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貧打は勝利を妨げる

「Hinderの意味って何だったっけ?」

 台所で朝食のトーストを齧っていると、高校生の娘の安奈が、試験範囲の長文に目を通しながら部屋に入ってきた。

 嫁さんはゴミを出しに行っていて、そのとき台所にいなかった。安奈もそのことに気が付いていた。安奈が口にしたのは、日本語的には疑問文だった。ただそれでも、その言葉が俺に向けられた質問じゃないという確信があった。

 人に尋ねるというよりは自分自身を促すような言葉のイントネーションだったし、そもそも安奈が一度も俺の方を見ようとしなかったからだ。

 そして俺が投げかけた言葉に対する安奈の反応によって、俺のそんな確信はあっさりと証明された。

「Hinderは、邪魔するとか、妨げるって言う意味だよ」

「え!お父さん英語できるの!?」

 完全に想定外の展開だったのに違いない。安奈は笑えるくらいシンプルに驚いた。文字通り目を丸くして、いつ以来だろうか、俺の顔を正面から覗き込んだほどだった。

 月曜日の朝から、それは愉快な瞬間だった。もう少し引っ張っても良かったのだが、中途半端な返しをすると、すぐに会話が打ち切られてしまうリスクがあった。俺は少しふんぞり返りながら、種を明かした。

「できないよ。ただ、ダジャレで覚える英単語っていう単語帳を高校の時に使ってて、今でも印象に残ってる単語がいくつかある。Hinderが、たまたまその一つだっただけ」

「ダジャレ?ダジャレでどんな風に単語を覚えるの?」

 意外なことに興味を持ったらしく、安奈は教科書をテーブルの上に伏せておいて、そのまま俺の斜め前の自分の席に腰を下ろした。

「Hinderは、貧打は勝利を妨げる。良くできてるだろ?」

「なるほど、そういうやつね。うわー、お父さんって、高校生の時からダジャレが好きだったんだ」

 ちょっと思ってたのと、違うところに食いつかれた。

「って言うか、今年のベイスターズが貧打に邪魔されなきゃいいね」

「それは、ダジャレというか洒落にならない」

 ベイスターズの問題は打撃じゃないんだと説明しようかとも思ったが、なんか縁起が悪い気がしたので、そのまま苦いつばを飲み込んだ。

「他にもあるの?」

「あるよ、それで一冊の本になってたんだから」

「例えば?」

「例えば、安奈も知ってるかもしれないけど弁護士って言う意味のAttorneyだったら、後に弁護士控えてる。有名どころで言えば、犬小屋のKennelの、犬寝る犬小屋とか」

「へえ、面白い」

 そこまできて、急に安奈が真顔になった。感情がすぐ顔に出るタイプなのだ。

「でも、それってさあ、ダジャレを覚える方が大変じゃない?だいたい、覚えないといけない単語よりもそのダジャレの方がボリュームがあるって矛盾してない?」

 もっともな意見だった。

「その通りだと思う。無駄は多いし、誰にでも合うやり方じゃない。高校生の時にも、お父さんがその単語帳を使ってるのを見て、さんざん周りの奴らに突っ込まれた。まあだから、主流な覚え方にはならなかったんだろうね。でも、お父さんには合ってた。面白いし、関連で覚えられるから忘れにくい。実際今だって、20年も使ってない単語の意味がすぐに出て来たくらいだから。それに、応用の文法編もある」

「文法?」

 安奈は聞き返しながら、トーストとバターに手を伸ばした。もう少し付き合ってくれるようだった。1ラリー以上の会話をするなんてそうそうない。これまた、月曜日の朝から吉兆だ。良い一週間になりそうだった。

「うん。まあ、文法って言っても単語の変化だけど。ほら、KnifeとかLifeとかFeで終わる単語を複数形にするとき、FをVに変えてESをつけてKnivesとかLivesとかにするのがあるよね」

「ある・・・、ような気がする」

「あるんだよ。それで、WifeもWivesって同じ変化をする。それをダジャレで覚えた。KnivesとかLivesはダジャレで覚えたわけじゃないけど、Wifeとの繋がりで覚えたわけだから、そっちも世話になったって言って良いんだろうね」

「へえ」

 頭の中で俺の言葉を整理しているのだろう。安奈の眉間にしわが寄った。しばらくすると、何かに納得したように小さく頷いて、コップの牛乳を一口飲んだ。

「で、それは、どんなダジャレなの?」

 待ってましたと、俺は意気込んだ。

 実はそれは俺の高校時代からのお気に入りだった。実家のトイレで、大きい方をしながら初めてそのダジャレを目にしたときに、壁に囲まれた狭いその空間で一人大爆笑した青春時代の一ページが、俺の頭の中で鮮明に蘇った。

 絶対にウケる自信があった。だから、ドヤ顔で満を持しての決め台詞だった。

わいブスと言う妻たち」

 次の瞬間、部屋の温度が2度ほど下がったような気がした。

 エアコンの電源が落ちたのかと確認しようとして、俺を見つめる安奈の視線に気が付いた。

 温度どころか、体温が2度下がった。

 しまった、調子に乗り過ぎたか。好事魔多しという言葉があるが、調子に乗り過ぎて足元をすくわれる、って言うか勝手に滑って転ぶのは俺の悪いところだ。その点については、これまで散々、失敗と反省を重ねてきていて、ついこの間のお正月にも、お屠蘇を飲みながら新年の個人的抱負として再発防止を秘かに誓ったはずだった。それなのにまたやってしまった。

 しかし見ろ、この安奈の冷めた表情。怒った時の嫁さんにそっくりだな。ついこの間まで、赤ん坊だったのに、大きくなったもんだよな。なんて、感慨に浸っている場合ではなかったし、そんな余裕もなかった。し、やっぱり自分で自分をはぐらかすのには無理があった。

 月曜日の朝だというのに、ワイシャツの背中を一筋の冷や汗が濡らした。

 適当な言い訳すら思いつかなかった。俺にできることと言えば、表情はそのままに動き始めた安奈の口元を眺め、そこから俺に向かって銃弾が放たれるのをただ待つだけだった。

 そして、引き金は引かれた。

「そんなのが出版されるって、すごい時代だね」

 逆に感心された。

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