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心が震えた一言、その三秒前

 坂本龍一は、「Merry Christmas Mr.Lawrence」を苦もなく書き上げた。あの有名な旋律が、空から落ちてきたように、本当にただ頭に思い浮かんだのだそうだ。

 私のような平凡な専業主婦からすれば、それは純粋にすごい話でしかない。

だが、当の坂本龍一自身は、そんな風に簡単に出来上がった曲が自分に代表曲と呼ばれることに反発した。一時期はこの曲を演奏することを止めていた時期さえあるそうだ。そして、「Merry Christmas Mr.Lawrence」を超える曲を作ろうとした。

 ところが、どれだけ努力をしても、いや努力をすればするほどに、その挑戦は苦しい戦いとなった。

 もちろん、「Merry Christmas Mr.Lawrence」以降も、それこそ亡くなる直前まで、坂本龍一は数えきれないくらい多くの名曲を世に送り出し続けた。そもそも、芸術とはそのできの良し悪しで測る類のものではない。それが日本の音楽史にこれからも残り続けるだろう天才の作品であれば、なおさらだ。

 ただ、あの名曲がまるで何かのはずみのように生まれ、そしてその出自が自らの生みの親である作曲家に、ある種の苦しみを与えたというエピソードは、何かの啓示のように、私の心に深く突き刺さっている。

 ところで、私の心が文字通り震えたあの言葉を、あの言葉が紡がれた瞬間を思い出すとき、私は決まってこのエピソードを思い出す。それには二つの理由がある。

 まず第一に、その言葉が私に与えた衝撃が、私が「Merry Christmas Mr.Laurence」を初めて聞いた時と同じくらいに大きかったということ。さすがに世界的な名曲と比較するのはおこがましいことは十分に承知しているが、その言葉は個人的にはそのくらいのインパクトがあった。

 そして二つ目の理由は、その言葉を口にした男性の風貌が、坂本龍一にそっくりだということだ。

 やせ形でひょろりと背が高く、眼鏡をかけた細面の髪の毛と無造作な髪は真っ白。風貌の特徴を上げれば、すでに似ていることは伝わると思うが、そもそも顔が似ている。

 しかも、そっくりなのは、外見だけじゃない。

 坂本龍一は、「教授」と呼ばれたように知性的な人間であった反面、自らの信じた正義のために戦う人だった。それは、晩年の脱原発取組みや、学生運動で校長室を占拠したという高校生時代の逸話からも明らかだ。

 そしてその男性もまた。自分の信念を曲げることのない、武闘派として社内で恐れられている。まあ、こちらの男性の場合は、その信念のほとんどが、思い付きや思い込みで、周囲の人たちが恐れているというよりも、振り回されていると言った方が良いのかもしれない。

 その男性のせいで、坂本龍一も曲を聴いている分には素晴らしいが、近くにいたら迷惑な人かもしれない、という風評被害が私の中で発生しているほどだ。

 男性の名前は三村さん。私の旦那の上司だ。

 重要な交渉の直前での方針転換(180度)や、気まぐれな資料作成命令・作成後の結局使わない判断、遅刻、極端な食そして人の好き嫌い、等々、はた迷惑というギフトを二物どころか、両手で余るほどに神から与えられた人物、それが三村さんだ。

 なぜ、そんな傍若無人が許されるのか、答えは単純だ。三村さんは仕事ができる。やっていることのプロセスは目茶苦茶でも、最後には必ず結果を出す。というか結果が出る。

 その天賦の才は、会社に実りを、部下に災厄をもたらす。

三村さんがその剛腕と傍若無人で名を轟かせる一方、三村さんに振り回される部下の代表格として社内の同情を一身に集める、私の旦那はある日ぽつりとつぶやいた。

「あまりに、いっつも最後は丸く収まるからさ、ときどき、俺の頭が悪くって、三村さんが支離滅裂に思えるんじゃないかって、勘違いしそうになることがあるんだよ」

 自分の伴侶だからかばうのではなく、三村さんが支離滅裂じゃないと考えるのは、勘違いに過ぎない。三村さんは、間違いなく支離滅裂なのだ。だが、天才的なかじ取りと瞬発力で、プロセスの過ちをねじ伏せてしまう。

 もちろん旦那ほどではないが、私自身も三村さんとの付き合いがある。私の旦那を中心とした、振り回されの円は旦那の隣にいる私を巻き込むのには必要十分を超えて大きいのだ。

 夜中に家に押しかけられてすっぴんで料理を作らされたり、かと思えばその逆に、事前の旦那からの空襲警報で万全の準備を整えていたらうちの前まで来て引き返したり、週末の家族のスケジュールを前日のゴルフ招集命令でぶち壊されたり、まあそんなところだ。

 ただ、私や我が家の場合は、会社と違って基本的に三村さんとの関係から実りを得ることがない。せめて、旦那を竜巻のように社内で引上げてくれることを祈るくらいだ。上に引き上げるのではなく、僻地に飛ばされる確率の方がよほど大きいような気もするが。

 そんなこんなは偽りのない気持ちだ。だが、私は、三村さんのことが嫌いじゃない。

 行動のような表面的な部分は別として、人間としての本質的な部分では軸がぶれないし、裏表がない。そして何より、発想が面白い。そこから紡ぎだされる、言葉が強い。天才というのとは違うかもしれないが、異才だと思う。

 異才は人を惹きつける。私の旦那が、なんだかんだと言いながらも、三村さんから離れようとしないのも同じ理由なのだろうと思う。家に帰ってきては、愚痴の中で三村さんの情報・伝説を毎日のように私に更新してくれる旦那は、まるでシャーロック・ホームズの事件を記述するワトソンのようだ。

 ワトソンと言えば、ホームズにとっては、ただの記録係ではない。ホームズにとってこの世界に留まるための錨のようなものであるのと同時に、ホームズの脳細胞を刺激し、才能を引き出す触媒だ。

 その意味でも、私の旦那は、三村ホームズにとっての、ワトソンなのかもしれない。

 私が目にするとき、三村さんの隣には必ず旦那がいる。単独、あるいは他の人との組み合わせを見たことはない。だから、それがこの組み合わせに限定されるのかどうかは分からないのだけれど、少なくとも私の目の前の三村さんの才能(毒舌・いじわる・無理無茶)を引き出しているのは、旦那のように見える。

 旦那は全力で否定するに違いないが、そういう部分はきっとある。実際、私の心を震わせた三村さんの一言だって、きっかけは旦那だった。

 私が三村さんに会うシチュエーションには必ずお酒が絡む。80%の確率で既にお酒を飲んできており、20%の確率でそのあとうちでお酒を飲む。もちろん、一人でお酒を飲むのではなくて、その隣にはいかにも子分然とした私の旦那が添えられている。

 三村さんはお酒が強い。どれだけお酒を飲んできても、どれだけお酒を飲んでも、顔色も声のトーンも全く変わらない。まるで素面だ。まるで素面だが、言っている内容は無理無茶の一点張りなので、逆にそこに凄みを感じる。

 翻って、私の旦那はお酒が大好きだが、それほど強くない。すごくお酒を飲んでも、大してお酒を飲まなくても、真っ赤な顔で、脱ぎ捨てられたスーツのように、ダメージを受けたスライムのように、しなだれる。だれる。三村さんの隣で、飲んでいると、氷の彫刻とぬるま湯みたいだ。

 そして、酔っぱらった時の旦那にはもう一つ特徴がある。寝落ちするのだ。そして、目やにが出る。

 寝ていても、三村さんや私が何かを言うと、まるで自分は寝てませんよということをアピールするように、突然しゃべりだす。だけど、寝ていたので、しゃべる内容は頓珍漢だ。し、目やにが出ているので、目は半開きだ。

 これは、別に今始まったことではなくて、15年くらい前、私が旦那と付き合い始めたときから変わらない、癖というか、現象だ。

 正直、かなり旦那に惚れていたとしても、これを見たら一瞬で醒めてしまうだろうというくらいに見苦しい。だけど、私はなぜかあまりそれが気にならなかった。そんな旦那の恥部を含めて、旦那という人間を丸ごと受け入れたことが、私と旦那が結婚に至った要因だと言えるだろう。

 ただ、実は私は、この件に関して人知れず頭を悩ませ続けてきていた。

 半目で目やにを浮かべた旦那の寝顔、その様子を私はどこか他の場面でも見たことがあったような気がしてしょうがなかった。でもどうしても、それがどの場面なのかが思い出せなかったのだ。そのせいで私は、15年近く、ずっともやもやとした気持ちを抱え続けてきた。それは、私にかけられた呪いと言っても良かった。

 ところが、三村さんの一言は、造作もなくそんな呪いを解いてしまった。

 なぜその時だったのか、それは運命であり必然だったのだろう。

 三村さんにとっても、旦那の醜態は見慣れていたものだったはずだ。だけど、それまで、そこについて三村さんが何かを言うのを私は、聞いたことがなかった。どちらかというと関心が自分の内面に向かうタイプの人だから、気にも留めていなかったのかもしれない。

 だがその瞬間、坂本龍一の耳が、Merry Christmas Mr.Laurenceの旋律を捉えたように、閃きが三村さんに降りてきた。

 私が一生忘れることのない瞬間。その瞬間はこんな風に訪れた。

 三村さんが、ついでに外で一服してきたのか、煙草の匂いを漂わせながらお手洗いから戻ってくる。自分のグラスの前に座ろうとする。向かいの、ソファにもたれかかって、半分目を閉じて、半分口を開いた、旦那にちらりと目をやる。そして、何かを思ったというよりも、何かを見つけたような表情を浮かべる。

 そして、その三秒後だ。まるでそこに書かれた台詞をただ読み上げるように、三村さんが口を開いた。

 三。 二。 一。

「お前は、病気のネコか」

 心が震えた。そして、さらにその三秒後、腹がねじれるほど笑った。


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