。それに彼女、『人間の恋人たちは輝いて見える』と言ったんです。そんなの、彼女自身が思っていなければ出てこない言葉です。あとはあなたが彼女を見ていたときの顔つきから、あなたとあの人魚が恋仲なのかなと思ったんです」
「これはまいったな。君はたった一度会っただけの相手のことをそこまで見抜いてしまうんだね」
フレドが感嘆まじりに言った。
「フレドさん。あの人魚との関係を教えてくれませんか」
「……君に嘘はついても無駄そうだし、正直に話そうか。確かに僕は彼女に、リステルに特別な感情を持ってる。だけど……彼女が今どう思っているかは分からない」
「お二人はどうやって出逢ったんですか?」
「二年前くらいかな、湖のほとりで魔物に襲われている彼女に出会ったんだ。そのときその魔物を僕が追い払って彼女を助けたのがきっかけだよ。それから度々湖で会うようになって、僕はリステルに惹かれていって。ここ二年の間はほぼ毎日、彼女に会いにいってたんだ。彼女も僕に会うのを楽しみにしてくれていた。だけど一ヶ月ほど前から、僕が湖に行っても出てきてくれなくなったんだよ」
「何かきっかけが?」
「いや、ほんとに何の前触れもなく突然だったんだ。もしかしたら僕が嫌われるようなことをしたのかもしれないけど。でもそれならせめて理由を知りたくて、昨日も湖に会いに行ったんだ。だけど僕だけじゃやっぱり出てきてくれなかった……嫌われてしまったんだろうね」
リステルは本当にフレドさんのことを嫌いになったのだろうか。
(むしろその逆じゃないのか)
おそらく彼女は恐れているのだ。
自分もあの碑石の人魚のように、泡になる運命なのではないかと。
「フレドさん。もう一度彼女に会いたい気持ちはありますか」
「それはもちろん! でも、リステルはもう僕には……」
「私に考えがあります。うまくいけばお二人を会わせてあげられるかもしれません」
「ほんとうに?」
「ただその前に、彼女を襲っていた魔物について教えてもらえますか?」
「ああ、うん。あれは確かノロイノワグマだったよ」
「そうですか。分かりました。では明日、ともに湖へ参りましょう。私はそれまでにもろもろの準備を済ませておきます」
モネは明日に思いを馳せ、不敵に微笑んだ。
翌日、モネはラウルと一緒に湖に向かった。
湖にたどり着くと、モネはカバンからある物を取り出した。
「今度は何を持ってきたんだ?」
ラウルが興味津々に見つめる先、モネの手にはアメノマスという魚がいた。
「今日はこれを焼きながら人魚を待ちたいと思います」
言いながらモネはさっそく焚き木に火をつける。
「待ち時間をつぶすためにわざわざアメノマスを持ってきたのか?」
「ダメですか」
「いやダメじゃないけど。だったらクレープのほうが……」
ざぱっと波の音がした。顔を上げるとそこにはリステルが波打ち際までやってきていた。
「あなたたち、ほんとうに懲りないわね。そんなに死にたいのかしら」
リステルは蔑むような目でモネたちを見つめる。
「男女が一緒にいるだけで恋人と決めつけるのは早計ではないですか。それに今日やってきたのは私たちだけではありませんよ」
出てきてください、とモネが林に向かって叫ぶと、木の陰からフレドが姿を現した。
「どうして、彼が」
「リステル。僕は君を絶対に泡になんてしないよ。だから……」
「ふふ、ふふふふ……何を言い出すかと思えば。私が泡になるなんて考えたの? 思い上がりもいいところだわ。私がそんな馬鹿な女に見えて? もし泡になるならあなたの方よ、フレド。少し遊んであげただけでこんなことまでして。本当に馬鹿な男」
「僕は昔話なんて気にしない。種族が違ったって別にかまわないじゃないか。こうやって話ができて触れ合えるならそれだけじゃダメなのかい」
「この際だから教えてあげるわ。そんなお人好し丸出しで生きていたら騙されて損をするだけよ。フレド。お人好しというのはね、搾取されていることにも気づかない馬鹿の生き方のことをいうの。今のあなたみたいに」
「君が搾取しているというなら僕はそれでもかまわない。僕だって君からいろんなものをもらってるんだから」
「はあ……あなたみたいな人間は痛い目に合わないと分からないのね。だったら私が……」
とリステルの言葉は、林の奥から聞こえた轟音にかき消された。
「何だ!?」
その場にいた全員が暗い林の奥を見つめる。