閨(ねや)のワン子
チンと仏壇のおりんを鳴らして、お線香を振って火を消した。マンションの窓から外を見る。まだまだ30度を超える暑さが続いているが、ほんの少しだけ空の青が秋仕様に移り変わろうとしている気配を感じた。
立ち上がり、父が好きだったお供え物の紫芋豆乳ビスケットを手に取ると、隣のリビングでコーヒーを淹れてくれている母のところに持って行った。
「お父さん何か言ってた?」
「今日の夕食は日本酒に合うものにしてくれって」
当たり前のように母が聞いて来たので、当たり前のように返し、そして二人で顔を見合わせて笑った。
父の忠雄が亡くなったのは去年の夏のことだ。癌だった。60歳を目前にしての死去は、今の時代にしては早い。本人もまだまだやりたいことがあったに違いない。
せめてもの救いは、父が最後にそれほど苦しむことがなかったのと、家族で穏やかな時間を過ごすことができたことだ。
とは言え、父が死んでからは慌ただしかったし、母も塞ぎ込みがちになった。冗談めいたことを言えるようになったと言うのは、良い兆候なのだろう。
仕事の関係で1時間ほど離れたところに住んでおり、母の顔を見るのは月に二度ほどだが、会う度に表情が明るくなっているのが分かる。表情が明るくなるのに合わせるように、体重が増えて来ているように見えるのはご愛嬌だろう。
「この女の子、何って言ったっけ?」
豆乳クッキーとコーヒーを飲みながらテレビを見ていると、エンタメニュースのコーナーで画面に映ったグループの一人を指差して母が言った。
先日、活動休止を発表したグループだった。
「えーとね、たしか、のっちかな」
「あー、そうそう、そんな感じの名前だったわね。ほんとこの歳になると、若い人たちの名前と顔の区別が付かなくなるのよ」
「あー、大丈夫、それは私も分からないから」
30代を目前に最近会社でも年齢に関する自虐的なコメントが増えてきたなと思いながらそのままニュースを見ていたのだが、次のニュースに切り替わるタイミングで母がまた口を開いた。
「ところで、さっきののっちって、本名の芸名?」
「何よ、本名の芸名って。本名だったら芸名じゃないでしょ」
「そう言う意味じゃなくて。ほら、何て言うの?のっちさんはそれが正式な芸名なのか、それとも、例えば野口ナンとかって言う正式な芸名があって、のっちって言うのは、他のメンバーの女の子とかファンの人から呼ばれているあだ名みたいな奴なのかって言う意味よ」
「ああ、そう言う意味ね」
母の言っていることは分かったが、答が分からなかった。考えてどうにかなるわけでもないので、スマホで検索するとすぐに答が出た。そのこと自体は良かったのっだが、つくづく便利な世の中になったものだと、ここでも積み重ねてきた時間が顔を覗かせた。
「芸名みたい。ところでさ、あだ名で思い出したことがあるんだけど」
「なあに?」
「お父さんさあ、お母さんのことワン子って呼んでたでしょ。でもお母さんの名前って聡子だし、見た目も犬っていうよりは猫っぽいよね。それで、何でワン子だったのかなって」
それは、前から気になっていて、何となく聞きそびれていた疑問だった。
「ああ、それね。優香ももう大人だし、教えてあげても良いわね」
正直、聞きそびれていたくらいだから、どうしてもその答が知りたかったわけじゃなかった。そもそも、大した意味などないと思っていた。たまたま、あだ名の話が出てその関連で思い出したから口にしただけの質問だった。
ところが私のそんな意に反し、どこか感慨深げな表情を浮かべると、母は一瞬だけチラリと仏壇の方を見て、そしてきちんと私の方に向き直り、覚悟を決めたようなはっきりとした口調で話し始めた。
「お父さんと結婚して2年目くらいかな、まだ優香が生まれる前に、鎌倉に旅行したことがあったのよ。
お昼の間中、町を歩き回って、宿で温泉に浸かって、部屋食のお夕飯で、すごく楽しかったんだけど、お母さんすごく疲れて、夜は早く床に入ったの。お父さんも、電気を消したらすぐに寝息が聞こえてきて、そのまま並んで二人で眠りについた。
なんだけど、お父さんもまだ若かったからでしょうね、夜中に目を覚ますと、寝てるお母さんに隣からちょっかいをかけてきたのよ。ほら、夜のそういう。
お母さんはそう言う気分じゃなかったから、適当にあしらってたんだけど、お父さんしつこくて。何度かすったもんだを繰り返しているうちに、お父さんの手がたまたま女性の感じやすい部分に当たって。
そしたら、身体が反応して、お母さん思わず声を出しちゃったの。でも、お母さん半分寝てたから口が上手く回らずに、アンじゃなくてワンって。それが子犬みたいだってお父さんが笑って」
私に送ってきた意味ありげな視線は「話は以上」と言う合図だった。
「それで、ワン子と」
「そう」
この時、母がどう言う気持ちだったのかは分からない。
ただ、私が母の話を理解したことを確認してから、再び仏壇に目をやった母の横顔は少し紅潮していて、そしてどこか艶やかだった。
そんな母の横顔を見ながら私は、聞くんじゃなかったと心の底から後悔した。




