二、
*
*
「はる兄、それ……」
ぼろぼろになった本を抱え、スイは茫然と立ち尽くす。そばかすの頬は硬直し、細い息が唇から漏れた。
「スイちゃん。また友仁の本を読んでるのか」
距離を保ったまま立ち止まってしまった彼女に向かって山鳩色のワイシャツを着た青年が緩やかに口角を持ち上げ笑いかける。濃茶色の穿袴はずり落ちないようにサスペンダーで固定されていた。
彼の片手には淡桃色の紙がある。もう片方の手は穿袴のポケットに突っ込まれていた。
「友仁が読めない分、本もスイちゃんに読んでもらえて喜んでるだろうな」
彼は爽やかな笑みを広げたままスイに近寄り彼女が持つ本の表紙を見やった。古い本だ。彼女の兄は調子者で女性の注目を集めることを目的に多くの本を所持している。兄の友仁曰く、本をたくさん読んでいる者は利口に見え、女性の興味を惹きやすいそうだ。特に難しそうな本を手にしていると可愛がってもらえるらしい。
積んだ本は多くとも、それは彼にしてみれば人を寄せ付けるための小道具にすぎなかった。彼が本を開く機会はほとんどなく、読むのは妹のスイだけだ。
「これは古典文学か? また難しそうなものを。友仁は懲りない奴だな。買うくせまともに読まなかったあいつと違ってスイちゃんは立派だ。偉いな」
スイの頭をポンッと撫で、彼は彼女の身長に合わせて身体を屈めた。本の終盤には彼女が昔作った栞が挟まれている。僅かに顔を覗かせる栞の絵に彼は目を細めた。顔が近くなった彼と視線が合い、スイはハッと呼吸を取り戻す。
「そうやなくて‼」
押し込めた静寂の反動か、スイは険しい顔をして彼に迫る。
「それ! それって、令状やないの……?」
スイが大きな声を出したからか、彼は周囲を気にして黒目を動かす。幸い道にいるのは二人と通りすがりの老人だけだ。スイを落ち着けようと、彼はシッと人差し指を自分の唇の前に持っていく。
「そう。まだ母さんたちも知らない。家族はちょうど留守にしててさ」
「そんな……!」
彼は穏やかな口調で声を顰める。表情は絶えず穏やかだ。真摯な瞳に見つめられ、スイは思わず口をつぐんだ。乾いた風が通り抜ける。寒い季節ではないというのに容赦なく酸素に体温が奪われていく。息を吸うたびにスイの唇から血の気が失せていった。
「…………──おめでとう、はる兄」
息をのみ込んだ後で、喉を塞ぐものを押しのけるようにして小さな声で呟いた。息が苦しく、魚の骨が刺さった時よりも痛い。
スイの顔が下を向く。スイの視界から彼が消えると同時に彼にはその表情は見えなくなってしまった。
「ああ。ありがとう、スイちゃん」
彼の勇敢な声だけがまっすぐに胸に入ってくる。
抱えた本を握りしめ、スイはこくりと無言で頷いた。
*
美國俊春は数年前にこの街に越してきた。近所に新しく建てられた瀟洒な家に入っていく彼と出会ったのはスイが八歳の時だった。
雲が一直線に空を駆けた晴れの日のことだ。学校帰りに幼馴染の佳代ちゃんと楽しくお喋りをしていたスイの視界に飛び込んできたのは見たことがない横顔だった。
彫の深い目元にくっきりとした二重幅の瞼。鼻筋が通り、形の良い唇は美しい山を彷彿させる。捲った袖から見える腕はスイのものより白い。元の色素が薄いのだろうか。だが彼の黒髪は白い肌によく映えている。どうやら日焼けしにくい肌質なだけのようだ。
両親と思わしき男女とともに家の門をくぐる直前、彼の長い睫が上下した。額の位置に手で庇を作って燦々と地上を照らす太陽を眩しそうに見上げたのだ。
あの新築の一軒家は建築中からご近所の間でちょっとした話題になっていたものだ。
一般的な造りの日本家屋が立ち並ぶ住宅地でも一際大きく立派な造りをしているせいでどうしても目を引いてしまうせいだろう。
一体どんな人が住まはるんと思う?
今や井戸端会議の中で誰かが一度は必ずそう言うのが決まり文句となっていた。
スイの家の中でも当然のようによく出てきた言葉だ。
噂の家主の登場は誰もが待ちわびていたこと。姿がないまま注目を浴び続けた透明人間がついにその姿を現したのだ。スイの視線は自然と彼の横顔に吸い込まれていった。
身長は五つ上の兄の友仁に近い。もしかしたら年齢は兄と同じくらいかもしれない。
スイが立ち止まると前を歩いていた佳代も足を止める。
「スイちゃんどうしたん? なに?」
佳代はスイの視線の先を覗き込む。
「わあ。なんやキレイな人やね」
「うん」
「私もああやって上手に化粧できるようになりたいわ」
佳代が目を輝かせていたのは少年の前を歩く母親の方だった。彼の母親は艶のある黒髪を乱れのないお団子にまとめ、スッとした姿勢で着物を着こなしていた。臙脂色に滲む花柄が彼女の優雅な歩行を華やかにする。
「ほんまきれいな人」
着物の麗人に沸く佳代の隣でスイは呆けた声で呟く。スイが見ていたのは母親ではなく彼の方だ。体格の良い厳格そうな父に呼ばれ早足で門をくぐる少年にスイの視線は釘付けになった。
「俊春。早く入りなさい。今日は忙しい。時間がないんだ」
「はい」
父に急かされ玄関に向かって駆け出す少年。
「あっ」
思わずスイの口から声が漏れた。
「なにか忘れ物でも思い出したん?」
いつもの大人しいスイの声とは調子が違い、佳代も何事かと首を傾げる。
一方で当の本人であるスイは焦った様子で口を押さえた。自分でも大きな声が出るとは思わなかったのだ。もう少し彼を眺めていたい。先走った感情による反射的な衝動だった。彼が見えなくなるのが惜しかっただけなのだ。
「スイちゃん?」
「なっ、なんもない」
佳代に詮索されまいとスイは慌てて顔の前で両手を振る。「あのひとに見惚れてたん?」勘が働く佳代のことだ。気づかれればすぐにでもそう言ってからかってくるに違いない。彼女の気を逸らそうとスイはにっこり笑顔を作ってみせた。
「そお? なぁ、ほんなら──」
スイの笑顔に誤魔化されてくれたのか、佳代はゆっくり歩きだしながらさっきまでの会話を再開させようとする。ほっとしたスイはその場を去る前に少年がいた方にちらりと瞳を向けた。すると。
「ひょっ」
門をくぐったはずの少年が庭先に立ってこちらを見ていた。スイの肩が思わず跳ねあがる。同時に奇妙な悲鳴が喉を掠めた。
少年はスイの方を見て一度、二度瞬きした。目が合っている。確実に自分の方を見ている。
スイはきょろきょろと辺りを見た後でもう一度彼と目を合わせた。
一見近寄りがたい端正な顔立ちにはまだ幼い無垢な眼差し。彼と目が合った瞬間に自分を包む空気が変わる。今日の気温は三十度近いはずなのに、緊張のせいか表面の温度が一度下がったような気がした。
表情に落ち着きがなくなった挙動不審なスイを見て、少年は温和な目元を緩ませた。頬を綻ばせ、微かに口角を持ち上げる。
「またね」
少年の声を皮切りに、庭の木にとまった蝉がギーギーと喚き始めた。蝉の声に誘発されスイの鼓動も高鳴っていく。涼やかな風がほのかに赤く染まった彼女の頬を軽やかに撫でた。
「ま、またな」
手を振る少年に向かって控えめに手を振り返す。スイのぎこちない笑顔を見て少年は踵を返した。玄関前で待ち構えている父の元へ急ぐ少年の後ろ姿に蝉の声が重なる。それが一九三五年の夏に出会った彼とスイの最初の会話だった。
「原田さんにはいつも大変お世話になっています。ありがとうございます」
カラスが鳴き止み夜の帳が下りた頃、薄明かりが広がる玄関先から低い女性の声が聞こえてくる。お辞儀をしていたお団子髪が持ち上がると、麗しい微笑みと目が合った。
「スイちゃんも、いつもありがとうね。ご迷惑をかけていないかしら」
「迷惑なんて、そないなことないです」
「ふふふ。ありがとう、スイちゃんは優しいのね」
母の後ろから顔を覗かせていたスイがぶんぶんと首を横に振ると、彼女は口元を手で隠してくすくすと笑う。
彼女の造形美を際立たせる透明感はまるで水彩画のようだ。自分よりもずっと年上のはずなのに、笑った顔は少女のように愛らしい。けれど山を描く眉は凛々しく、彼女の一人息子によく似ている。
「俊春くん、お母さんが迎えにきはったよ」
スイの母が居間に向かって声を張り上げた。「はーい」とすぐに威勢の良い返事が二つ返ってくる。
「こちらに来て、すぐに友仁くんが友だちになってくれてよかったわ。俊春はあまり不満を言わない子だから、引っ越しが決まった時もやけにあっさりしていたの。でも私としては引っ越し先に馴染めるかって、少し心配していたものだから」
「まぁ。嬉しいわぁ。けど、友仁に悪影響を受けへんとええんやけども」
「そんなことありません。俊春、いつも楽しそうに友仁くんのことを話してくれますから」
「あらっ。そりゃ俊春くんは気がきくさかいに」
母親が驚いた顔をして頬に手を当てると、話題に上げられていた友仁が呆れたようにため息を吐いて現れた。友仁の後ろには彼と同じくらいの背丈をした少年が続く。スイは皆の会話を楽しそうに聞く俊春の笑顔をこっそり見上げる。
「母さん。俺のことなんやと思ってる?」
俊春が靴を履く間、友仁は自分の母を問い詰めた。しかし母にも悪気があるわけではなく、あっけらかんとした様子で口を開く。
「そう言うて。自分が一番よう分かっとるやろ」
「まったく。悪いな俊春。続きはまた明日」
「ああ。こづ恵さん、今日もお世話になりました。夕飯、ご馳走様でした」
「ええんよ。なんも遠慮せんで。またいつでもおいで」
「はい。ありがとうございます」
靴を履いた俊春が丁寧に頭を下げると、原田家の母は嬉しそうに頬を綻ばせた。
「まぁ。ほんまにええ子やね、俊春くんは」
母がうっとりと表情を弛ませている間も、スイは彼の一挙手一投足を見逃すまいと瞬きすら惜しむ。
「スイちゃん」
熱心な気配に気がついたのか、家を出る前に俊春はスイに向かって身体をそっと屈める。彼の瞳を自分が独占しているのだと思うと手に汗が噴き出てしまった。
「お邪魔しました。アンデルセンのお話、今度また聞かせて」
「……うん」
母の後ろに隠れたままのスイは恥ずかしそうに一歩後ろに下がる。スイは幼少期から本を読むことが好きだった。アンデルセン作品は特にお気に入りの物語がいっぱいで今でもよく読んでいる。居間の隅っこでいつも本を読んでいる彼女に俊春はお薦めを教えてと声をかけてくれるのだ。彼は童話に触れる機会があまりなかったらしい。
スイが童話を語る間、彼は真っ直ぐな眼差しで真剣に話を聞いてくれる。が、すぐに友仁がちょっかいを出してくるのでなかなか物語は進まない。少し物足りないが、ほんの僅かでも彼と話が出来ることがスイには嬉しかった。
美國家は平均的水準にあるスイの家よりも裕福で、その代償として両親はいつも家を留守にしている。
俊春は友仁と同学年の十三歳。多忙な両親と顔を合わせるのは主に夜だけだ。一人で長時間を過ごす俊春を友仁が原田家に呼ぶようになったのは彼が引っ越してからすぐのことだった。
東京から俊春の父の故郷である京都へ来たのは体調を崩した祖父の療養を世話するためだという。
そんな俊春に友仁が興味を抱いた理由は至極単純なものだった。
見映えの良い俊春の傍にいれば街を歩くだけでも異性の視線を集められる。おまけに東京育ちとは女子の関心も引きやすい。
とにかく異性の注目を浴びたかった友仁は、彼と親しくなろうと積極的に声をかけたのだ。
しかし不純な動機などはじめからなかったかのように、友仁は俊春の大人びた雰囲気に憧れを抱くようになり、二人はすぐに友人として仲良くなった。
友仁ほどお気楽ではないが、俊春もまた外見で抱く儚げな印象とは違って大胆で雄々しいところがあったために気が合ったのだろう。
自分に近づいた友仁の当初の下心を知っても俊春は軽快に笑い飛ばしてその素直さを褒めていた。
俊春が頻繁に家に遊びにくるようになり、スイも彼のことを「はる兄」と呼んで懐いていった。
引っ越しの日にスイが俊春を見ていたことも彼は覚えていた。「あのときの子だね」そう言って笑った彼の声は胸に染みついたまま離れない。
天から降り注ぐ恵みの雨のようにささやかで柔らかな彼の笑い声。いつしか彼の声はスイの心に恋情を咲かせていた。
けれど五歳年下のスイのことを俊春は妹としてしか見てくれない。まだ幼いスイもそれを感覚で分かっていた。彼の友である友仁の妹だという立場も災いして、抱いたばかりの淡い痛みにスイはなかなか素直になれなかった。
彼を見るたび窒息してしまいそうになるほど苦しい。想いは成長し続け、スイが歳を重ねるにつれて色濃くなっていった。