五、
一九四三年十月一日。在学徴集延期臨時特例が公布され理工科や教員養成学校を除く文科系高等教育学校に在する学生に対する徴兵猶予の停止がなされた。
学生の身分にあった俊春も徴集の対象となり、臨時徴兵検査を受けることとなった。
淡々として。しかし着実に猶予無き時間ばかりが過ぎていく。
スイは検査に赴く彼を見送る両親を見かけた。彼の母は息子の背中が遠くなると両手で顔を塞いで急ぎ足で家の中へ駆けた。喉の奥からこみ上げる激情に怒りすら覚える。やがて怒りは絶望に変わり、スイはしばらくの間その場から動けなかった。ただ地面を見下ろし、過ぎ行く人々に本音を悟られぬことを祈った。
口にすることも許されぬ苛立ちがスイの心を極端に消耗させる。
戦い方もたいして分からぬ者すらも吸い上げられてしまうなんて。
もはやそこに希望を見出すのは、いくら空想が得意と言われようともスイには困難なことだった。
俊春と顔を合わせる回数もめっきり減ってしまった。彼を待ち伏せすることも母に止められ、無駄な寄り道はしないようにと厳しく叱られたことも要因の一つだ。
しかし一番は、入隊の準備に加え彼自身も家族と過ごす時間が増えたことが大きい。幼い頃から両親との時間を持てなかった彼に今になってその機会が与えられようとは。あまりの皮肉にスイは胸が引き裂かれる想いだった。
彼らの時間を邪魔する資格などない。そもそも彼に会ったとしてかける言葉を知らない。本心を語れと言われれば滝の如く言葉は流れ出てくるだろう。けれどそれを言うのは彼らにしてみれば侮辱と大差はない。
かといって嘘をつくのも嫌だ。召集令状を受け取った彼に告げた偽りの言葉一つすら悪夢となって自分を呪い続けるのだから。
一方の俊春はスイに対して変わらぬ温情を捧げてくれる。街で偶然出会うことがあれば、一寸違わぬ笑みを向けて他愛もない日常を語り掛けてくる。愛しいはずのその微笑みがスイの心臓を締め上げた。以前の高揚感とはまるで違う。
胸に蔓延る罪悪感が恨めしかった。大好きな彼の顔を見ることが怖くなる。現像したばかりの写真が入った封筒片手に帰宅する彼を見たある日から、スイは俊春に近寄ることすら出来なくなってしまった。
「今度な、壮行式があるんやって」
十一月を迎え学生たちの入隊が迫る中、スイは兄が徴集されたという女学校の友人の話を思い出す。
壮行式と言えば先月に東京の明治神宮外苑競技場で行われた国主催の壮行会が記憶に新しい。秋雨の中堂々たる行進を見せた彼らの勇姿が脳裏に蘇りスイは身震いをする。ついに時が迫っているのだ。俊春の悠然たる笑顔が瞼の裏に霞む。
「……あかん、あかんよ」
自らを抱きしめスイは真っ青な顔で家を飛び出した。憎らしいほどの快晴。いざ戦に向かわんとする掲示を睨みつけ、スイは俊春がいるはずの大学へ急いだ。学友たちと語らうため、ここのところ俊春は大学にいることが多いと母から聞いていたためだ。
呼吸すら惜しみスイは全速力で道を駆ける。途中、数人の通行人と衝突しかけた。しかし謝っている暇はない。叱責を道に残し、スイは昂った感情を抑えきれぬままにがむしゃらに走り続けた。すると道の先に見覚えのある自転車が見えてきた。糺の森で緑の中に佇んでいたあの自転車だ。
「はる兄‼」
口内はすっかり乾ききっている。スイは腹の底から声を出し彼の名を叫ぶ。
「スイちゃん? どうした。なにかあったのか……⁉」
スイの必死の形相にただならぬものを悟ったのか。自転車を止めた俊春は急いで彼女のもとへ向かう。息を切らす彼女を見やる彼の表情は勇壮だ。スイに対する何らかの危機を警戒したのか、端正な瞳が険しさに歪む。僅かな表情の変化にもスイの機敏な心は大きくうねり、苦しみに悶える。
「はる兄、行かいで‼ 戦場になんか行かないで‼ 私のこと、ずっとそばで見守っててよ。お兄ちゃんに約束したんでしょ? 私、はる兄いなかったら悪い子になってまうよ。手がつけられんくらい、荒れてしまうよ!」
目の前に来た彼の腕を掴み、スイは脇目もふらず声を張り上げた。歯を見せ懸命に訴えかけるスイに俊春は目を丸くして身体を寄せる。周りの人が何事かとスイに注目したせいだろう。彼女を落ち着けようと静かな声でその真意を窺おうとする。
「スイちゃん、一体なにを──」
「いやや‼ はる兄は、未来を見るために勉強してはるんやろ? 戦のためなんかやない。はる兄は……私たちは、そないなことのためにここにいるんやない……っ‼」
「スイちゃん」
俊春はスイの声を遮り自らの身体で彼女を隠す。彼の影に覆われ、スイはハッと息を吸い込みちらりと辺りの様子を窺う。いくつかの好奇の目がこちらを向いていた。寒気が走る。軽蔑。憐れみ。怒り。呆れ。彼らの視線に眩暈を引き起こしそうだった。スイは血の気の引いた顔で俊春を見上げる。
「はるに……」
震えた声で微かな吐息を漏らすと、俊春がそっとスイの唇に人差し指を向けて目を細める。木漏れ日に似た柔らかな眼差しだ。
「少し歩こう。スイちゃん、風に当たると気持ちがいいよ」
「……ん」
唇を閉じ、スイは息を殺すようにして頷いた。ちくちくした視線が背中に突き刺さる。自転車を押す俊春の隣にぴったりとくっつき、スイは硬くなった指先を身体の前で結んだ。俯いたままのスイが辿り着いたのは川辺だった。涼しくなってきた今、冷たい水に近寄る者は少ない。ちらほらと人影がある中で、スイは俊春に連れられ鴨川の河川敷にある葵公園へと入る。木の葉が徐々に枯れ、色付いていた。
自転車を止め、ぽつんと立ち止まり下を向くスイに俊春は身を屈める。視線の位置が合えば、自然とスイの瞳が彼を向く。
「落ち着いた? ここならあまり人はいない。あまり不用心なことを言ったら駄目だろ。誰がどこで何を聞いているかなんて分からないんだから」
「ごめんなさい」
スイが素直に謝ると俊春は彼女の頭をぽんっと撫でる。彼の手の優しい圧にスイは肩をすくめた。
「けど……どうしたって納得できない。なんではる兄たちまで呼ばれてしまうん。ずっと言えへんかった。お兄ちゃんが行った時も、近所の皆がいなくなってしまった時も。もう、どんだけ自分に言い聞かせても意味がなくなってしもた。菊の紋章の札がかかっても誰もなんも言えへん。慰めることも許されへん。そんなんおかしいやろ。そんなちっさい札で、出ていった人たちの人生は片付けられてしまうんか。なんのためなん。なんで、皆が犠牲にならなあかんの」
スイは拳を握りしめて積もった思いを吐露した。声に出す度に悔しさと虚しさが滲み耳の奥が痛くなる。気づけばスイの瞳には涙が溢れていた。
「もういやや。もう誤魔化しきれへん。このままじゃきっと負けてしまう。そうなれば……もう、なんも、なんも残らへん。どうして逃げたらあかんの? そないなことがどうして許されへんの?」
わんわんと泣きじゃくり、スイは手で顔を覆った。泣くことしか知らない幼子のように喚く姿を俊春に見られていることがみっともなかった。けれど止めることも出来なかった。無理やりに押し潰してきた想いに抗うことは出来ない。次々と押し寄せる感情の渦に従うことしかできないのだ。
「はる兄、行かんでよ。私、はる兄を隠せるのならどこへだって行けるよ。どんな怖い人にだって立ち向かえるよ。はる兄を守るためなら私、なんだってできるよ。だからお願いや、どうか、どうかそばにいて」
勢いよく頭を上げ、スイは涙に塗れた顔で俊春を見上げる。涙でぼやけた視界では俊春の表情がよく見えない。代わりに、彼の温かな手がスイの頬を撫でた。彼の指の腹が頬に触れ、スイは思いがけない緊張に身を強張らせる。足指の先に力が入った。
「スイちゃん、ありがとう。スイちゃんにそんなことを言われるなんて名誉だな」
俊春の穏やかな声が聞こえてくる。スイは慌てて涙を拭い、とりあえずの視界だけは確保しようとした。彼の眼差しをしっかりと瞳に映したかったのだ。
俊春の手が頬を離れる。そのまま屈めていた姿勢を戻し、俊春は携帯していたハンカチをスイに渡す。スイの呼吸が整うのを待って俊春は静かに口を開く。
「戦争は、俺も怖いよ」
「じゃ、じゃあ……っ」
俊春の一言にスイが前のめりになる。が。
「だけどね、もう、誰も傍観者じゃいられないんだ。戦争を始めるのはいつだって俺たちには手の届かない遥か遠くの人たちだ。国民はそれに続かなければならない。ずっとそうやってこれまでの歴史が積まれてきた」
泰然とした声で続けられた彼の言葉にスイの瞳から勢いが消える。
俊春は凛とした眼差しでスイを見つめ、口元では優しい笑みを描く。
「戦わなければ侵略から皆を守れない。そう世界が思い込んでしまっているから、ちょっとの力じゃ成す術もない。ここで戦わなければ俺たちの自我がもがれてしまう。それこそすべてを失うんだ。国のため、民のため、家族のため。理由はいくらでも挙げられる。これは決して虚栄じゃないよ。偉そうなことを言うけど、心の底では叫びをあげてる。目を逸らすな、立ち向かわなければと」
「誰かの命の代わりに守られるなんて、喜べんよ……」
スイが哀しそうに声をこぼした。俊春は俯いてしまった彼女のことを慈しみに満ちた眼差しで見やる。彼女を見るその瞳は少しだけ誇らしそうだった。
「運よく争いのない世に生きる人々を羨むよ。だけど俺たちはそうじゃない。やるせない思いがないと言えば嘘だ。でもそういうもんだと思わないと。俺たちは、きっと過去と未来を繋ぐためにあるのだと。その割に俺は恵まれた方だ。なら、今こそ恩を返す時だ。友仁みたいにずっと前から戦っている者もいる。若くとも、家族がいようとも。前線では、多くの人間が未来を掴もうと命を賭けている。だからスイちゃん、悲しまないで。俺が行かねばならない理由は、欺瞞なんかじゃなくちゃんとここにある」
「……それって、なに?」
「人が生まれ、ここにいるのは決して個々の力だけで成し遂げたものじゃない。たくさんの助けがあったからだ。凄惨な時代があった。残酷な日々もあった。気が遠くなるほどの長い時間をかけて、何百年にもわたって俺たちの命は繋がれてきたんだ。ずっと昔の名も姿も知らぬ過去の人々が助け合い、これまでの道を紡いできた。そしてそれはこれからも続く。続けていきたい。皆が守り、努力して築いてきたこの国の息吹を消してしまいたくはない。俺はこの先何百年先までの貴い命を、その心を守りたい。今の大戦は未来を見るための戦いなんだ。俺は君の未来を作る欠片の一つになりたい。だから犠牲なんて言わないで。俺にもスイちゃんたちの未来を守らせてくれないか。それが、俺が命を得た理由なんだ」
「……そんなん──っ」
また涙が込み上げてきた。大量の涙が視界を塞ぎ、スイは俊春から受け取ったハンカチですぐさま顔を覆う。
「どうして……? どうして、はる兄はそんなに強いの?」
召集令状を見つめていたあの時から俊春の態度は決まって冷静だ。毅然として動揺もなく、憂う隙も見せない。強制的に敷かれた行く道を受け入れ、淡々とその時を迎えようとしている。
成長するたびに洗練されていく端正な容貌の裏に強健な精神を隠しているのだろう。揺らぐことのない彼の決意にスイの胸には熱情が広がる。
「強いと捉えるか、愚かと捉えるか……悩ましいね」
スイの問いに俊春は困ったように笑いながら眉尻を下げた。麗しく垂れた目尻に少年だった頃の彼の面影を感じる。
「スイちゃん」
郷愁に心を奪われ黙りこくってしまうスイを俊春が声色を変えて呼び戻す。見上げると、真摯な瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。不意にスイの時の針が止まる。彼の瞳は澄み、不純なものはなにも見えない。
「前に教えてくれたこと、今度は蝉の声がうるさくない時に聞かせてくれないかな」
「へ……っ?」
糺の森で真っ赤になった夏の日のことを思い出す。恥ずかしさが蘇りスイの首から耳までが一気に茹で上がった。
「な、なにを言うて……」
からかっているのだろうか。スイはにへらと力なく笑う。が、俊春は目を細めるばかりでそれ以上は何も言わない。兄妹のように過ごしてきた日々の中で彼のあらゆる表情はすべて見てきたと思っていた。けれど今スイの瞳に映る彼の面差しはどの記憶にも当てはまらない。
緊張で身が縮こまる。心臓が動いているのが目視できそうなほどに鼓動が激しくなっていく。スイは胸の前で両手を握りしめてこくりと頷いてみせる。
「うん。ちゃんと言う。あ……そや」
どぎまぎして彼の瞳が直視できなくなったスイは気を紛らわすように慌てて服のポケットを探る。前に友だちと拾ってほったらかしにしていた木の実と一緒に出てきたのは人魚姫の絵が描いてある栞だった。読書のお供にしようとスイが幼い頃に作ったものだ。常に持ち歩き、今ではなくてはならない相棒となっている。
「これ、なんも役にも立たへんかもしれんけど……お守り。邪魔にならんとええんやけど……あ、いらへんなら、べつに……」
「ありがとうスイちゃん。大事にするね」
スイが栞を差し出すと俊春は丁寧に両手で受け取る。栞を見つめる彼の瞳が暖かく、スイはちょっとだけ照れてしまう。繊細な飴細工を扱うように胸元のポケットに栞をしまい、俊春はスイに微笑みかけた。
「あぅ……」
目と目が合い、スイは咄嗟に言葉を失う。彼の出征を引き止めようと威勢よく追いかけた時とはまるで違った。彼の勇敢な誠意には敵わない。スイは弱弱しく目を伏せる。二人の視線が途切れると、俊春の身体が一歩前に近づいた。足元しか見ていないスイは彼が身体を寄せたことに気づき不思議に思って顔を上げる──と。
「はる兄……?」
彼の顔がすぐそこにあった。スイがぽかんとしているうちに俊春の唇が彼女の左瞼の傍に触れる。
「へぇ……っ⁉」
驚きのあまりスイは固まってしまった。何が起きたのか理解が追いつかない。スイは目を丸めて俊春を見やる。彼女の気持ちを知ってか知らずか俊春は悪戯に微笑むだけだ。柔らかい感触のみが肌に残る。状況を把握しようにも脳がのぼせて働かない。スイが戸惑う間にも俊春は彼女から離れていく。
「ま……っ! はる兄……っ‼」
ちょうど夕陽が美しく、彼の姿が陽の海に溶けてしまいそうだった。スイは慌てて手を伸ばし俊春の腕を掴む。
勢いのままに腕を掴んだその手を背中に回し、スイは彼をぎゅっと抱きしめた。胸元に額を寄せて彼に身を委ねると、応えるように彼の片腕がスイの身体を包み込む。もう片方の手は彼女の頭を優しく覆った。スイの耳元に俊春の声が広がる。彼の息遣いまでもが伝わってくるので、彼を抱くスイの腕に力が入った。
「友仁に会えたら君のことを話すよ。きっと、気になってそわそわしてるだろう」
「うん。はる兄、気をつけてな。待っとるから。ずっと待っとるから」
行かんで。そばにいて。
心で叫ぶ想いとは裏腹にスイは彼に精一杯の声援と願いを告げる。涙はどうにか堪えた。泣いてしまってはまた彼を心配させ、困らせるだけだ。スイは懸命に自己を抑えつける。
「また……っ、またな」
「うん…………またね」
俊春の両腕に抱かれたスイは呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。彼は力強くもきつくならないようにスイを包んでくれるというのに。
秋の音色が公園に響く中、スイは細い息を震わせ彼の体温に身をうずめた。