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秘密の花園

 そんなことになってるなんて知る由もなかった。だから、ほんと会話と会話の隙間を埋めるくらいの軽い気持ちで切り出した。

「この間、謎の出来事があったんですよぉ」

 自分の口から発せられたアルコール臭と、呂律が回らずに甘くなった自分の口調が鼻についた。

 上司との飲み会という場面を考えれば、客観的にみて突っ込まれて然るべき程度のグダグダ感だったけど、お咎めなしだったのは、その席が無礼講と言う(一応は)建て付けだったから、ではなく、部長と課長の方が僕よりずっとお酒が回っていたからだった。

「へえ、謎の出来事って、面白そうな話やな。どんな話やの」

 去年の春に関西支店から赴任してきた田辺課長が、身を乗り出してきた。

 いかにも話を聞きたがっている感じだったけど、本当に興味があるのか、それが一般的にコミュニケーション能力が高い関西人の反射反応なのかは微妙だった。ただ、自分から始めた話題だったし、ほんのり顔を赤らめた本田部長も、続きを促すような素振りを僕に投げかけてきたのでそのまま話を続けた。

「先週の水曜日か木曜日に販売会議があったじゃないですか」

「お前が部長にしばかれたやつな」

「しばかれてません」

 これは間違いなく、人の話にはとりあえず茶々を入れるという関西人の遺伝子に刻み込まれたプログラムなのでスルーした。

「とにかく、会議が終わってトイレに行ったんですよ。そしたら、名前を存じ上げないんですけど、隣のフロアのナントカ課長とトイレで一緒になったんです」

「50前後くらいで、背が高くて白髪の?」

「ああ、そうです」

「じゃあ、野口やな。俺の同期やねん。ああ見えて、オモロイやつでな。若かった頃に合コンに行った時もな、」

「田辺くんの面白い話は後で聞くから。それで、野口くんがどうした?」

 そのまま田辺課長の話に突入する展開だったけど、本田部長が助け舟を出してくれて、話の主導が僕に戻ってきた。それでも、田辺課長に気を使い、さも本田部長の一言で自分の話だったのを思い出しましたよ、という体を取った。

「あ、そうそう、その野口課長とですね、並んで用を足したんですけど、野口課長の方が先に私より先に用を足し終えられたんです。で、便器の前を離れたんですけど、そのままトイレから出て行かれずに個室に入って行かれたんです」

「小が終わってそのまま大の方に?」

「はい。それで、アレ?と思いながら、私も小の方が終わったので、ズボンを直してたんですけど、そしたら聞こえてきたんです」

「屁の音か?」

 これまた茶々のように聞こえたが、なんとなく話の先を促しているトーンだった。とにかく関西人はめんどくさい。

「違います。ビリビリビリって言う、何って言うんでしょう、すごく小さな雷みたいな。それで、ちょっとびっくりして野口課長が入った個室の方を見たら、ちょうど個室から出てこられて。入ってたった30秒くらいですよ。しかも水を流す音は聞こえなかった。で、そのまま何もなかったようにトイレから出て行かれたんです。一体、何をしてたのかって不思議じゃないですか?」

 話終えて本田部長と田辺課長の顔を見渡した。不思議な話を聞いた時にあるべき通り、2人の顔には困惑の表情が浮かんでいた。そうでしょそうでしょ、と同意を重ねようとして、僕は違和感を感じた。

 同じ木を見ていながら、違う枝を見ているような、そんな違和感だった。

 アレ?と思う間もなく本田部長が僕に尋ねた。

「本当にそれが不思議なの?」

「え?」

 それで違和感の正体に気がついた。二人の困惑は僕の話に向けられたものじゃなかった。それは、僕自身に向けられたものだったのだ。

 戸惑う僕を見て、今度はまるでフォローでもするように田辺課長が会話を繋いだ。

「野口の歩き方、変やなかったか?」

「歩き方ですか、特に・・・。まあ、言われてみれば、少し歩幅が狭かったような気もしますけど・・・」

 あの時の場面を思い出しながら答えた。

「もう一個だけ、聞かせろ。そのバリバリバリって音は何回聞こえた」

「何回?えーっと、たしか2回です」

「やっぱりか」

 ふむふむと、思わせぶりに田辺課長が頷いた。その感じが、ちょっと癪に障った。

「やっぱりって、今のやりとりだけでなんか分かったんですか!?まさか!!名探偵じゃあるまいし」

「なんかって言うか、全部分かったわ。別に名探偵ではないけど、一人の男としてな」

「冗談ですよね!!本当に分かったんなら、教えてくださいよ!!」

「そう、急かすな。そんな大した話でもないし」

 ぶっきらぼうな田辺課長の言葉には、ほんと名探偵が悲しい事件の全容を説明する前のような哀愁が漂っていた。

「締め直したんや」

「締め直した?」

「そうや、締め直したんや。多分野口は、腰を痛めとった。小股で歩いてたのも、そのせいや。で、痛みを抑えるために腰にコルセットを巻いてた。コルセット使うとだいぶ楽やからな。ただ、朝きちんとセットしても、通勤したり仕事してるうちにずれて来て気持ち悪い。それに、用を足す時には邪魔や。だからトイレに行くと、用を足す前にコルセットを一回緩めた。それで用を足し終えてから、誰にも見られない個室でコルセットをキチンと締め直したってわけや」

「じゃあ、私が聞いた、あのバリバリバリっていう音は」

「コルセットのマジックテープを、外して、締め直した。その2回や」

 僕の顔を正面から見据えて、そう断言した口調も表情も田辺課長は自信満々だった。一応、話の辻褄もあっていた。だけど、そんな特殊なシチュエーションを、まるで当然のことのように言い当てるなんて、正直信じがたかった。

 田辺課長にからかわれてるんじゃないか、と言う恐れもあった。いや、その可能性は大だった。だから僕は、ハーフスイングの判定を確認するように本田部長の方を向き返った。

 ところが半信半疑の僕を待ち受けていたのは一分の迷いもない本田部長のまっすぐな視線だった。そして、本田部長の顔には、伝えなければいけない厳しい真実を伝える人間に特有の慈しみを湛えた表情が浮かんでいた。

 その表情の意味を悟り、気が付けば僕は呟いていた。

「中年の世界では、それが特殊なことじゃ、ないんだ・・・」

 まだ僕が足を踏み入れていない秘密の花園を見た気がした。そこには足を踏み入れたくないと思った。それは切実に思った。

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