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バルバレスコ村にて

「それで課長は、そのネッピオーロとバルバレスコのどっちのワインが好きなんですか?」

 いつの間にか、さっきまでは別のグループにいた、若手の男性社員までが話に加わってきた。

「違うよ、ネッピオーロはブドウの種類、バルバレスコはワイン産地の村の名前。で、俺が好きなのは、バルバレスコ村で作られてる、ネッピオーロ種の赤ワイン」

「なんだか、ややこしいですね。やっぱりワインは難しいな」

「別に難しくないよ。マトリックスで覚えたらいいんだよ、自分の好みのワインを産地とブドウの種類で。例えば、チリのカベルネソーヴィニヨンとか。そしたら、お店で注文が簡単になるし、がっかりすることも少なくなる」

 いつもは居酒屋ばかりの課の飲み会が、今回に限ってイタリアンのお店になったのは、ワインが飲みたいという女性陣のリクエストだった。実際、ワインに興味があるのだろう、お店に入って席に着くや否や何人かが集まってワインメニューを見ながら、ああだこうだと話しだした。

 俺はその輪には加わらず、中堅男性社員たちとプロ野球の話をしていたのだが、飲み会が始まってしばらくすると、向こうの方からワインについて教えて欲しいと声がかかった。

「課長、ワインお詳しいんですよね?」

 目を輝かせながら問いかけてくる、女性社員の目に嫌味や忖度の色はなかった。それでも俺が、その話題に乗り気じゃなかった。

 彼女が俺にワインの質問をしてきた理由。それは、俺がグルメだから、ではなく、今の課に配属される前の3年間、イタリアの販売会社に出向していたからだった。

 イタリアに住んでいたから、ワインに詳しくなるわけじゃない、というのは正しい。ただ、ワインが日常的に飲まれている土地で暮らしていると、たくさんの種類のワインを飲む機会が多かったのは事実だ。そして、基本的に物事の経験値と言うのは、どれだけたくさんの種類の経験をしてきたかに依るところが大きい。特にワインはそうだ。

 ソムリエになるような知識はないけれど、一般的な標準から言えば、俺はワインについて詳しいと言って良いだろう。し、俺はワインが好きだ。日本に帰ってからも週になれば、市内のワインショップを巡って好みのワインを探し、そのワインを夜に開けるのが何よりの楽しみにしているほどだ。

 自分が良いなと思っているものを人に勧めるのも好きだ。課のメンバーにも、毎週のミーティングの度に、最近読んでよかった経済書を推薦したりもしている。

 それじゃあ、どうして、女性社員からワインの話を振られたときに気が乗らなかったのか、一言で言ってしまえば、喋り過ぎてしまうことを恐れたのだ。

 一般的に言っても、ワインが好きな人間と言うのは、蘊蓄を語りがちだ。そして、そういう人間と言うのは、あの人は知識をひけらかしているのだ、格好をつけているなどと、言われがちだ。特に、ここにヨーロッパ帰りと言う名札が加わると、ヨーロッパかぶれと評判がもう一枚乗る。

 イタリアでお世話になっていた先輩からは、帰任の際に、日本に帰ったら同僚や部下の前でワインの話は絶対にするなと、アドバイスをもらったし、実際帰国してから、そんな評判が、日本で仕事をする上ではマイナス以外の何物でもないことはすぐに分かった。

 だから、俺はワインの話に加わりたくはなかったのだ。だが、向こうから話を振られて、何もしゃべらないわけにはいかない。ただ、多くを喋るつもりはなかった。お茶を濁す程度で切り上げるつもりだった。

 はずなのに、一度話始めると止まらなくなった。

 まず、基礎的なワインの種類や、有名なワインの産地の話をした。そこで切り上げるチャンスもあった。それなのに、勢いがついて、干しブドウから作られる特別なワインや、有名な醸造家の話題を取り上げた。それからもぺらぺらとしゃべり続け、ついには話はイタリア北部の小さな村、バルバレスコ村にまでたどり着いてしまったというわけだった。

 そこで我に返った。さすがに、バルバレスコ村から横浜スタジアムに話題を戻した方が良いだろう、まさにそう思っていた瞬間に、よりにもよって絶妙な質問が、俺の次のスイッチを入れてしまった。

「じゃあ、ブドウの種類と村が一緒だったら、大体同じような味のワインになるってことなんですね」

 ツボだった。語りたいツボだった。それでも心のどこかで、やめておけと言う声が聞こえたが、どうしても自分を止めることができなかった。文字通り、言葉が口からほとばしり出た。

「そう思うだろうけど、それが違うんだよ!さっきも言った通り、それで大体の傾向は掴めるけど、飲み比べていくと、その中でも差があることが分かる。理由は色々あるけど、特に土壌の差が大きい。

 例えば、バルバレスコ村でも元々海の底で石灰質の砂の土壌のところもあれば、泥質のところもある。大体はエリアで土壌は分かれてるんだけど、場所によっては、同じ畑の中でも土壌が違うこともある。これがワインの味に大きく影響してくるんだ。

 俺が訪れたバルバレスコ村のワイナリーでは、ワインのボトルの隣に、そのワインを作ったブドウ畑の土が飾ってあってさ、一目で、土の違いが分かるようになってた。それで、それを見てからワインを飲むと、たしかに石灰質の畑のワインはミネラル感があって、泥の方はタンニンが強く濃厚な味わいのワインだったんだ。

 最近、テロワールって言う言葉をよく耳にするようになったけど、特にフランスのブルゴーニュ地方を中心に、畑ごとの土の特徴を前面に出すようになっていて、畑ごと、それどころか畑の列ごとにそれぞれ別のワインをリリースするところも増えてきているくらいなんだ。

 基本的には、そういうところほど、こだわりを持ってワインを作ってるから、美味しいワインをラベルから見つけるコツの一つは、名前が長いラベルのワインを買うこと。だって、国、県、村、作り手、畑、畑の列って、細分化していくほどワインの名前は長くなっていくからさ」

 と、ここまで一気に吐き出して、ようやく我に返った。しまったしゃべり過ぎた、と思った。と言うか確信した。

 幸い、メンバーは興味を持って聞いてくれているか、聞き流してくれているかの二パターンの反応だったが、このつけが後で回って来る可能性もないとは言えなかった。さあ、どう挽回しようと頭を悩ませていると、さっきの女性社員が、今度は助け舟を出してくれた。

「でも課長、それだけワインに強いこだわりがあるということは、他のものにもこだわりがあったりするんじゃないですか?」

 これだ!!とひらめいた。ここで、おおげさに話を盛れば、ここまでのワインの話も冗談だったという風になるはずだ。話の盛り先は何でも良かったのだが、ちょうどそのとき、レストランの入り口に置かれた消毒液のボトルが目についた。

「あるよ。特にアルコールに関しては、ワインだけじゃなくて全般にこだわってる。アルコール消毒液にだってこだわってるくらいだ」

「消毒液ですか!?」

 目を丸くした女性社員の反応を見る限り、掴みはうまく行ったようだった。

「ああ、例えば会社には、玄関とか食堂とか色んなところに消毒液が置いてあるだろ。あれ、それぞれ総務担当者が違うから、使われてるアルコール消毒液のメーカーとか製品が違うんだ。ってことは、当然、香りとか、手触りも違うっていうことだ。

 飲むわけじゃないけど、アルコールだし、一日に何度も使うものだろ。だから、やっぱり自分が好きなやつを使いたいだろう。俺のお気に入りは、2階と3階の間の階段の踊り場に設置してある、水色のボトルのやつ。あの、少し癖のある匂いと、その反面に滑らかな感じが好きなんだ、

 そのせいで、消毒するときには、遠回りしたり、用がなくてもわざわざ足を運んでるくらいなんだ・・・」

 あとは、「なんてね」の一言をつけ足せば良いだけだった。

 実際、そのための冗談を言っていますよ風の、薄い笑みを浮かべかけていた。それなのに、年齢の違いなのだろう、若いメンバーの方が一瞬早かった。

「ありそう〜!!」

 見たことないくらいに、全員の声と表情が一致していた。

 俺の顔に張り付いた笑みが、引き攣ったまま固まった。


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