ⅱ 十六年の報復
『私は「楽園」で育った。金持ちの家庭ってだけなのに、父はそう呼んでいる。
よく覚えていないが、私は父の不倫相手の子供らしい。不倫相手は人魚で、空を飛んでいる姿に一目惚れしたとか。
人魚が空を飛ぶなんてオカシナ話だけど、直感的に、たぶんこれだけは嘘じゃない。
不倫相手と言ったが、正確には父が引き起こした不同意性交の被害者だ。それまでにも数回、被害者を父は生み出している。
なんなら私も従わなかったら殴られたりした。まったく、生きていて悪影響しか及ばさない人間もいるのだな。
こんな犯罪者と離婚しないのが、私の義母。いわゆる犯罪を揉み消してくれる義母への依存と、顔がよくて義母だけには甘い父への共依存ってやつだろう。そりゃあ『楽園』とも呼ぶようになるわ。
義母は働き者の弁護士で、犯罪の怖さを伝えるインフルエンサーもやっている。共犯者なのに。犯罪者が犯罪の危険について語るのも慣れてしまった。
そんな義母は、顔が可愛くなく家族の誰にも似ていない私が、大嫌いで大嫌いで仕方がない。
別に私は私の顔が嫌いじゃなかったし、なんなら大嫌いな両親に似なくて嬉しかったまである。
でも、高校生になる前、久しぶりに話した義母から、整形の提案を受けた。
「金ならたくさんある。学生時代のバイトで稼いだ残りも山程。だから私に顔を似せる整形をしない?そうすれば家族らしくなれると思うの。」
今更家族らしくとか吐き気がした。やっと私に口を開いたと思ったら、私は私の顔を捨てなきゃいけないなんて、反吐が出る。
私は整形に対して今まで好印象抱いていたが、それが善意によって黒く塗りつぶされることになった。
高1の冬、私は断りたかったが、断ったら父がどんなことをしてくるかわからなかったため、嫌々了承して、整形手術を受け、その後転校することになった。
消毒の匂いが充満する手術室。私は自分を失う怖さで泣き出してしまった。執刀医は、一度中断しようとしてくれたが、両親が続けてといったら「まだ君は未成年だし、親の意見を聞いていいかな?」と半強制的に再開した。
未成年という理由だけで、意見はこんなにも通らなくなるのだ。
未成年と保護者なら、保護者の意見が優先されるのはあたりまえ。だって人生経験が豊富だから。
でも、今回のは私の意見がけなされた理由が分からなかった。
手術が終わり、起きたのは数時間後。暗い病室に、顔に縫われた糸の感覚。すべてが初めてで、なぜか知っている気もした。
少しづつ気持ち悪くなる。視界が歪み、頭が重くなる。
次の瞬間、私は病室を点滴台といっしょに飛び出していた。
すぐに夜勤の医者が気づいて私を捕まえる、何とか振り払って逃げる、それの繰り返し。どこに逃げたいとか、なにから逃げたいのか、よくわからなかった。とにかく逃げたかった。
窓に追い詰められ、医者は「それ以上はだめ、早くこっちに」と近づいてくる。
私は何も考えずにそのまま窓から飛び出した。
ここは六階、落ちたらイノチはない。そのことに今更気付いて、走馬灯が流れる。今までの暮らし、勉強が得意で人気はない私。適度な友達と優しい先生。だけど縛られてはいけないものに縛られている。つまらない人生だ。大体、何で私はここにいるのだろう。死ぬつもりなんてないのに、悪いことしてないのに。
やり直したい、やり直したい、この記憶を持ったまま、間違わないように、生きたいという思いを行動に移せるように。
地面にやけにでかいマンホールが見える。私なんてすっぽり入る大きさだ。
昔、聞いたことがある。井戸の先には冥界があるとじゃあ、マンホールは?同じく地下にあるじゃないか、なにか楽園かなんかあるんじゃないか?』
「あっ、それ以上はだめよ。そこからは未来のページ。」
彼女に止められ、私は本を閉じる。
「普通みんな泣いたりするのに、あなたは泣かないのね。」
私は本当に泣いていないのか気になり、頬を触ってみる。手が傷に触れて痛んだだけで、涙の一滴も流れていない。
あの物語が私だという実感が沸かなかった。あれが私じゃなくたって悲しんだりしていい気がするが、そういう哀れみとか慈しみが一切ない。なぜだろう。記憶が一度なくなったら感情も忘れるのだろうか。
「実感が、沸かないんです。私って薄情ですか?」
「…それでいいのよ。『経験』がそのことを知っていたから、何も思わなかっただけ。それに、感情がなくなったならもう一度作ればいいしね。」
そう言って健気に笑う。私はその笑顔を忘れないために名前を聞くことにした。
「あの、あなたって誰ですか?」
「契約管理塔の天使。ルークよ。あなたの名前は決まったかしら?」
「はい、一応…厨ニ感ありますけど…。」
「そのくらいでいいじゃない、分かりやすくて。紙に書いといてね。いろいろ用意してるから。」
私は鈍色に輝くペンを握り、たった一文字。軽い筆跡で書き上げた。
やり直す前の私へ、十六年不幸だった報復よ。今はもう他人事みたいだけど、生きてる間は忘れないでやるからありがたく思え。
「ルークさん、できました。」
『I』と名前の欄に書かれた紙を、私は昔の私の背中を押すように、ルークさんに渡した。