四、
京都帝国大学で経済学を学ぶ俊春の話は難しく、スイにはなかなか理解ができなかった。彼の話す意味の半分も頭に入っては来なかったが、学問研究に没頭し多忙となった彼の声を聞ける貴重な機会だ。一語でも多く彼の言葉で耳を満たしたいスイは学校帰りの彼を待ち伏せてよく一緒に帰った。
偶然を装ってはいた。が、あまりにも多い偶然に流石の彼も薄々はその違和感に気づいていただろう。けれど彼がスイの行動を責めることはなく、偶然に身を任せたまま原田家の玄関まで送り届けてくれた。
一九四三年七月には東京府と東京市が統合され東京都が誕生した。俊春は幼少期を東京市で過ごしている。市名がなくなるのは不思議な気持ちだとスイに語る俊春の面持ちは少しばかり高揚しているように見えた。
慣れ親しんだ名に変化が訪れるのは寂しいと感じるスイには何故彼が声を弾ませたのか分からなかった。好奇を宿した彼の瞳には何が映っているのか。スイは彼をきょとんと見つめることしかできなかった。
翌月にはその東京都が動物園に対して猛獣の殺処分を命じたという話がスイの耳にも届いてきた。
戦時の今は予期せぬ猛獣の逃亡も十分に起こり得る。被害の先手を打ったと言えば聞こえはいいが道徳的な心では嫌悪を抱く。何も東京都が悪いわけではなかった。しかしスイはどうしてもその施策を受け入れることが出来なかったのだ。
苦い顔をするスイの隣で、俊春は楽しい話をしようと大学で起きた間抜けな事件を教えてくれた。彼が面白おかしく誇張して話をするうちにスイの気も紛れていく。沈んだ気分はどこへやら。いつの間にか腹を抱えて笑っていた。
八月もそろそろ終わる頃、女学校でもすっかり文学少女と認定されていたスイにとっては哀しい出来事が起きた。
作家の島崎藤村が息を引き取ったというのだ。
彼の本もいくつか読んだことがある。もともとは友仁から譲り受けたものではあったが、初めて手にした歴史文学は彼のものだった。
彼と直接会って話したことも彼という人物に共感を抱いたわけでもない。それでも妙な喪失感を覚えてしまうのは読者の性分か。
スイは久しぶりに手に取った彼の本を片手に近所の糺の森へ向かった。ちょうど青空に夏雲が浮かぶ今日は太陽の日差しが木々に隠され過ごしやすい。涼やかな場所で少しだけ読書をしてから帰宅しよう。そう考えたのだ。
表紙を見ればかつての持ち主であった友仁のことを否が応にも思い出す。どこか悪いことをしている後ろめたさはあった。が、今日くらいは何を考えるでもなく純粋な気持ちでこの作家を弔いたい。罪悪感を振り払いスイは木陰で本を開く。
十五分が経ったあたりだろうか。
物語にのめり込み始めたスイの傍で自転車が止まる音がする。
「スイちゃん。ここで読書? 気持ちが良さそうだね」
爽やかな風と共に現れたのは俊春だ。彼はスイに笑いかけながら帽子を外し額に滲んだ汗を拭った。彼の笑顔にスイの心も晴れ渡る。
「島崎藤村か。小説のように波乱万丈な人生だったな」
「はる兄、読んだことあるん?」
「少しね。スイちゃんほど読み込めてないとは思うけど」
情けないなと俊春は苦笑した。彼がすぐ隣に座り込んだことでスイの心音が僅かに速くなる。横目で見やれば彼は暑さに参ったという顔で木の葉を見上げていた。帽子で顔を扇ぐがその頬は熱で火照っている。彼の無防備な表情にスイの心臓が大きく波打った。
「夜明け前。どんな本だったっけ? ああ。ほら。もう忘れちゃってるよ」
「ええと、彼のお父さんをもとにした、幕末ごろのお話で──」
俊春が浅学を恥じるようにはにかみこちらを見ると、スイは慌てて彼から目を逸らして手元の本の概要を話し出す。
俊春はたどたどしい口調で語られる物語にそっと耳を傾けた。ワイシャツの胸元をはためかせ、微量の風で頬を冷ましているらしい。まだ表情には疲労が残っている。
「なんか、昔を思い出すね。あの時はアンデルセンだったけど。それを思うと、スイちゃんも成長したものだ」
「そう?」
「ああ。なんだか嬉しいけど、寂しくもなるな。たくさんの童話を教えてくれてた時は、もっと物語も単純だった気がするから。あの時小さかったスイちゃんがずっと遠くに行っちゃったみたいだ」
「私はここにおるよ?」
「はは。うん。そうだね。ずっと君が傍にいてくれて嬉しいよ」
「……ほんま?」
「うん」
本で口元を隠し訊ねるスイに俊春は温和な笑みで頷く。本を持ってきてよかった。スイは心からそう思う。でなければこのかっこ悪く緩みきった不気味な笑みを彼に見られてしまうところだ。
「今はもうアンデルセンは読まない?」
「ううん。そないなことない。アンデルセンの作品はいまでも一番好きやよ。ただ、読みすぎて古くなってもうて。もう文字が掠れてしまったんよ」
顔の半分を本で隠したまま答えるのでスイの声はくぐもっていた。
「たくさん読んだんだね。確かに、スイちゃんに聞いた童話はどれも面白かった」
「そやろ? アンデルセン作品はアンデルセンさんの創作した物語ばっかりやし読んでて楽しいんや。私にはあんな話思いつかへん。住む国も時代もちゃう人やのに共感でけることがたくさんある。それがおもしろいんや」
彼が昔のことを覚えていたことが嬉しくて、スイはアンデルセン作品が好きな理由を一息に喋る。俊春が当時を思い出してクスリと笑みをこぼした。
「特に好きなのは人魚姫、だっけ」
「うん」
「哀しい話なのに、どうして?」
俊春が首を傾げる。確かに後味が良い話かと言われれば首を縦に振るのを躊躇う。スイは眉根を寄せ、恥ずかしそうに声を顰めた。
「それはな……それは、人魚姫は愛する人のためにすべてを失ったやろ。自分のことすらも。切ないけど、そないに愛を貫けるなんて強い人やと私は思うんや。彼女は泡になってなにも残らへんかった。けど、彼女が愛した王子さまとその幸せは守られたんや。私も」
そこでスイの声が小さくなっていく。元気を失くす彼女を見て俊春の瞼が微かに上がる。
「スイちゃん?」
「ううん。なんもない。な? 人魚姫、一途で強い人やと思わへん? なんや彼女の気持ちが分かる気がするんよ」
俊春に妙な奴だと思われる前にスイは顔を上げてにっこり笑ってみせた。人魚姫に出会ったのはスイの心に幼い愛情が芽生えた頃だった。立場も状況も全く違うが、素直に気持ちを伝えることが出来ない彼女にスイは強い共感を覚えたのだ。
兄のような存在の彼に想いを伝えることが怖い。彼は妹としてしかスイのことを見ていないかもしれないのだ。彼が実際にそう言っていたこともある。正直に打ち明けて二人の関係が壊れてしまうのは避けたかった。そうなればもう彼の傍にもいられなくなる。
俊春のきょとんとした瞳と目が合う。スイはごくりと息をのみ込んだ。外気の熱を吸収した身体が更に膨張したような感覚だった。
「なるほど。確かに人魚姫の愛には敵わないな。彼女に惹かれる訳も分かる。けどスイちゃん。人魚姫の気持ちが分かるってことは……スイちゃん、好きな人がいるの?」
「へぇっ⁉」
思いがけない指摘だった。スイの裏返った声が跳ねる。瞬く間に頭がのぼせていった。目敏いところを突いてくる。スイが口をアワアワ開閉させていると俊春が堪えきれず軽快に笑い出す。
「ごめんごめん。友仁が不在な手前、スイちゃんに厄介な輩が寄ってきたら困るからさ。俺が友仁の代わりに悪い虫を払わなきゃと思って。詮索するつもりはない。けど、相手は慎重に選べよ」
俊春の伸びやかな笑い声にスイの胸がズキンと痛む。
「ちゃうよ。そんなんちゃう……」
下ろした手に力が入る。ぷつん、と雑草が抜ける感覚が伝う。もどかしさに身体が捻れてしまいそうだった。スイは細い息を吸い込む。気道が狭まって思うほど吸い込めなかったのだ。
「わ、私、すきなひと、おるよ?」
スイは若干強い口調で言いきる。俊春の笑い声がぴたりと止み、驚いた顔がスイの方を向く。
彼の瞳に入り込んだ自分からも緊張感が伝播する。もうこのまま胃が飛び出てきそうだ。口を閉じていると余計に吐き気が込み上げる。同じ吐くならば言葉を吐き出したがマシだ。スイは断腸の思いで口を開く。
「わたし、あ────きなの……!!」
「……うん?」
しかしスイの決死の告白も突然辺りに響き渡ったけたたましい蝉の鳴き声に掻き消されてしまう。
二人が身体を預けた木の上方で蝉たちが懸命に自己の存在を主張しはじめたのだ。
一瞬にしてその場の空気を支配した蝉の声に重なりスイの言葉は俊春まで届かなかったらしい。
「ごめん、スイちゃん。蝉がうるさくて……」
スイの表情から彼女が勇気を振り絞ったことを察したのだろう。にもかかわらず彼女の言葉を聞き取れなかった自分を憎みつつ、俊春はひどく申し訳なさそうな顔でスイを見やる。
「……ううん。ええよ。気にせんで」
これは天からの警告か。
身勝手に想いを伝えようとした自分を恥じ、スイは目を伏せ首を振る。多忙にもかかわらず彼は友仁に代わって自分のことを気にかけてくれているというのに。強く、優しい責任感を持って。
勢いに任せてすべてを放り投げようとした自分に嫌気がさした。人魚姫の覚悟とはまるで違う。
「あんま長居するとあかんよね。はる兄は学校行くん?」
「え? うん。その予定だけど……」
「ほな、なんや暑いし、私はもう帰るね」
「送っていこうか?」
「ううん。大丈夫や。はる兄も気いつけてな」
恥ずかしくて俊春の顔も見れなかった。半ば逃げるようにスイは急ぎ足でその場を去る。
蝉の声が背の向こうに遠くなっていく。
「ああもうなんや! ほんま、あほやな私は」
数分前のことを思い出すだけでも頭のてっぺんまで熱が上がった。
言葉にならない感情を唸り声に乗せ街を駆けたあの日はほんの最近のこと。
あれからまだ二か月も経っていないというのに日常のすべてがめまぐるしく変わっていった。
*
淡桃色の紙を手にした俊春を見上げ、スイは不器用な呼吸を震わせた。彼の優しい瞳がたおやかな笑みを彩る。糺の森で自分を見つけてくれた時と彼の表情は変わらないはずなのに胸が苦しくてたまらない。
分厚い黒雲が心を塞ぎ、スイはなにも考えられなくなってしまった。