熱量
「あ、これは大丈夫そうだな」
隣で高校野球を見ていた親父が呟いた。得点は2対3。リードされた高校が迎えた9回の裏、1アウト2塁3塁、打席には前の打席で一度は同点に追いつくホームランを放っている大会屈指の強打者という場面だった。
どちらも縁もゆかりもない県の代表で、どっちのチームを応援しているということもなかったのだけど、何となく絶体絶命のピンチを迎えた高校を応援する気になっていた。
そんな場面での親父の呟きに、いや大丈夫じゃないでしょ、と頭の中で突っ込みかけたところで、ピッチャーが投球動作に入った。
ここまで一人で投げぬいてきたエースが、138回目のワインドアップから投じたスライダーが、バッターの肩口から入るのを見て俺は思わず声を上げそうになった。バッテリーもキャッチャーも目をつむったに違いない。
だけど、無情にもバッターボックスの好打者が渾身の力で引っ張った打球は、甲高い金属音を残して、猛烈な勢いで三遊間をライナー性の打球が襲った。
サヨナラだ、と誰もが思ったその瞬間、打球はサード寄りに守っていたショートがボールをキャッチした。いや正確に言えば、グローブを狙い撃ちしたみたいに、ボールの方からグローブに飛び込んでいった。
何が起きたのか分からない。そんなショートの顔に浮かんだ戸惑いの表情が、その状況を何より雄弁に語っていた。そして、それは3塁ランナーも一緒だった。我に帰ったショートが3塁に送球し、ホームに向かって飛び出していたランナーは戻り切れずゲッツーが完成した。
「あー!!」
突然の幕切れに思わず声が出た。その感情を共有できる一番身近な人間に目を向けた。そして、思い出した。
「すごいね」
「うん?何が?」
親父はこともなげに答えた。謙遜することで、逆に凄さを際立たせてやろうなどと言う思惑はまるで感じられなかった。
「さっき、大丈夫そうだなって言ったよね。俺は絶対駄目だと思った。大丈夫だって思ったのは、野球を見続けて、50年の経験ってやつ?」
俺の説明にも、最初はポカンとした表情を浮かべていたが、しばらくするとようやく何の話なのかが伝わったのか、半笑いで腹を掻きながら親父は言った。
「ああ、あれな。違う違う」
「違う?」
「そう、違う。あれはオナラの話」
「オナラの、話?」
今度はこっちがポカンとする番だった。ただこっちの場合は、しばらくが100日でも、親父の意図を理解することはなさそうだった。
「オナラが出る前にな、」
戸惑う俺の顔を見るのにも飽きたのか、親父が口を開いて説明を始めた。
「オナラが出そうって感覚が尻の辺りに来るけど、その時に、出そうっていうだけじゃなくて、もうちょっと詳細な情報があるだろ」
「詳細な情報?」
「例えば、量が多そうとか少なそうだとか、音がデカそうだとかスカしそうだとか」
「ああ、そう言う情報ね。分かる」
そこまではスッと頭に入った。
「そう言うのが他にもあって。それが、臭い」
「臭い?」
思わず顔を顰めたのは、また話が迷子になりかけたのと、オナラの臭いが鼻を衝いたような錯覚に陥りかけたせいだった。
「すごい臭そうだとか、それほどでもなさそうだなとか」
「そんなの分かる?」
「分かる」
「どんな情報で?」
「熱量」
「熱量っ!?・・・熱量かぁ・・・・」
反射的に驚きの声を上げようとしたのだけど、すぐに思い当たる節があるのに気が付いて、中途半端な形で振り上げかけたこぶしを下げた。何となく、親父の言わんとしていることが分かってしまった。
さすが親子だ。俺の表情の推移を親父は正確に読み取った。
「そう。分かるだろ。オナラの熱量。出る前の熱量が高いオナラ。あれは臭い。その反対で、量は申し分なくと言うか、たっぷりでも、熱を持たないオナラは臭くない」
親父の説明は、ほぼ俺の頭に浮かんだイメージの通りだった。ただ、まだ腑に落ちないことがあった。
「で、さっきの大丈夫そうだって言うのは?」
「だから、お前がすぐ隣にいるのにオナラが出そうになったから、一瞬席を外そうかと思ったんだ。ほら、親しき仲にも礼儀ありって言うだろ。でも、めんどくさいなどうしようかなって迷ってる内に、熱量が低いことが確認できたから、まあ、ここにいても大丈夫かなって。実際、大丈夫だったろ?」
「たしかに」
ただ、急に空気が汚くなってる気がした。
「いやあ、しかし良かった」
こっちの気持ちにはまるで無関心に、何故か親父が嬉しそうに言った。
「良かったって、何が?」
「いや、実はなこのオナラの熱量と臭いの関係について、いつかお前と話したいと思ってたんだよ」
「なんだよ、それ」
「でも、お前なら、分かってくれるはずだと思って」
「それは、まあ」
「やっぱり、親子だな。ハハハ」
と父子が朗らかに笑い合う、温かな時間が流れたな次の瞬間、
「臭くないオナラなんてない!!」
隣のダイニングでパソコンの作業をしていた姉ちゃんから、甲子園のも親父のオナラのも世界の全ての熱を奪い取るような、絶対零度の冷たい一声が飛んできた。




