目醒め
まばゆい光が射し込んできて、男はたまらず目を開いた。枝葉の隙間から陽光がこぼれてきている。枝葉は黒々としており、それはどうやら日陰になっているからではなく、炭のような表皮によるものらしい。男はしばらくの間、ぼんやりと宙を眺めていた。
「わ、わ、え、すご」
鳥のさえずりのような、うわずった声が聞こえてきて、男は意識をはっきりとさせた。咄嗟に起きあがろうとするが、自由に体が動かない。何か重いものが自身をぴったりと覆っているのに、それを持ち上げる血肉をすっかり失ったような奇妙な感覚だった。体の中心から外側へと広がっていくような感覚もあったが、それは体を動かすのに十分ではなかった。辛うじて腕を震わせると、がちゃりと金属質の重たい音がした。相当な重鎧を纏っているらしい。
「意識ははっきりしてて、身体機能は……まだ馴染めてない、のかな、えっと、どうしよう」
高揚と不安を帯びた声の主は、男の顔を覗き込んだ。深く被られたフードの切れ目から真白い虹彩が微かに光り、黒い髪と、チェーンに結ばれた精巧な方位磁針がこちらに垂れ下がってきている。若い女のようだ。フードの下に何かを被っているかのように、頭は上部に膨れている。男は声をかけようとするが、洞窟の中を反響するような、くぐもった唸り声しか出ず、それが意味を成すことはなかった。
「え、えっと、最初はうまく体を動かせないと思いますけど、じきに「礎石」の力が巡ってくるので、そうしたら動かせるようになりますから、は、母が言っていた分には……」
女は男を気遣った後に、ふいに背を向けて、ついに、ついに……と、喜びを噛み締めている様子で呟いた。
「母さん、私はついにやりました……!」
女は打ち震えて、今にも飛び上がりそうなのをこらえて、男に向き直った。
「えっと、状況を手短に説明しますと、私さっきまで追われてて……」
女が言葉を紡ぐのを待たずして、彼女の背後から触手が伸びてきて、巻きつき、あっという間に連れ去ってしまった。
男はしばらく、彼女の落ち着かない様子や、その言葉を反芻していた。じきに体を動かせると言っていたが、いつになるのか、そもそも、彼女は自分の体に何かをした様子だったが、何をしたのか、それは彼女の父親と母親に関係が……
男はふと、自分にも家族がいるはずだということに思い当たった。しかし、彼らのことを一切思い出せないのであった。兄弟姉妹はいたのか、父親と母親の顔は、そもそも父親と母親がいたのかさえ。そして、虫食いの縁をなぞっていくように、住んでいた場所、いたかもしれない友人、生業、自らについての全てが頭からごっそりと抜け落ちていることを自覚した。眼前の墨色の枝葉が、そのゆらめきとざわめきを増していく。思考がその行き先を失い、外界にこぼれ落ちていく。
「あの人を追わなければ」
気を失いそうになるのを、すんでのところで押しとどめた。そして、体を動かすことに集中する。相変わらず空に向けて固定されている頭を横に倒す。見渡す限り、黒々とした木々が生い茂り、鈍く光ったガラス質の黒い石が点々とした、灰色の土が広がっている。ただ、木々の隙間から降ってくる空の模様だけが見慣れた様相を呈している。血が巡ってくるような、じわじわとした感覚が胸から広がってきて、弱々しいながらも、手足に力が入るようになる。上体を横に倒し、腕に力を込めて、やっとの思いで立ち上がった。古い金属のような、がちゃがちゃとした音を立てながら。自らの体を見回すと、思った通り重い金属の鎧を纏っているようで、黒い土埃と、傷んだ布地のマントで全身を覆っているさまは戦死者の遺体のようであった。兜を脱ごうとしたが、びくともしない。まるで、兜が頭に縫い付けられてしまったかのようである。兜の軋む音が、頭の中で鳴り響く。男はぞっとして、身体中のあちこちを叩き回すと、どの場所からも空洞に響くような音がするのである。震える手で、兜の、斧で乱雑に切り開かれたような覗き穴の縁をなぞり、一思いに手指を押し込んだ。あるべきはずのものは、そこにはなかった。
愕然として、またもや意識を喪失しそうになる。しかし間断なく、男の脳裏にある光景が浮かび上がってくる。件の女が木に磔にされ、複数の奇怪な人影がそれを囲っていた。濃紺の外套で全身を覆い、頭巾から覗く顔は、青ざめ、てらてらと光り、より恐ろしいことに、人の顔にあるはずの器官を全て喪失していた。代わりに、首に幾らかの切れ込みがついていた。
「主よ、我らの啓示を受け給え、成し給え」
豪奢な衣装を纏い、黄金の冠を乗せたものが、祝詞のようなものを唱えながら前に進み出た。泡立つような唸り声であったが、その意味するところを理解することができた。ローブの下で無数に蠢いている触手のうちの一本がそろりと伸び、女の顎をくいと持ち上げた。
「おお、美しく、そして忌まわしき、異啓を抱く者よ、とうとう捕まえましたよ」
触手は女の顎を離れ、女の被っていたフードをひっかけ、するりと取り去った。後頭部からは鈍く光る角が伸びており、中途で二又に分かれ、それぞれが半円を描き、先端はあと少しで接合するかというところにあった。遠目には、女の後頭部に円が浮かんでいるようにも見える。そんな女の様態を見て、あるものは剣幕を見せ、あるものは崩れ落ちた。女は捕虜というよりも、狩人に囲まれた猛獣といった有様だった。少なくとも、周囲の反応からは。
「皆、恐れるなかれ」
怪物たちの長は、再び女にフードを深く被せ、仲間を宥める。
「此奴が我々から逃げる一方だったのは、この地にもはや此奴の啓者の祝福が届かず、我らに歯向かう術がないからです。そうでしょう?」
そう言いながら、女の顔を覗き込む。女は何も答えず、顔を背けようとする。
「まあいいでしょう」
冠から、淡く青光りした指状の組織が顔を出した。
「直接覗き込んでしまえばわかることです」
怪物の長の、青い血の流れた指先が、深く閉じられた女の瞼をなぞり、入り込まんとしたその時、女が何かを叫んだ。男は音の集合をたしかに聞き取ったが、意味するところを理解することは叶わない。ただ一つわかったのは、それが回文を耳にした時のような、奇妙な不自然さを備えていることだけであった。一瞬の思索をも許さぬ間に、男は怪物と、女の前に立っていた。女はしばらく、呆然と男を眺めていた。それは男も同じであった。枝葉は囁くのをやめ、しんと静まり返り、その空隙から陽光を二人に照らしていた。怪物たちは彫刻のように固まり、不自然に体勢を維持していた。不意に己をあの光景が取り囲んだこと、時が止まったとしか形容のつかない状況に、男は取り乱すのも忘れ、呆然と立ち尽くし、ただ沈黙のみが森を支配していた。
「ごめんなさい」
女によって、その沈黙は破られた。視線はいまだに落ち着かず、自身の行いとその帰結を追いかけている。
「最初は母さんの教えが実現したと思って、嬉しかったんです。でも、私は、なんてことを」
顔を両手で覆う女の姿に、戸惑いと、後悔とを感じとった。
「一体、何が」
男はようやく声を発した、というより、考えたことがそのまま空気を震わせた、とでも形容するべき奇妙な感覚だったが、ようやっと女に意思を伝えた。女はうつむいたまま、時間をかけてことの顛末を語り出した。
「ずっと旅をしてきました。母さんが担っていた使命を代わりに果たすためです。それが何なのかこれっぽっちも理解できていないんですけど、ただ見聞きしたものを記憶し、記録しなさいって……」
おそらく反射的に、首からかけていたあの羅針盤を握りしめる。男の目に印象的だったそれは、母親の遺品なのだろうと理解した。
「母さんはいくつかのまじないを教えてくれて、そのための祭具も残してくれました。あなたの中にあるのもその一つです。でも、でも」
自身の体を見ると、たしかに胸の中央に、白光を放つ結晶のようなものが埋まっていた。
「一度亡くなった人を、眠りから起こすなんて」
女は固く結んだ両の手を額に押し当てた。男にとっては、その答えはますます己の困惑を深めるものだった。
「今、亡くなったって、お、俺は、死んだのか?それに、蘇ったってのか……?」
女へのいたたまれなさも忘れて、肩に掴みかかり、問いを重ねた。
「じゃあ、今の俺の体は、あんたは、何なんだ?教えてくれ、頼む、頼むから、俺にはなんの記憶も残ってない、あんたの言う母さんみてえな人のことも、すっかり思い出せない、たしかに、たしかにいたはずなのに」
思索によって遠ざけていた悪感情が堰を失い、ただただ声となって放たれる。
「頼む、あんたしか、いないんだ……」
力無く、兜を垂れた。女はますます追い詰められたような表情で固まり、深く思考に沈んでいった。しばらくして、女はうなだれ続ける男の様に目をやって、ようやく意思と言葉とを固めた。
「これはあなたに必要な人を呼び出すための遺物だ、母さんはそう言っていました」
男の胸に手を当てながら語り続ける。
「引き裂かれた世界のどこかから、そうするのだと。生死を問わないとまでは思いもしませんでしたが、現にそうなっている。あなたの姿は何よりの証左です。黒錆に覆われた傷だらけの鎧に、実体のない体、おそらく、あなたのその鎧をよすがにして、世界に引き戻したんだと思います。記憶がないのもきっと……」
女は再び考え込んだ。それは困惑というよりも、先に語るべきことを慎重に選び取り、それを伝えようという意志からなるものだった。男はゆっくりと面を上げて、女が次の言葉を紡ぐのを待った。
「あなたのことはどうにかします、母さんの言うことが正しいなら、あなたも世界のどこかにたしかにいたんです、だったら記憶の手がかりは必ず見つかりますし、見つけます、どれだけ時間がかかっても……」
女の顔に差し込んだ日の光がぴくりと動き、女は力を無くし、倒れ込んでしまう。男は咄嗟に女の背に腕を差し込み、支える。世界はゆっくりと動き始める。
「旅を続けたいです。力を……貸して……」
か細い声で男に懇願して、ついに意識を失ってしまう。しかし、その手は固く、羅針盤に結び付けられていた。男は女の両手を覆い、強く握りしめた。
初投稿です。よろしくお願いします。