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世界が平和になります

 待ち合わせの居酒屋に着くと、ムネさんが老眼鏡をかけてスポーツ新聞を読んでいた。

「すみません。遅くなっちゃって」

「いいよ、働き盛りのエリート様は忙しいんだから。俺もついさっき来たばかりだし。最初は生で良いんだよな?」

 運ばれてきて乾杯したビールが喉の奥に流れ込んで行き、返す刀で大きく一つ息を吐くと、モードが一気にオフに切り替わるのが自分でも分かった。プライベートでビールを飲んでも、いつもこんな風に行くわけじゃない。やっぱりムネさんといると落ち着くなと思った。

 ムネさんは僕が働く会社の先輩だ。先輩とは言っても歳は親子ほど離れているし、働く部署も違う。そんなムネさんと僕が知り合ったのは、ひょんなきっかけからだった。

 ある時、海外から来社するお客様の説明用に、うちの会社の歴史をまとめるよう上司から指示を受けた。資料を作ること自体は簡単だったのだけれど、参考になる情報をどこで探せば良いかが分からなかった。困っていると、同じ課の先輩が社史室の存在を教えてくれた。

「そんな部署があるんですか?」

「ああ、うちも50年近い歴史がある。きちんと対外的に歴史を発信して会社の箔をつけた方が良いって言う話になって、5年くらい前にできたんだ。もっとも、現役ではもう使えない、言ってみたら歴史上の社員を放り込んでおく部署だって言う噂もあるけどな」

 そう言って先輩は笑った。

 そのまま教えられた社史室に足を運んだ。敷地内の別館は、活気溢れる本社棟とはまるで違い、穏やかさと静けさに包まれていた。2階に上がって、廊下の突き当りにその部屋はあった。

 僕が、社史室にふさわしいと言うべきなのだろうか、大きく重厚な扉を開けると、冊子に目を落としていた男性が顔を上げて、老眼鏡をずらしながら僕の方を見た。それがムネさんこと、宗山さんだった。

 自己紹介と社史室にやってきた理由を説明すると、ムネさんは五分ほどで必要な資料をまとめてくれた。それからも、分からないことがあってメールで質問をすると、いつも端的に適切な回答やアドバイスを返してくれた。そのおかげで、僕の準備は順調に進み、結果も上々だった。

 ムネさんと個人的に親しくなった理由は自分でも良く分からないのだけれど、気が付けば、二人で食事するようになっていた。頻度はそれほどじゃない。月一回会えば多い方だ。だけど、三か月以上会わなかったということもない。

 ムネさんと飲んでいて感じる落ち着きは、ムネさんの人柄によるところが大きい。ただ優しいというだけじゃない。ムネさんには、一本太い芯が通っていて、揺らぐところがないのだ。

 僕が仕事や恋愛なので悩んでいて、相談したとする。そんなとき、ムネさんから直接的なアドバイスが返ってくることはほとんどない。ただ、真正面からしっかりと受け止めてくれる。そして、その様子に僕は深い安堵を感じるのだ。

 ちなみに、これは部長から聞いた話だけれど、ムネさんは社史室にお払い箱にされたわけではなかった。営業の前線でばりばり仕事をしていた頃に、奥さんが大病を患い、看病のために自ら一歩退いたのだそうだ。

 もしそんなことが無ければ、自分のポジションには今ごろムネさんが座っていただろうと、なぜか悔しそうに言った部長の顔を、僕は時々思い出す。

「珍しいですね」

 一口目のビールの後、リラックスして僕は切り出した。

「何が?」

「スポーツ新聞です。最近って、なんでもスマホで確認するから、さっきのムネさんみたいにスポーツ新聞を広げてる人って、なかなか見ないなと思って。かなり真剣に読まれてましたけど、何か面白いニュースでも載ってましたか?」

「面白いって言うか、大丈夫なのかなって」

「またですか?相変わらずの心配性ですね」

 実際には、ムネさんは心配性というよりも、おせっかい焼きなのだけれど、僕はそんな風にからかった。

「そうやって馬鹿にするけどな、長く生きていると、ただそれだけで色々と目につくことが増えるんだよ」

「それは、そうなんでしょうけど、ムネさんの場合は極端ですよ。それで?」

「この流れではあんまり言いたくないが、」

 お酒のそれよりも少し頬を赤らめ、ムネさんは言った。

「大谷だよ」

 意外なムネさんの一言に、飲みかけていたビールを吹き出しかけた。

「大谷って、あの大谷ですか⁉大谷翔平⁉いや、大谷って言ったら、ついこの間、1,000億円ってメジャーリーグどころか世界中のプロスポーツ界の歴史上、最高額で契約したばかりじゃないですか。そんな大谷の何を心配するんですか」

「誰が誰を心配してるんだって思ってるんだろ」

「いや、たしかにそう思わなくもないですけど、大谷の場合は誰が心配したってそうなりますよ」

 ニヤリと笑いながらそう言ったムネさんに返した僕の言葉は、本音だった。

 そもそも、ムネさんのお節介はとにかく対象が広い。視界に入る全ての人の何らかを、ムネさんは気にかけている。僕だって、その一人だ。その中にはムネさん自身が言った通り、「誰が誰を心配してるんですか」ケースも結構ある。

 ただ、こういう時に普通、突っ込みたくなるのは「誰が」の部分であるのに対し、ムネさんのそれは「誰を」の部分に違和感がある。あまり心配したくないような感じの悪い人や、何らかの点で対立する人のような、普通ならしないような人まで、ムネさんは気にかけるのだ。

 今までも、その違和感にびっくりさせられたことは何回もあった。でも、今回のは今までの奴とは種類が違った。ネガティブではなくて、ポジティブな意味で、普通心配しないだろうというケース。しかも、スケールも一番大きかった。

「それで、大谷の何を心配してるんですか?」

「デコピンだよ、デコピン」

「デコピン?デコピンって何ですか?」

「大谷が飼ってる、コーイケルホンディエって言う種類の犬の名前だよ」

 大谷が犬を抱きかかえてMVP受賞後のインタビューを受けていた場面を思い出した。

「へえ、あの犬、デコピンって言う名前なんですか。それで、デコピンがどうしたんですか?」

「大谷が遠征中はデコピンと離れて暮らすことになるだろ」

「その間の面倒をどうするかって言う話ですか?」

「いや、それもあるが、まあ、1,000億円あれば、その辺りは何とでもなるだろう。ただな、ペットを飼ったことがある人には分かるが、離れてると気になるんだよ。ちゃんと自分がいない間の手筈は整えてあっても。ペットが元気にやってるかなって。バッティングって言うのは繊細なものらしいから、バッターボックスの中で打撃に集中できなくなるようなことがなけりゃいいなって」

 いかにもムネさんらしい話だなとは思ったが、納得はできなかった。

「いやいや、みんながムネさんみたいに、そんなことまで気にし始めてたら、大変なことになりますよ」

「どんな風に?」

「それはその、ほら、世界が平和になりますよ」

「なら、いいじゃないか」

 そして、ムネさんは僕に次の飲み物を尋ね、なんとなく言いくるめられたような感じのまま、その話題は棚上げにされた。

 しばらく別の話をしながら飲み食いした。犬の名前も忘れかけていた。ところが、ふと素朴な疑問が思い浮かんだ。

「ところで、さっきの大谷の話ですけど、犬の名前とか、コーイケル何とかって言う犬種とか、そんなことまで記事に出てるんですか?」

「ああ、名前はここ、犬種はここだ」

 たしかに、ムネさんが指さした紙面のそれぞれ別の端っこの方に、デコピン、コーイケルホンディエと小さな字で書かれていた。普段だったら、絶対見落としそうな記事だった。

「良く、見つけましたね。こんなところまで目を通すって、よっぽどの暇人だけですよ」

 と笑ってから、気が付いた。ああ、だいぶ待たせてしまったんだなと。

 僕が謝ろうと思って顔を向けると、さっき注文を済ませたばかりなのに、いかにも僕の言葉なんて聞こえていませんでしたよというような感じで、ムネさんがメニューとにらっめこしていた。

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