六、
一九四三年の十二月。俊春をはじめとした学生たちが陸海軍に入隊した。俊春を見送るスイは共に見送りに出た母にぴったりとくっつき彼女の服の裾をずっと握りしめていた。出征する者へ送る激励の言葉を込めた日の丸を手に、俊春は果てしない明日へ向かっていった。
彼へ贈る言葉を求められたスイは日の丸の斜め下に一言だけ記した。「待っているから」単純な一言だが、彼女の想いのすべてを表す言葉だった。
学徒出陣に加え召集令状が送られる対象も増えていく。激しさを増す戦禍の中、スイたち女学生も学業を止めて学徒勤労動員に駆り出されるようになる。
スイの母も工場動員に参加することになり、二人して慣れない作業に心身を消耗させていった。が、弱音を吐いている余裕などはない。スイは同じ立場である仲間たちと励まし合いながら日々を堪えた。
傷つき、ぼろぼろになりながらも前線にいる友や家族を思いながら身を奮い立たせた。
一九四四年を迎えてすぐに京都も無差別空襲の攻撃を受けることとなる。一月一六日の深夜、真っ暗な世界に鮮烈な光が落ちては弾けた。東山区馬町付近のことだった。被災家屋は三ケタを超え、学校に至ってもいくつも大きな被害を受けた。
次はまたいつ爆弾が落ちてくるか分からない。
もはや日本全国のどこにも逃げ場などなく、スイは一秒後には命を落とす覚悟を抱きながら工場に通った。身を切り裂く冷酷な警報に怯えるあまり幻聴と耳鳴りが聴覚を奪っていく。ここ数日の間はずっとそうだ。ズキズキと痛む頭を抱え、スイは急ぎ足で家を目指す。
満足な栄養と睡眠が取れていないからだろう。思考もろくに動かすことが出来なかった。スイは仲間たちの血色の悪い顔を心配していたが、彼女もまた例外なく土色の顔で目の下にはクマが張り付いていた。
少し喉が渇いた。作業の帰り道、その手には空っぽになった水筒が握られていた。
些細な欲望に咳払いし、スイはこの辺りでは目立つ立派な屋敷の前を通る。工場に通う道はその日によって違う経路を選んでいた。ここを通るのはいつぶりだろうか。スイの鈍くなった頭がゆっくりと動く。どこか懐かしい気配に顔を上げる。
見上げればそこは美國家の屋敷だった。ちょうど誰かが玄関の扉を閉めたところだ。人の残像を見つめていたスイの瞳が横に動き、門を捉えた。
「…………うそや」
門を見たスイの手から水筒が落下する。地面に叩きつけられた水筒は虚しく音を立てて転がった。水筒の汚れなど気にしている場合ではない。スイの瞳は門に釘付けになったまま動かない。まるで磔にでもあったかのようだ。
恐る恐るスイは門に近づいていく。庭の奥に見える家に明かりはついていない。
近づいた先に見えてきた美國と書かれた表札の隣に並んだ無機質な札にスイは身体を凍らせた。菊の紋章。譽の文字。
脳が認識した途端スイの身体は膝から崩れ落ちた。膝を強く打ったが痛みは感じない。地面に擦った肌から血が滲む。けれど何も感覚はない。
「うそや……うそや、うそや……‼」
地に這いつくばったスイの口から悲鳴が上がる。通りゆく人々は彼女の異変に気づき目を向けた。数人の男女が放心状態の彼女に近寄る。スイの呼吸は乱れ、過呼吸状態になっていた。首を横に振り、声とは呼べない喚き声が漏れ出てくる。白い息が彼女の表情を隠していく。
「うそや‼ そんな……そんな……‼ いやや‼」
精神が錯乱している様子の彼女を案じた妙齢の女性が傍らに座ってスイの肩に手を置いた。
「お嬢ちゃん、血が出とるよ」
優しい彼女の声掛けもスイの耳までは届かなかった。乾いた瞳でスイは地面を見つめてブンブンと頭を振る。少しくらいの血などどうでもよかった。
「あんた、そないな家の前で泣くなや。軍人さんに失礼やろ」
「こらっ。やめなよ。いいじゃないか、少しくらい」
「あかん。輪を乱してはあかんだ。けったいなことや」
「ええから、あんたは少し黙っときなさい」
スイの後ろで大人たちの声がいくつも飛び交う。スイの背中を撫でる女性は彼らのことを嗜めるような目で見やる。
「原田さんとこのスイちゃんやろ? 家まで送るさかい、今は帰ろ」
地面に伏せるスイに対し彼女はそう囁きかけた。
「おい! 何事だ? なにか問題でもあったんか?」
さっきまでの声とは異なる一段と厳しい声が辺りに響き渡る。女性は脱力して自力で立てないスイを無理矢理に立たせ自分の方に寄りかからせた。
「いいえ。ちょっと貧血を起こしてしまって。家に送って介抱します。おおきに」
女性は笑顔を取り繕い険しい表情の男性に会釈する。スイの視界に彼の靴が入ってきた。大きな足だ。スイはこっそり彼を覗き見る。服装に特徴はない。けれどその射るような目つきは刺々しく、一切の慈悲を感じない。特高警察か。スイは顔を伏せ女性に寄りかかる。
「ごめんなさい。お騒がせしました」
体調が悪いふりをしてぺこりと頭を下げてみせた。彼はスイと女性を舐めるように見た後で「そうか。ならはよ休め」とだけ言い残し去って行った。
「ごめんなさい。もう大丈夫です。家まで一人で帰れます」
「ほんまに? 無理したらあかんよ。遠慮することないよ」
「おおきに。でもほんと、大丈夫です。ありがとう」
スイは女性に向かって大きく頭を下げ踵を返す。女性の心配する声が僅かに聞こえた。罪悪感に苛まれる。辛い想いをしているのは自分だけではない。それなのに。そうだけれども。
道の角を曲がったところで立ち止まりスイは虚ろな目で空を見上げた。彼がこの地を去ってから気づけば一年以上が経っていた。再び会えるその日だけを希望に前を向いてきた。けれど──。
スイの頬に一筋の涙が伝う。非日常に麻痺した心では夢か現実か分からず悲しむこともままならない。
一九四五年の凍てつく冬の日の知らせだった。
美國俊春は敵兵の銃弾を受け、海を隔て故郷を遠く離れた地で戦死した。
家に着くと母は先に帰ってきていた。母は俊春が亡くなったことを知っている様子で、生気を失ったスイを黙って抱きしめた。母の温もりが石のように固まったスイの心を僅かに揺らす。ほんの少しだけ涙が流れた。
悲しみに浸る暇もないことは幸か不幸か。地に足のつかぬまま春を迎える。本物の空襲警報が鳴り響き、この月もまた空を絶望が覆った。
空襲から街を守るために実施した建物疎開。一度では済むことはなく、家がなくなると泣き叫ぶ子どもを横目にスイも心を鬼にして民家を潰していった。正気ではないと頭のどこかでは思う。だが感情を振り払い、皆のためこうせねばと自分を律した。何かをしていないと身体がバラバラに崩れてしまいそうだったのも事実だ。
すっかり広くなった五条通を目にしたスイの感情は無に近づいていく。自分たちは一体何をしているのだろう。忘れかけていた疑念が胸をよぎる。
その日の帰り道、スイは無意識のうちに美國家の屋敷がある通りを歩いていた。先ほど見た荒廃した街並みとは程遠い。ぼうっと門にかかった菊の紋章を見つめていると、スイに気づいたのか玄関から俊春の母が顔を覗かせる。彼女の顔を見るのも久しぶりだ。可憐な雰囲気は辛うじて残っている。が、顔はやつれ、着ている服も以前とは違い継ぎ接ぎだらけだった。
彼女と目が合い、スイは控えめな会釈をする。そこで気づく。庭先にいくつもの箱が置いてあるのだ。無造作に置かれたそれらの箱はぽつんとその場に佇んでいた。不自然な光景にスイは目を瞬かせる。
「スイちゃん。久しぶりね。お仕事してきたの? お疲れ様」
「いいえ。そないな言葉、もったいないです」
スイが首を横に振ると彼女はクスリと笑って門の外まで出てきた。彼女の微笑みに彼の姿を重ねてしまう。スイは咄嗟に目を伏せた。俊春の戦死の知らせから彼女とまともに言葉を交わすのはこれが初めてだ。
「スイちゃん、俊春のこと、良くしてくれてありがとうね。今までちゃんとお礼を言えてなかったでしょう。ふふ。俊春に叱られてしまうわ」
「そんな……! わ、私の方こそ、えらいお世話になって……」
「ふふ。相変わらずスイちゃんは優しい子なのね。ああ。そうそう。ついこの間、これが届いたの」
「え?」
俊春の母は胸に忍ばせていた一枚の布を広げてスイに見せる。
「それ、日章旗……?」
スイは信じられないものをみるように目を大きく広げた。彼女が手にしているのは俊春を送り出した時に渡した日の丸の寄せ書きだ。
「ど、どうしてそれがここに?」
海の向こうで命を落とした彼の私物が帰ってくるとは思ってもいなかった。スイは口をあんぐりと開ける。バクバクと心臓が嫌な音を立て始める。良くない傾向だ。封じていた想いが目覚めぬようにスイはぎゅっと拳を握りしめた。
「偶然なの。戦闘が出来なくなって戻ってきた人がいてね、その人が俊春の最期を知っていたの。私は会っていないのだけれど、お父さんが大阪で会ってきて……それで、これを受け取ったの」
俊春の母の声色は落ち着いていた。息子の死からまだ間もないが、恐らくずっと覚悟していたのだろう。彼女の淡々とした口調にスイの心はザクザクと切り刻まれていくようだった。まだ乗り越えられていない。乗り越えられるはずがない。受け入れることすら拒んでいるのだ。
広げた日の丸には血が滲み、文字が見えなくなっているところもあった。戦地の残酷さを証明する確かな記録にスイの焦点がぶれていく。直視できない。しかし俊春の母は泳ぎ始めたスイの目を引き止めるようにある箇所を指差した。
「この場所だけ血が濃く滲んでいるの。お父さんが言うには、きっと強く握りしめていたからだろうって」
よく見れば確かに濃淡がある。彼女が示した先はどこよりも色が濁っていた。当然、文字も読みにくい。けれどスイには何が書いてあるのかがすぐに分かった。当たり前だ。自分が書いた文字なのだから。
「きっとあの子もスイちゃんに会いたかったはずよ。だから、あなたに感謝を伝えないとあの子に叱られてしまうの」
彼女の瞳に視線を移せばそこには何も映っていなかった。もはや自我を失った瞳にスイはゾッとする。
彼女は落ち着いているのではない。息子の死を受け止めているのでも、その覚悟を持っていたわけでもない。
「処分する前にあなたに話せて良かった」
「しょ、ぶん……?」
彼女の薄い微笑みにスイはごくりと息をのむ。穏やかな雰囲気を纏ってはいるがその目は笑っていない。感情のない人形のようだった。
俊春の母は庭先に積んだ箱に目を向けて頷く。
「そう。俊春の遺品を整理しているの。残しているのは辛いから。とても見ていられない。傍にあると狂ってしまいそうなの。だから仕分けをしてね、捨てるものや寄付するものを選別しているのよ」
彼女の抑揚のない声がスイの耳を通り抜けていく。
「捨ててしまうんですか?」
「ええ。燃やせば暖をとるくらいの役には立てるはずだわ。今は物資も不足しているでしょう。あの子もきっと誰かのためになることを望んでいるわ」
「そんな……」
スイが神妙な面持ちで口を開くと彼女の冷たい視線が胸を刺す。余計なお世話は無用。彼女の決定に口を挟むことは決して許されない。心を失くした彼女の無機質な微笑みにスイは一歩足を引いた。
「じゃあね、スイちゃん。あまりお母様に心配をかけてはだめよ」
「……はい」
踵を返し家に戻って行く彼女の背中にスイは小さく返事をした。恐らくその声も彼女には聞こえていないだろうが。
庭先に出された荷物を茫然と見つめる。俊春の、彼の人生が、分別されて捨てられていく。最初からなにもなかったかのように。残されるのはがらんとした空虚だけ。
スイは瞬きすら忘れていた。
学ぶことを取り上げられ、許されず、手放さざるを得なかった。
学ぶことへの意欲を燃やし未来の目標を語った彼は幻だったのか。
そんなはずはない。彼は確かにここの存在し、学問に、日々のすべてに命を燃やしたのだ。
学問に守られていたはずの彼がなぜこんな目に遭うのか。箱の背後には彼の自転車が力なく倒れている。なぜ、なぜ、何故。
ふと、視線が門の傍に聳え立つ木へと移ろう。彼に出会ったあの日にこの木にとまった蝉が鳴いていた。小さな背中が門をくぐり、無邪気に駆けて行った。
散々に喚いていた蝉の声が耳に蘇る。同時に糺の森で決死の想いを遮った蝉の記憶が視界に広がっていく。もう今は夏じゃない。長い冬を越え、花々が芽吹く春が来た。夏までもまだ時間がある。
「……はる兄」
彼の腕の中で囁かれた願いを思い出す。スイは庭の隅に咲いた雑草の花を見つめ呟く。
「もう、蝉ないてないよ……はる兄……ねぇ、聞こえてる?」
彼女の声に応えるのは無のみ。
身体の奥底から悲しみがこみ上げてきた。ずっと抑え込んでいた切なる想いがもう限界を迎えたのだ。涙を堪え切れなくなり、スイは美國家の屋敷に背を向け駆け出す。外で泣いてはいけない。また誰かに迷惑をかけてしまう。そう自分に言い聞かせ転びそうになりながらスイは真っ直ぐに家を目指した。
扉を開けっ放しにしたまま居間の隅に雪崩込みうずくまる。隅に溜まった埃がスイの息に吹かれて舞う。ネコのように背中を丸めたスイはそのまま床に頭を突っ伏して泣きじゃくった。
大騒ぎをすると近隣に漏れてしまう。あまり大声を出さぬよう息を殺して嗚咽を繰り返した。いつになっても止まらない。とめどなく溢れる哀情に胃がむせかえる。腕を濡らす涙が畳にまで流れ染みていく。
伝えられなかった。もう伝えられない。胸を焦がすほどの苦しみも。天にも昇る幸福も。すべてが虚無となり彼には届かない。
スイが家に戻って一時間が過ぎ母親が帰ってきた。居間の隅から聞こえる胸を裂くようなすすり声に母はそっと寄り添った。
母にすがりつき、スイは頼もしいその瞳に問いかける。
「なあ、彼に好きやと伝えたかった私はわがままやろか? 自分の想いを優先して彼を困らせても良いと思うんは傲慢やろか? 彼を想って泣くことは罪やろか? 好きやった。好きやったんよ。赦されんでもいい。ただ、ただずっと、ずっとそれを言いたかっただけなんや。そやのに叶わんと諦めて逃げるなんてあほや。ほんま、どうしようもなく愚図や……! 愚かなんは私や……!」
母はスイを抱きしめ優しく背中を撫でる。赤子を宥めるように身体を前後に揺らし、「大丈夫や」と声をかけ続けた。
「わがままなんかやない。人を想い慕うだけのこと、なんも罪にならん。誰かの赦しも必要ない。辛かったなぁ。スイ、俊春くんのこと、愛してはったんやな」
母が穏やかな口調でそう言うとスイは堰を切ったように声を上げて泣き出した。
「我慢せんでええ。ちゃんと泣かんと、辛いだけや」
えぐえぐと息を荒げるスイ。母はスイが泣きつかれて意識を落とすまで黙って彼女の背中を撫で続けた。