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カレーパンに愛をこめて

 カレーパンが好きだ。食べ物の中で一番であることはもちろん、人生における全ての中でも、トップを争うくらいに、カレーパンが好きだ。

 それだけカレーパンが好きなだけに、こだわりも強い。

 まず皮は絶対に揚げているタイプの方が良い。たっぷりの油でしっとりと揚げられていて、でも表面のパン粉はカリっとしているのが理想で、少し甘みがあれば言うことなしだ。中の具材はゴロゴロと大きめで、カレー自体は、十分に煮込まれた粘度の高くて深みがある辛さのやつが好きだ。

 ステーキカレーだったり、半熟卵カレーだったり、オクラカレーだったり、最近は特徴のある具材のカレーパンも多いけれど、基本的な好みを満たしてくれていれば、気にしない。ただ、コーンだけはいただけない。

 言うまでもなく、そんなこんなは完全に僕の個人的な意見だ。真のカレーパン好きとして、僕は十人十色のカレーパン嗜好を百パーセント尊重する。するんだけど、そのせいで困っていることがある。

 僕のタイプに完全に合致するカレーパンが、見つからないのだ。

 日本人の国民食と僕が勝手に呼んでいても致命的な違和感はないほど、カレーパンはどこにでもある。複数のカレーパンを揃えているお店もあるから、基本的には日本にあるパン屋さんの数だけカレーパンがあると言ってもいいだろう。

 それなのに、僕の運命のカレーパンがない。あまりに巡り合えないから、実は僕はカレーパン的マイノリティーなんじゃないかと、不安になったことだって一度や二度じゃない。

 ちなみに、と言うと奥さんに怒られてしまうが、結婚のきっかけもカレーパンだ。

 始まりは、友達が出店しているフリーマーケットを覗くために、初めて隣町に足を踏み入れたことだった。

 フリーマーケットで友達の彼女からムーミンパパのマグカップを買った帰り道、通りかかったスポーツショップで、僕は前から探していた自転車用のヘルメットを見つけた。オッと思って、覗き込んだショーウインドウに一軒のパン屋さんが映っていた。

 小さなパン屋さんだった。軒先には赤と白のチェック柄にテントウムシのマークが入ったひさしが掛けられ、店内を覗き込むと木製のインテリアや小ぶりな陶器の置物がセンス良く配置されていた。メニューも黒板にチョークの手書きで、店主のこだわりが感じられた。そして何より、濃厚な焼きたてのパンの香りが鼻を衝いた。

 すぐにスマホで検索してみると、地元ではかなり人気のパン屋さんだった。残念ながら、カレーパンに関する記述はなかったけれど、ベーコンと黒胡椒でトッピングされた、自家製パンのたまごサンドは絶品と賞されていた。

 カレーパンは別格として、基本的に僕はパンが好きだ。しかも、こんな晴天の日曜日に、どこか見晴らしの良い場所を探して、ビールを飲みながらベーコンたまごサンドを食べるというのは、悪くないアイデアのように思えた。というか、想像するだけでも最高だった。

 お店に入ると、小さな店内は五人ほどのお客さんでごった返していた。こういうお店の人気メニューは売り切れるのが早い。色んなパンを見たかったけど、まずはたまごサンドを確保するのが先決だった。

 レジ近くの冷蔵ケースかなと当たりをつけると、幸いなことに最後の一個をゲットすることができた。ほっとして、陳列棚に目を向けると、香ばしい茶色のパンがずらりと並んでいて、僕の期待はさらに高まった。

 アルプスの少女ハイジが何と言おうと、パンは白くて柔らかいやつよりも、茶色くて歯ごたえがあるやつに限る。

 さあ、一個一個を品定めしようかなとした次の瞬間、僕の目は釘付けになった。

 カレーパンがあった。キーマカレーパンだった。

 手が震えた。いくらなんでも毎回、カレーパンを見つけるたびに手は震えない。ただ、このお店との運命的な出会いと、ここまでの印象の良さが、そのキーマカレーパンをさらに特別なカレーパンに仕立て上げた。震える手で、なんとかトングでキーマカレーパンをトレーに移した。

 キーマカレーパンとたまごサンド、そしてビールを一秒でも早く味わいたくって、レジに急いだ。そこで出会ったのだ。シンプルなベージュのコットンのエプロン姿の貴子さんに。

 小柄な体格とは対照的なくらいに、強い意志を感じさせる大きな目。ショートヘア、細いけれど締まった腕。一目で、この人がパンを焼いてるんだなと分かった。一目で素敵な女性だなと思った。

 一瞬固まりかけた僕が、すぐに我に返ったのは一人で店を切り盛りしているらしい貴子さんが忙しそうだったからだ。慌てて、代金を払って店を出た。胸がドキドキしているのが、キーマカレーパンのせいなのか、貴子さんのせいなのか、はっきりとしなかった。

 そんなドキドキを抱えたまま、河川敷に向かった。途中のコンビニでビールを買って、少年野球の試合を見ながらキーマカレーパンを食べた。 

 貴子さんのキーマカレーパンは、好みから言えば僕のタイプのカレーパンではなかった。

 表面はどちらかと言えば焼きカレーパンに近く、具材もキーマカレーなのでゴロゴロではなかった。ただ生地は僕が最も苦手とするフワフワなやつではなくカリっとしていて、キーマカレーは辛みと旨味が互いに引き立てあい、カレーパンとしての全体のバランスが絶妙だった。手短に言ってしまえば、最高に美味しいカレーパンだった。

 それから天気が良い週末は、自転車で少し遠出して、たまごサンドとキーマカレーパンを買うのが僕の習慣になった。

 必然的に貴子さんと顔を合わせる回数も増えた。短い会話を交わすこともあった。お店の宣伝も兼ねて、貴子さんがブログを開設していたので、貴子さんがこのお店を開くまでの経歴みたいなのも分かった。

 高校を卒業してお菓子の専門学校に入学した貴子さんは、最初パティシエになることを目指していた。学校の制度を利用して、ドイツとの国境に近いストラスブールに留学したのも、本場のスイーツについて勉強するためだった。

 ところが貴子さんはストラスブールでたまたま入ったパン屋さんのバゲットの美味しさに感動して、パン食二人になることを決意する。研修していたパティスリーを辞めて、そのパン屋さんで働いた。

 そして3年間の修行を経て帰国した貴子さんがオープンしたのが、フランス語でテントウムシを意味するCoccinelleだった。

 日本で自分のお店を持つのは、資金的に大変だったようだ。両親からは、他のお店で働いて貯金をためてから独立する方法を勧められたそうだし、資金を提供するから雇われパティシエとして働かないかという声掛けもあったそうだ。

 だけど、貴子さんは、頭を下げて銀行からお金を借りてでも、自分自身のお店を持つことにこだわった。それはひとえに、自分が作りたいパンを提供したいという明確な思いがあったからだ。

 そして、貴子さんの想いは叶った。貴子さんは毎日、Concinelleで自分が焼きたいパンを焼き、そして今日もConcinelleには貴子さんのパンが食べたいお客さんが集まっている。

 貴子さんのキーマカレーパンの凄さは、その完成度の高さはもちろん、食べ飽きないことだった。

 かなりの頻度で僕はキーマカレーパンを食べた。それでも飽きることがなかった。それどころか、食べるたびに僕は、貴子さんのキーマカレーパンに新しい発見をした。それはきっと、貴子さんが毎日パンを焼くことに真剣に向かい合っているからだった。

 僕はキーマカレーパンが大好きになった。僕は貴子さんのパンに向き合う姿勢が大好きになった。そして、その内に、貴子さんのことが大好きなんじゃないかと思うようになった。区別がつかなかった。あるいは、区別がついていないと思い込もうとしていた。

 その日僕は、日曜日の夕方という、パンを買うにはあまりポピュラーではない時間帯に、Concinelleを訪れた。店内には、いつもの賑わいはなく、僕の他には若い女性のお客さんが一人いるだけだった。

 別に、そういうお客さんが少ない時間帯を狙っていったわけじゃなかった。たまたま、いつもはお昼に食べたくなるキーマカレーパンを夜に食べたくなった。それだけだのことだ。

 でも、心のどこかで、僕は自分自身に問いかける。キーマカレーパンが食べたくなったんじゃなくて、貴子さんに会いたくなったんじゃないのか、と。

 もしその通りであったとすれば、今になっては自分自身で信じられないようなあの行動も、アクシデント的に発生したのではなくて、無意識かもしれないが僕が覚悟を決めてConcinelleを訪れた結果ということになる。

 本当に何の前触れもなく、それまでデートに誘ったことはおろか、恋愛感情があるかもしれないことを匂わせたりしたことすら一度もなかった。それなのに、僕はいつものようにキーマカレーパンとたまごサンドをレジに持っていくと、貴子さんに切り出した。

「僕のために、一生カレーパンを焼いてくれませんか?」

 ひっくり返りそうになるくらいに、自分自身の言葉にびっくりした。それは、紛れもなくプロポーズだった。貴子さんも、普段から大きな目を、びっくりしてさらに大きく見開いた。

 衝撃から先に立ち直ったのは、貴子さんの方だった。歳は僕より三つ下だけれど、何と言っても、人生経験が違う。

 貴子さんは、少し恥ずかしそうに、でもきちんと僕の方を見て、いつも通りの、愛想はないけれど誠実な表情を浮かべて、はっきりと言った。

「誰かの一人のために、パンを焼いているわけではないので」

 そして貴子さんは、逃げるようにというよりも、単に業務に戻るために店の奥に戻っていった。

「あんな言い方しなくても良いのに、ですね」

 呆然と立つ尽くした僕に、誰かが、さりげなく、でも優しく声をかけてくれた。いつの間にかさっきまでパンを選んでいた、もう一人のお客さんが僕の隣に立っていた。

 それが僕の奥さん、由香さんとのなれそめだ。

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