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三、


 一九三八年の七月。二年後に開催予定だった第十二回オリンピック東京大会の取り止めが決定した。国際的な緊張が高まる中での一報にスイの胸がざわついた。日本と中国の軍事的衝突の長期化も見込まれるとの噂も流れている。あまり楽しい話ではない。スイは耳を塞ぐように読書に没頭し、街を歩く時にも常に本を開くようになっていた。


 十一になったスイも来年には小学校を卒業する。義務教育の終わりだ。その後の進路についてはまだ決めかねている。両親、兄ともに思惑はあるようだが最終的な決定権はスイに委ねてくれるそうだ。けれどそれが逆にスイにとっては重荷となった。

 一番の親友である佳代はすでに高等小学校へ進学する意思を固めている。将来は教師になりたいらしい。師範学校を出て、学校一の人気者になると今から張り切っている。「スイちゃんも一緒に行かへん?」佳代は笑顔で誘ってくれるのだが、スイの心は優柔不断に揺れるままだ。


 本の虫と呼ばれるほどいつも本を抱えているスイを見て、家族は女学校に進学して学びの時間を過ごせばいいと提言してくれる。中学校を出た後は就職すると決めている友仁も金銭面は喜んで協力すると気合いを入れていた。

 しかし家族に学費を負担させてまで女学校に進むべきなのか。スイの心境は複雑だった。

 本を読むのは好きだ。だがそれはただ知らぬ知識や物語の世界を脳内に刻み込み空想することが好きなだけだ。深い知見や学びに繋げる技術までは持ち合わせていない。

 志の低い自分が家族の生活を切り詰めてまでも進学するという選択は不平等に思えたのだ。


 永延に晴れぬ悶々とした思いを抱えたスイは気が重くなりふと本から目を上げる。

 なんとも妙な縁があるもので、目線の先のパーラーから出てきたのは見知った顔だ。特に図ったわけではなかった。

 重苦しい悩みに曇っていた瞳が瞬時に光を取り戻す。が、彼の隣に三つ編みの娘の可憐な眼が並んでいることに気づき、スイの瞳には再び不安が宿る。


「ほな美國くん、元気でな」

「うん。君も無理をしないようにな」

「おおきに。ずっと楽になったわあ」


 俊春と同世代くらいだろうか。三つ編みの彼女は俊春に微笑みかけ彼に握手を求めた。俊春の大きな手が彼女の華奢な指を包み込めば、スイの心臓がきゅうと縮こまる。

 握手を交わした二人は手を振り合ってから背を向けて互いに違う方向へ歩き出す。


「スイちゃん。もう夕刻だ。陽が長いとはいえあんまり不用心に出歩くのは危ないだろ」


 立ちすくんだスイがいる方角を向いた俊春はすぐに彼女の姿を見つけて窘めるようにそう言った。彼の表情は優しく、困りつつも笑みが浮かぶ。本気で叱っているわけではないようだ。


「はる兄、いまの人誰?」

菜帆なほさんのこと?」

「菜帆さん?」


 俊春の声で奏でられる丁寧な呼び名に不意に嫉妬を覚えた。誰もが使う普通の言葉なのに彼の声に乗った途端に慈しみに溢れた讃辞にすら聞こえたのだ。相手があの女の子だから余計に気になってしまう。


「父親同士が気が合うようで仲良くてさ。家は近くないけど、たまに一緒に遊んだりしてたんだ」

「そんなん知らんかった」


 彼と出会って三年が経つが、まだ知らないことだらけだ。その事実を容赦なく突きつけられ、悔しさにスイの声が濁る。親密そうな関係に見えた。もしや俊春と彼女は恋仲にあるのか。得意の空想が途端にスイの頭を駆け巡る。


「彼女、結婚が決まってさ。相手方の家は大阪にあるから気軽には会えなくなる。引っ越す前に話がしたいって言われて、いま、それが終わったところ」


 結婚という言葉にスイの胸のつっかえが一気に溶かされていった。彼女が結婚するということは、俊春とは友人関係だということを意味する。勝手な感情だとは自覚している。だが妙に安心してしまう自分を責めることもできなかった。


「そうやったんね。結婚、おめでたいね」

「うん。相手は年が離れているけど、話を聞く限りは勤勉で優しそうな人だ」

「……で、話ってなんやったん? あ。言いたくないこともあるやろし、言わんでも別にええんやけどもな」


 どうしても好奇心が勝り話を深追いしてしまう。が、言ってから出しゃばり過ぎなことに気が付いたスイは慌てて言葉を加える。俊春は申し訳なさそうに下がったスイの眉尻を見てクスリと笑った。


「そんなことないよ。誰かに危機が迫っているとか、無理やり婚姻させられたとか、そういったような気分を害す話でもないし」

「そうなん……?」

「ああ。彼女、俺のことを好いてくれてたって。結婚前に気持ちをすべて整理したかったからそれだけは伝えておきたかったと正直に打ち明けてくれたんだ。素敵な人だよね。自分の気持ちにちゃんと向き合えるって」


 菜帆が去った方面へ尊敬を込めた眼差しを向け、俊春はサラリと言ってのける。けれど彼の口から簡単に出てきた菜帆の本心がスイの心臓を真正面から突いた。瞬く間に動きを封じられる。

 俊春はそのままスイを送ろうと視線で道の先を示してから家の方向へ歩き出す。


「すっ、好きって、言われたん?」


 自分が言ったわけでもないのに取り乱してしまう。真っ赤な熱が頬に上がる。先に歩き出した俊春を追いかけスイは彼の言葉を繰り返した。不快な汗が首筋を走る。

 俊春は平然としてなんとでもないという顔のまま頷く。彼にしてみればその言葉を言われるのは珍しいことでもないのかもしれない。彼との温度差にスイは更なる焦りを覚えた。


「はる兄のこと好いてはるのに、違う人と結婚するん?」

「彼女の両親は早くからお婿さんを探してたんだ。まだ菜帆さんが九歳の頃から。彼女自身も見合い相手との結婚には前向きだし、俺のことを好きと言ってはくれても割り切ってる。最後はスッキリした顔をしてた」

「……そういうもんなん? それって、ほんまに幸せなんかな」

「彼女が幸せかどうかは彼女にしか分からない。そうであって欲しいと願うけど」


 前を歩く俊春の横顔が少し険しく見えた。彼女のことを気に掛けているに違いない。スイはまた微かな嫉妬心を抱く。同時に、みっともない感情を管理できない自分の未熟さにもチクリと胸が痛んだ。菜帆という人の気持ちを自分は一番に理解できるはずなのに。

 俊春が難しい顔をして黙り込んでしまったのでスイもそれ以上の言及は避けた。二人は口を開かぬまま原田家がある通りまで足を運ぶ。


「なあ、はる兄」


 家の明かりが見えてきたところでスイがぽつりと声をこぼす。俊春は視線だけで返事をした。


「はる兄にも、許嫁さんとかおるん……?」

「え?」


 突拍子もない問いだったのか俊春が気の抜けた声を出す。スイは真剣な眼差しで俊春を見上げた。決してふざけているわけではないことが伝わったのだろう。俊春は瞬きの後に頬を綻ばせた。


「いないよ。父さんや母さんはそろそろお相手を探そうかって言ってるけど。俺はまだ、そんな資格ないから」


 資格、という言葉が気になった。が、彼が空を泳ぎ始めた星を見上げたので追及することはできなくなってしまう。彼の瞳を照らす星明りが何人の邪魔も許されないほどに美しかったからだ。


「スイちゃんの旦那になる人は、きっと幸せ者だな」

「ヘ?」


 こちらもまた突拍子もない発言だ。独り言のように呟いた彼のことをスイはまん丸の瞳で見やる。


「そないなことないよ。私、がさつやし、本を読むことしかせえへんから、きっと呆れられてしまうよ」

「そう? 俺はそう思わない。友仁を見れば分かるだろ。スイちゃんが家族にいて、彼はいつも幸せそうだ」

「お兄ちゃんは能天気なだけやよ」

「ははは。まぁ、だけど一番はスイちゃんが幸せでいないとな。スイちゃんがなんの不安もなく、心地良く笑っていられる環境が何よりも大切だ。スイちゃん、自分のことを邪険に扱っちゃ駄目だよ」

「……はい」


 思い遣りが滲む俊春の笑みにスイはしゅんと小さくなる。萎びてしまった野菜のように元気をなくしたスイの頭を俊春は優しく撫でた。


「スイちゃんは俺にとっても大切な妹なんだから。雑な扱いは許さないよ」


 俊春の手から伝わる熱は涙が出るくらい温かかった。長くて細い彼の指がスイの頭を包み込む。出会った時から今までもずっとこの手に守られているのだと実感できる。友仁と、もう一人の兄として。どれだけ恵まれた立場にいるのだろう。

 しかしそれでは満足できない。見合い相手との婚姻を受け入れ俊春への想いを諦めた菜帆と比べると自分がひどく我儘で贅沢者に思える。けれどそうやって自分をいくら貶しても想いが鳴り止むことは決してないのだ。

 だからまた抑えきれない感情を理性よりも優先させて滅多なことを口走ってしまう。


「はる兄は幸せになってたい?」


 控えめなスイの問いかけに俊春は薄く酸素を吸い込む。


「俺? 俺はもう恵まれているから、そんなことは考えられない。進学も認めてくれてるし、家族は徹底的に学ぶことを応援してくれる。だからどっちかと言うと人一倍頑張って誰かを幸せに出来る人間にならないと、この恵みの恩を返せない。それでも有り余るくらいだ」

「……ちゃう」


 もどかしそうにスイが息を吐く。俊春はスイの反応がよく見えなかったようで首を傾げる。彼の整然たる回答はスイにとっては的外れだった。だがそこは惚れたが負け。彼がどんなに素っ頓狂なことを言おうとも愛しさのみが勝るのだ。


「そうだ。そういやスイちゃんは卒業後はどうする予定だったっけ? 友仁が、スイは女学校に進むんだ、って張り切ってるけど」

「お兄ちゃんは私のこと天才や思っとるんやと。嬉しいけど期待が重くて潰れてしまいそうやわ」


 悩んでいた進路の話を振られ、スイは正直に胸の内を打ち明けた。俊春にならなんでも相談できる気がする。むしろ、彼の考えが知りたくてうずうずしてしまう。


「スイちゃんは小さい頃からたくさん本を読んでるからね。友仁は自分にはない才能がスイちゃんにはあるんだって自慢なんだよ。スイはかしこいんだって、得意気に言ってる。確かに期待は時に負担になる。でも、あいつの調子の良さは前からだろ。許してあげてくれないか?」

「お兄ちゃんは社会に出ても変わらへんもんね」


 スイが砕けた笑みを見せると、俊春は凛々しい瞳で真っ直ぐにスイを見やった。

 彼の手がスイの両肩を力強く掴んだ。また熱が上がる。のぼせているみたいにすべての音が脳内に残響を残していく。


「それがあいつの良さでもある。スイちゃん、自分以外の人間のことは一旦頭の隅に置いてみて。当然家族も。自分の気持ちにだけ集中するんだ。そうすれば自分がどうしたいかがぼんやりとでも見えてくるはず。学ぶことを許されるのは当たり前のことじゃない。もちろん学びが全てでもない。ならばその機会をどうしたいか。他の誰でもない、自分の道を考えてみてほしい」


 スイは俊春の瞳に見惚れたままこくりと頷いた。

 誰よりも何よりも。彼の導きがスイの心を目覚めさせてくれるのだ。

 結局、スイは佳代の誘いを断り女学校に進学することに決めた。試験も思うほど苦戦することはなかった。兄も両親もスイの背中を惜しみなく押してくれる。自分は恵まれている。女学校の制服に腕を通した時、あの日に俊春が言った意味をスイは深く噛みしめた。

 身長が伸び、視界が少しずつ変わると同時に世の中の色もゆっくりと移ろいを見せていく。ずっと落ち着きのない世相ではあった。けれど今度は確実に、急激な変化が近づいていることをスイはなんとなしに肌で感じていた。


 一九四一年、スイと友仁の父が国策のためにひっそりと日本を離れた。父は南方へ電気工事をしにいくのだと軽い口調で言い残していったが、その背中を見送る時、スイはうなじの辺りに計り知れぬ寒気を覚えた。

 冴えわたった勘は望まぬ方向にばかり働いた。父が家を出た同年の末に、日本はイギリス・アメリカに宣戦布告した。

 不安はあったもののすぐには実感が沸かなかった。ついに始まったのだと近所の人間が騒ぎ立ててもスイの感情が大きく動くことはなかった。争いはこれまでも起きている。何を今さら。妙な慣れか。はたまた現実の直視を拒絶していたのかもしれない。詰まり行く世相にただ無意識のうちに気が張りつめていくだけだ。


 しかし翌年の一九四二年に国鉄で働いていた友仁も二十歳を迎え徴兵対象となり、スイは自らの立場を強烈に思い知らされる。鉄鍋で頭を殴られ続ける感覚だった。通知書を見つめる兄の瞳に滲む覚悟にスイは言葉を失った。苦楽を軽々と笑い飛ばして生きてきた彼に見る初めての眼差しだった。

 健康で頑丈な身体を持つ彼は甲種合格の誉を受けることとなった。


 検査を終え本格的な入営が迫る中、スイは母や近隣の人々と一緒になって日の丸に寄せ書きをし一片の布に千人針せんにんばりを施した。近所に婿入りしてきた気さくな青年に淡桃色の紙が届き、皆で送り出しの準備をした時と同じように。

 お守りやから絶対になくさへんで。

 念を押して兄の手にお守りを握らせたときに触れた彼の乾燥した肌の感触に涙を誘われた。泣いたらあかん。許されへん。スイは下唇の裏を噛み締め堪えた。血の味が口内を侵食していく。


 友仁が感謝を伝えると、耐えきれず母が皆の前で友仁を抱き締める。彼は「恥ずかしいからやめや」と変わらぬひょうきんな調子で口を尖らせた。それぞれの心の底にひそかに張り巡らせた緊張の糸が緩み、少しの笑いが起こる。


 身を包む衣服のせいか。勇ましく皆に敬礼をした兄の輪郭がスイの目には別人に映った。これ以上は見ていられない。とても耐えられない。スイは苦しそうに顔を下げた。負けるなど、そんなことはきっとない。一筋のみの道を信じるしかなかった。


 落ち込むスイの頭に気づいた友仁は、見送りの輪から離れたところに立つ俊春に目配せする。彼の精悍な顔つきに俊春はすぐさま畏敬の礼を返す。それを見た友仁の強張った頬から僅かに力が抜ける。身体を翻し皆に背を向けた友仁は安堵したように瞼を伏せ、頷いた。



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