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ウーロンハイのせいなら良かった

 7時間前の、他ならぬ自分自身の説教だった。

「いいか、田村。失敗するのは良い。次に同じ失敗を繰り返さなければ、それで良い。だけど言い訳はするな。言い訳をする奴は、失敗をした理由から目を逸らす奴だから、同じ失敗を繰り返す。それ以上に厄介なのはな、言い訳をするっていうのは、結局のところ、自分に嘘を吐くっていうことだ。自分に嘘を吐く奴は、幸せになれない。だから、言い訳はするな」

 田村がしでかしたミスは初歩的なミスだった。発注数字を一桁間違えたのだ。

 うちのような中規模の樹脂材料商社にとっては、利益を上げるよりも運転資金の確保の方が切実だ。調達部の担当者が発注前に気が付いてくれたから良かったが、一歩間違えれば大事になるところだった。

 田村は入社8年目、若手社員を抜け出して中堅社員として活躍することをされる年代で、その中でも、田村は来年は主任になるという、うちの部の期待の社員だ。

 仕事に限った話ではないが、ミスは馴れた頃に起こしがちだ。このタイミングで、きちんと話をしておく必要があると思って、時間を取った。

 厳しい話をするつもりはなかった。田村は優秀な男だ。少し話をすれば、理解も納得もしてくれるだろうと思っていた。要点に絞れば、10分もかからない、そう高を括っていた。

 ところが、田村はミスの本質を見ようとせずに、自分の失敗を他責にしようとした。期待しているからこそ、失望感も大きかった。だから、柄にもなく、ストレートな説教になった。

 上司ではあるが普段は冗談も言い合う仲だ。そんな私から思いもかけず厳しい言葉をかけられて、田村は顔色を失った。ショックだったんだろう。だがそれ以上に、私が言ったことの本質を理解してくれたんだと思う。

 今回のミスに対して、そして自分が口にした発言に対して、田村が非を認めて口にした言葉は、きちんと自分の失敗に向き合い、そして私の説教を腑に落とした上でのものだった。

 やっぱり、田村は優秀な男だった。

 それでその件は片が付いた。そうなると、お決まりの展開だった。

「今日は、軽く飲みにでも行くか?」

「はい、お願いします」

「今日は田村の反省会だから、お前のおごりな」

「課長、勘弁してくださいよぉ」

 上司と部下が飲みに行く際の必要事前決裁とでもいうべきくだりを、一応二人できちんとこなしてから、街に繰り出した。

 日常の些細な出来事だったとはいえ、小さな緊張感の後の緩和的なお酒だった。田村も私も、ついいつもよりピッチが速くなった。時間的には店にそれほど長くいたわけではなかったが、かなり杯を重ねた。

 きっと、そのせいだ。どうしてそういう話になったかは、まるで覚えていない。どちらかが切り出すというようなこともなさそうなので、話の流れで何となくそういうことになったというのが、おそらく実際のところなのだと思う。

 とにかく、気が付けば風俗店の待合室に田村と並んで座っていた。

 水より薄いウーロンハイを飲みながら待っていると、田村よりも五つは歳が下だろう黒服を着た若い男が、女の子の写真が並んだカタログのようなファイルを持ってきた。田村に勧められて、私が先に女の子を選んだ。

 次に田村が女の子を選び、お互いが選んだ女の子を何となく確認しあった後、黒服の男の案内で、それぞれの部屋に向かった。店を出たら、近くのコーヒーショップで会おうと決めて、私の部屋の前で別れた。

 そして、その一時間後。私は、田村と約束したコーヒーショップの店先に立ち尽くしていた。いつも通りにふるまうためには、田村と顔を見合わす前に、心の整理が必要だった。それがネオンの下ではなくて、太陽の下だったら、私の顔はきっと蒼白だったはずだ。それくらい私は平静を失っていた。

 私の、男性が勃たなかった。

 落ち着かせるように、なだめるように、私は自分自身に語り掛けた。

「四十代も後半になってるんだ、最近は仕事も忙しかった。そういう日があっても、全くおかしくないじゃない。週刊誌を読んでいて、中高年向けの強壮剤の広告が多いのは、それだけそういう問題を抱える人が多いってことの証拠だ」

 それは極めてまっとうな論だった。

 だけど、私同士の会話だ。私が納得していないことは、もちろん相手側の私にも筒抜けだ。懐柔しようと、相手は違う方向に論を展開してきた。

「歳よりも、むしろ酒の影響の方が大きかったかもしれない。あのピッチで、しかもチャンポンしたんだ。若い時にだって、飲み過ぎて、せっかくのチャンスを棒に振ったことはあったじゃないか」

 それは、少し心動かされる言葉だった。そして、私のそんな心の動きを見て、さらに相手は畳みかけてきた。

「そうだ、それにあれがあったじゃないか。ほら、あれだあれ。先週くらいに、同じような古いビルに入った風俗店の火事のニュースが。あのニュースが頭の片隅に残ってたから、もしここで火事が起きて、自分に何かあったら、嫁さんとか娘とかにどう思われるかなんて、余計な心配したんじゃないのか」

 自業自得と言えば良いのか、自作自演と言えば良いのか、どちらが正しいのかは分からない。ただ言えるのは、やり過ぎたということだ。

 たしかに火事はあった。火事のニュースを覚えてもいた。だけど、さすがに、その件とこの件を絡めるのには無理があった。冷静に考えれば、すぐに分かることだ。

 だけど、その時の相手側の私にはその余裕がなかった。一秒でも早く、私を丸め込んで、この嫌な記憶を忘れ去ってしまいたかった。

 その強引さが、私に七時間前の田村への説教を思い出させた。天に唾を吐くというよりも、鏡に映った自分自身に唾を吐いたようなものだった。

 自分に嘘を吐く奴は、幸せになれない。

 私は私自身に嘘をついている。そう認めると、真実に向き合わざるをえなくなった。

 真実。私は、女性の裸に緊張したのだ。

 結婚して22年。子供も二人いる私が、女性経験のない若者のように、女性の裸に緊張し、そして私の男性は勃たなかった。それが真実だった。

 妻との関係がなくなって5年以上経つ。その間、もちろん妻以外の女性とそういうこともなかった。だけど、欲求がなくなったわけではなく、この歳になってもと半ば笑いながら、自分で処理してきた。

 だから、まさかそんなことになるなんて、思ってもみなかった。

 いきさつは覚えていないけれど、田村と店に入った時は、気持ちは高揚し、久しぶりの行為を楽しみにしていたくらいだ。それなのに、形ばかりの下着を脱ぎ去り、裸で私の前に横たわった女性を目にして、私は緊張した。

 しばらくは商売用の笑顔を浮かべていた女性が、やがて訝しげな表情に変わり、自分に手を触れようとしない私に、私の被害妄想かもしれないが、ついには事態を察したような憐れみをその両目に湛えたとき、私は部屋を飛び出していた。

 せめてもの慰めは、私が田村に投げかけた説教が、私の本心だったことだ。だからこそ、私は自分自身に言い聞かせることができた。真実に向き合ったこと、それは間違いじゃないんだと。

 ただそれでも、私には時間が必要だった。さらなる内なる対話が必要だった。

 あまりに真剣だった。だから、田村がそこに立っていることにもまったく気が付いていなかった。声をかけられたときには、心臓をぎゅっと鷲摑みにされたような気がして、思わず飛び上がりそうになった。

「課長・・・?」

 よほど深刻な顔をしていたのだろう、田村はいかにも気を使っているような声のかけ方だった。ひょっとしたら、タイミングを見計らって、しばらく前からそこにいたのかもしれない。

「田村・・・」

 何を言っていいのか分からなかった。

 言葉を失った私と、いかにも気まずそうな田村の間に沈黙が訪れ、さっきまでは全く耳に入らなかった、コンビニの入店のメロディが聞こえてきた。

  やばい。とにかく何か言わないとと、考えもまとまらないままに口を開きかけた。だが、田村の方が一瞬早かった。

「すみませんでした!!」

「えっ!?」

 深く頭を下げた田村は、私の表情の変化に気が付くことなく、そのまま言葉を続けた。

「女の子、写真と全然違いましたよね。店決める前に無料相談所で、そこだけはちゃんと確認したんですけど・・、って。これ、また言い訳ですね・・・」

 皮肉なことに、田村の記憶にも、私の説教は刻まれているようだった。

 それをチャンスだと考えたりしたわけじゃない。そんな余裕なんてあるはずもなかった。それなのにどうしてそんな対応ができたのかを説明しようとすれば、自己防衛本能としか言いようがない。

 とにかく、気が付けば私は田村の肩を叩いて、ことさら明るく声を上げていた。

「そこは頼むよ、田村。部屋に入ったら、どう見ても写真の女の子のお母さんくらいのおばさんがいて、間違えて清掃中の部屋に入ったかと思ったよ」

「僕も、そんな感じでした・・・」

 私なりに、必死だったのだと思う。口の中がカラカラなのに、あふれ出るように次から次へと言葉が出てきた。

「いくら、身体が盛り上がってても、さすがに限界ってもんがあるだろ」

「いや、ほんとすみません!」

「今日の店は外れだったから、次は田村のおごりな」

「課長、勘弁してくださいよぉ」

 勘弁してほしいのは、こっちのほうだった。

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