水面のむこう
川沿いの町に引っ越してから、眠りが浅くなった。
原因はわかっていた。夜ごと、窓の外から聞こえてくる水音だ。流れの音ではない。もっと近く、もっと生々しい……水をかき分けるような、誰かが泳いでいるような音だった。
「川、よく見えるでしょう」
近所に住む老婦人、野沢さんが言った。
「この家は昔、渡し守の家だったんですよ。ここから川の様子をずっと見張ってたそうです」
佳子は曖昧に笑ってうなずいた。
川は家のすぐ裏にあった。
護岸の石段を降りれば水面まで数歩。流れは穏やかで、水鳥がゆったりと浮かんでいる。昼は実にのどかな風景だった。
けれど夜になると、川は表情を変える。
月が出ていない夜など、真っ黒な油のようになり、風もないのに水面がざわめいているように見えることさえあった。
引っ越してから十日目の夜、また音がした。
ざぶ……ざぶ……
耳元で囁くようなその音に、つい窓を開けてしまった。
──人影が、川の中央に立っていた。
水面は膝のあたり。なのに、その人影はまるで浮かんでいるように見えた。風もないのに長い髪が揺れている。佳子はなぜか、それが「こちらを見ている」と直感した。
慌ててカーテンを閉めた。
翌朝、川べりに降りると、足跡があった。
誰かが水から上がってきたかのように、石段に濡れた跡が点々と残っていた。
「見たんですね」
野沢さんが、ぽつりと言った。
「昔ね、このあたりでは“川のむこう”と呼ばれてたの。川の向こう側じゃなくて、水のむこう側。水の底には人が住んでて、ときどき“通り”に来るって」
佳子は聞き返せなかった。
あの夜以来、水音は聞こえなくなった。代わりに、夢の中に川が現れるようになった。
誰もいない水面。けれど、その下に何かがいると感じる。
うごめく気配。微かな囁き。
それは毎夜、少しずつ近づいてきている。
ある夜、夢の中で手を伸ばした。
水面に触れると、それは鏡のように静かに割れて、中から“こちら”に手が伸びてきた。
──佳子が消えたのは、それから間もなくだった。
引っ越してきたばかりの若い女性が失踪した、と町で話題になったが、警察の捜査は川べりの足跡を見て「夜間に転落した可能性がある」と報告した。
ただ、不思議なことに、家の裏手の石段には佳子の足跡ではない、もう一組の小さな濡れた足跡が上へ向かって続いていた。
それは、誰かが水の底から、夜の通りに上がってきた痕跡のようだった。