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匠の手

 高城和樹が毎年ゴールデンウィークの時期に、妻の里子と陶器市に訪れるようになって5年が経った。きっかけは、雑誌で陶器市のことを知った里子が提案してきたことだった。

 春に次男の和彦が大学進学し、子育てが一段落して迎える初めての大型連休だった。これから夫婦二人で過ごす時間が長くなる中で、どんな風に過ごして行くのか、ぼんやりとそんなことを考えながらも特にアイデアが思い浮かんでいなかった和樹は、一も二もなく里子の提案に賛成した。

 つまり、和樹にとっては陶器市はあくまでも手段に過ぎなかったわけだ。

 陶器市だろうと、中古車市だろうと、もしそういうものがあるとすればだけれどバナナ市であろうと、二人で出かける目的になれば何でも良かった。そもそも陶器に興味がなかった。なので、実際に陶器市に足を運んでみて、和樹は控えめに言って度肝を抜かれた。

 移動時から、驚きの予兆はあった。

 東京から電車を乗り継いで三時間。埼玉を抜けたあたりから、車窓からの景色は、どんどんと日本古来の緑豊かな山間部の様相を深め、一方で電車の車両はどんどんと短くなり、その先に大きなイベントが待ち受けている感は皆無に等しかった。

 ところが、それと反比例するように密度は上がっていった。ある種の人の密度だ。老若男女、見た目もばらばら、だが、同じ匂いがした。陶器好きの匂いだった。陶器好きの人たちが、陶器漁りを前に、胸を躍らせている匂い。そんな匂いが、熱気が、車内に充満していた。

 陶器のイメージと、その熱気のギャップに和樹は困惑した。もし自身も陶器市に向かっているのではない状態で、この電車にたまたま乗り合わせたとしたら、どこか宗教的な熱を感じて、和樹は困惑よりも小さな恐怖を覚えたかもしれない。それくらいの熱量だった。

 陶器市の会場はさらに凄かった。

 市という言葉から、どこかの建物に数十の陶芸作家が集まって、出店で自分の作品を販売しているようなものを、和樹は想像していた。だが和樹を待ち受けていたそれは、スケールが和樹の想像とはまるで違った。

 町のメインストリート、横道、公園、あるとあらゆる場所に何百という陶器を販売する店舗やテントが立ち並んでいた。それは、陶器市というより、陶器町だった。しかも、その全てが熱心に商品を吟味する客で賑わっていたのだ。

 和樹にとっては、このエリアにというより、日本という国にこれだけの陶芸作家と陶器愛好家がいるのかというレベルの驚きだった。そしてまた、周りの群衆と同じような熱量で陶器から陶器へと渡り歩いていく里子の姿も、和樹には新しい発見であり、小さな驚きだった。

 里子が心の底から楽しんでいるようだったのは嬉しかったが、和樹は消耗した。

 陶器市は際限なく広かったし、混雑していた。何より、圧倒された。和樹としては、里子には気付かれないようにしているつもりだったが、表情に出ていたのだろう。昼食の場所を探していた時に、里子が切り出した。

「何か自分のものも探してみたら?」

「陶器を?俺が?いいよ、俺は食器とか興味ないし、買った食器で美味しいものを作ってくれたら」 

「まあ、そう言わず。せっかくだから、記念品だと思って。どうせだったら、使うものがいいから、あなただったら、お酒用のお猪口なんていいんじゃない」

 言葉だけじゃなく、午後になって市巡りを再開すると、里子はお猪口を見つけるたびに、和樹に教えてくれた。

 最初の内は、お付き合いで見たままの適当な感想を述べていた和樹だったが、いくつものお猪口を見ているうちに、違いが分かってきた。そうすると、自分の好みに合ったものを探したくなった。

 探すのに事欠くことはなかった。何と言っても、陶器町だ。探し始めると、無数のお猪口があった。ところが、色・形・質感・手触りの全てとなると、和樹の好みを満たすお猪口はなかった。そうすると、余計に探すのが面白くなった。

 最終的に、予定の滞在時間を大きく超えたのは、里子ではなく和樹の希望だった。そして、最後の最後に小さなテントの片隅で、光沢のある深い藍色のお猪口を見つけた。そのお猪口に巡り合えた時の、喜びは大きかった。

 その成功体験が忘れられなくて、その翌年から、陶器市が近づくと和樹は里子を陶器市に誘うようになった。里子も、喜んでついてきてくれた。そうして、ゴールデンウィークの陶器市は恒例行事となった。

 毎年足を運ぶと、陶器市に仕組みや陶器に関しての知識もそれなりに増え、それに伴って色々な楽しみ方を覚えた。それでも、和樹が買うのは一個のお猪口というのは変わらなかった。

 陶芸家の作風と、和樹の好みには合う合わないがあるので、以前に買ったことがある陶芸家の店で気に入るお猪口に会う可能性が高かった。同じ陶芸家の出店であっても、販売されている作品には年ごとに変化があった。

 ただ、和樹は同じ陶芸家のお猪口は買わないと決めていた。新たな出会いを求めて苦労する。その苦労が楽しかった。毎年その苦労は報われた。そして、どうしてだかそれは、目立たない場所にある、小さな店であることが多かった。

 その店もそうだった。

 和樹が、メインストリートからは逸れる小道を抜けた場所にある、その小さな公園の会場を発見したのは、トイレの看板のおかげだった。10ほどのテントが並ぶ会場は、こじんまりとしていて人込みもそれほど多くなく、いかにも出会いがありそうな雰囲気を漂わせていた。

 はやる気持ちを抑え、まずは用を足してからテントを回り始めた。特徴のあるお店が多かったが、これといったお猪口には出会えず、和樹がもはや陶器市の醍醐味の一つになっていると言っても良い、空振り感を感じ始めた時だった。

 一つのお猪口が、和樹の目に飛び込んできた。

 使い込んだ銀の器に、淡い水色のしずくを落としたような、お猪口というよりは平杯のような酒器だった。

 その美しさに、手を触れることもできず、和樹は立ち尽くした。

「浅い器の方が、お好きですか?」

 声を掛けてきたのは、いかにも陶芸家然とした白髭をたたえた老人だった。

「いえ、今までは、深さのあるお猪口だけ買ってたんですけど、器としてすごくきれいだなと思って」

「ありがとうございます。見た目もそうですが、私は、酒を飲むのもこっちの方が良いと思ってるんです。口が広い分、酒が香る。それに、深い器だと一気にあおって飲んでしまいますが、これだと、酒がこぼれてしまわないように自然とゆっくりとした飲み口になる。だから、酒を味わえる」

 思わず引き込まれるような、含蓄のある話し方だった。

 老人の言葉を聞くと、和樹はどうしても、その酒器が欲しくなった。こっそりと値札を見る。これまで買ってきたお猪口と比べると、値段が一桁違った。

 安くはなかった。だが、買えない金額でもなかった。里子には言えないが、陶器市でそんな高い買い物をしたと疑われることもないだろう。

「頂きます」

 良い買い物をされましたねというように頷きながら、老人は酒器を新聞紙で包み、そして名の入った小さな木箱に収めた。

「歩き回られて、喉が渇かれているでしょう。茶でも、一杯いかがですか?」

 支払いを終えると老人は、和樹を誘った。老人が指さしたテントの奥の休憩スペースの小さな机の上には、今和樹が購入したのと同じ色合いの茶器のセットが置かれていた。

「茶碗も、ずいぶんと浅いんですね」

「酒も茶も、味わい方は一緒です」

 手慣れた感じで、老人は和樹の目の前の茶碗、それから手前の自分の茶碗にお茶を注いだ。

「どうぞ」

 老人に勧められて、ゆっくりと和樹はお茶に口をつけた。たしかに老人が言った通り、こぼさないように気を付けながら飲むと、いつもよりずっとお茶の香りと味を感じることが出来た。

 そんな和樹を見てにっこりと笑いながら、老人も茶碗に手を伸ばし、そしてお茶を飲んだ。良く見れば、プルプルと手が震えていて、器からも老人の口の端からも、ぽたぽたとお茶が零れ落ちた。

 和樹は心の中で呟いた。

「こぼすんかい」

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