正義の見方
近所に美味しいパン屋があるというのは、それほど優先順位が高いわけではないけれど、私が部屋探しをする際に必ず頭の片隅にあるポイントの一つだ。下見の際にその物件の近くにパン屋を見つけると、必ずその店でパンを買って試食する。
それほど優先順位が高いわけではない割に、パン屋の有無、出来・不出来が部屋を決める最終の決め手になったことも何度かある。
私がパン屋にこだわるのは、もちろんパンが好きだからなのだが、それに加えて、良いパン屋(味はもちろん、接客や店内の雰囲気も含めて)がある町は、その町自体が良い町だという子供の頃からの思い込みのせいもある。それが思い込みだという自覚はあるのだが、実際、良いパン屋を決め手に住み始めた町は良い町だったということが多く、たとえその思い込みが外れたとしても、美味しいパンが食べられるわけだから良いかと、あえて矯正しないまま五十歳目前の今日にいたる。
住み始めてからも通勤や週末の散歩の際には、心のどこかでパン屋を探していて、そこで良いパン屋に巡り合うこともある。結婚した後に、奥さんが料理が上手だと知った的な予期せぬ幸福で、予期していない分喜びも大きいケースだが、今の家の近所のパン屋もそんな後から知ったラッキーパン屋だ。
ちなみに、それとは逆のケースで、目当てで引っ越してきたパン屋が潰れてしまったり、オーナーが変わってしまったりということもあるわけだが、それを結婚に例えるならどういうことになるだろうかということについては深く考えないようにしている。
今の家の近所にあるパン屋はそんな後から知ったラッキーパン屋の一軒だ。転勤で引っ越してきてすぐに、図書館に利用者カードを作りに行く途中に見つけた。南ドイツ地方のパンを看板に掲げたそのパン屋は、すぐに、ああこれは良いパン屋に出会えたなと直感を私に呼び起させた。
その直感は、これまで数多くのパン屋を開拓してきた経験に裏付けられていた。
清潔感・こじんまり感・温かさ、そういった店構えが一目で良いパン屋の条件を満たしていた。そして、さらに言えば、一目する前から私は私が良いパン屋に出会えることを予感していた。一鼻だ。そのパン屋を見つける少し前から、美味しいパンの匂いが鼻をついていたのだ。
私の目と鼻を虜にしたそのパン屋は、私の舌も一発で虜にした。それからは、毎週末ごとに図書館に通い、その帰り道にその店に立ち寄りパンを買って帰るのが私のルーチンになった。だから、その雨模様の土曜日に私がそのパン屋を訪れたのは、不運というよりも単に気象的確率の問題だった。
パンが好きなのはもちろん私だけじゃない。そして美味しいお店に多くの客が訪れるのは当然のことだ。というわけで、このパン屋の唯一といって良い弱点は行列に並ばないといけないということだった。広く店内で混雑しないよう、一度に入店できるのは三組までと制限があり、両隣のお店に迷惑が掛からないよう、行列用のラインがきちんと設定されていた。
行列は弱点だと言ったが、普段私はそのパン屋の行列に並ぶのが嫌いじゃない。それどころか、焼きたてのパンの匂いを嗅ぎながら、借りてきたばかりの単行本を読む時間は私の一週間の中でもお気に入りの時間の一つだといっても良いくらいだ。パン好き仲間と並ぶという共通感も良い。
ところがその日は違った。私は内心、とても面白くない思いで、行列に並んでいた。雨が降っていたせいで、並んでいる間単行本を開くことが出来なかったことだけが理由じゃない。行列に並んでいる中に、ひどくマナーが悪い男がいたのだ。
まあ見事に典型的なマナーが悪かった。行列に並ぶマナーの悪い図鑑の表紙に抜擢したいくらいだった。
その日は、私を含めて十組くらいが行列に並んでいたのだが、まず、私より遅れてやってきた男は、誰にも聞かれていないのに、忘れ物を取りに帰っていたけど、もともともとここに並んでいたと、にやにや笑いで言い訳しながら私より三組前のカップルと老人の間に割り込んだ。
残念なことながら、こういう輩は行列にはつきものだ。こういう輩に絡むことで余計なトラブルに巻き込まれることは誰だって避けたい。結果、マナー違反が受け入れられてしまうことが多いのも残念ながら事実だ。派手な開襟シャツ、サングラスにパンチパーマという男の風体もあった。まあ、一人分待ち時間が長くなってもしょうがない。本人を除く行列の皆が思った。
だが、それはただ単に待ち時間が一人分長くなっただけでは済まなかった。男の横暴は続いた。今では珍しくなった折り畳み式の携帯電話を取り出すと、同じようなタイプに違いない知人に電話をかけると大声で品のないジョーク(それをジョークと呼ぶのであればだが)を連発し、電話が終わったかと思うと、片手に競馬新聞を持ち片耳にイヤフォンを差すとレースの実況に耳を傾け、買っていた馬券が外れたのだろう罵詈雑言を大声でまくし立て(この時は、少し溜飲が下がった) 挙句の果てに男は、煙こそ行列の外に吐くものの、煙草をふかし始めた。
さすがにここまで来ると、見て見ぬふりはできないよなと私は思った。私の前には小さな女の子を連れた三人組の家族が並んでいたのだが、若いお父さんは娘への影響を気にしたのだろう、注意をそらすように隣の奥さんと女の子に話しかけた。
「じゃあ、今日の夕食はここで買う美味しいパンに合うようにママにビーフシチューを作ってもらおうかな。その間、掃除と洗濯は僕がやっておくね。美緒はばあばに買ってもらった動物の絵本でお勉強しよう。ママの料理の準備が済んだら、みんなで動物の名前のあてっこをしよう。食事の後片付けも僕がするから、ママと澪は一緒にお風呂に入ったらいいよ。ベッドのお話はパパ担当だからね」
娘の気を逸らすためというのもあったのだろうけど、お父さんの話し方は優しくそして自然で、おそらく普段からこういうことをしているんだろうなというのが、にじみ出ていた。最近よく聞く、イクメンパパというやつなのだろう。世代の違いとは言え、よくできたお父さんだなと感心した。
そのときだ。
「いい加減にしろよ!」
私のすぐ後ろで大きな声がした。驚いて振り返ると、私の二つ後ろに並んでいたポロシャツにスラックスという服装の四十代前半くらいの男性が前方を睨みつけていた。
少しタイミングがずれているような気もしたが、いよいよ男の横暴に我慢ならなくなったという感じだった。どちらかというと大人しそうな男性の手は小刻みに震えていた。怒りからくる興奮というのもあったのだろうけど、いかにも暴力的な感じの男にモノ申すということに対する恐怖もあったのだと思う。
それは当然のことだった。男性だけではなく、私たちみんながその恐怖に屈していたのだ。でも、男性は声を上げた。行列のみなが固唾をのんで見守る中、男性は悲壮な決意の表情を浮かべて、男の方に向かって歩き始めた。
その姿に、熱いものが私の中でこみあげてきた。いざというときには、男性の味方になろう。そう心の中で決めた。
男性はゆっくりと私の前を通り過ぎ、そして男の前、ではなくイクメンパパ家族の前で立ち止まった。
おや?と思う間もなく、男性はイクメンパパに、掴みかからんばかりの勢いで嚙みついた。
「あんたな、良い父親・良い夫は家でやってくれよ!みんな迷惑してるんだよ!あんたらみたいな輩がTPOもわきまえず自分アピールを吹聴して回るから、世間一般でもそういうのをやるのが当たり前だみたいな誤った風潮が出来上がって、その結果な、する必要のない夫婦喧嘩がどれだけ増えたか、あんた考えたことあるのか!中には小さな子供がいる家族だっているんだよ!ああ、たしかにこういう意見は言いづらい。格好も悪い。でもな、誰かがやらなきゃいけないときっていうのがあるんだよ!!」
サングラス競馬煙草男を含めて、全員があっけに取られた。行列に沈黙が訪れ、男性の言葉の余韻と雨が傘を打つ音だけが空しく響いた。
男性は、自分の言葉が皆に行き届いたかを確認するように、行列の皆の顔を見回した。そして、充足感に溢れた笑みを浮かべたかと思うと、くるりと背を向け、正義の味方よろしくゆくっくりと行列から歩き去っていった。
誰も男性の背中に「あなたの名は?」と問いかけたりはしなかった。




