やっぱりさっきのやつはキャンセルで
「その干物大丈夫?」
朝ご飯に出て来た、アジの干物に箸を付けようとすると、台所から嫁さんの声が飛んできた。
「まだ食べてないけど、なんで?」
「そのアジ、昨日、冷凍庫を整理してて底の方から発掘された熟成品なのよ」
「お宝みたいに言うなよ。だいぶ古いの?」
「少なくとも買った記憶は全くない。まあ、冷凍してたわけだから、悪くなってはないと思うんだけど」
「ふうん」
何と言うのでもなく、本当に何となく腑に落ちない感じを飲み込むように応えた私の声に、隣でスマホをいじっていた高校生の息子の順一の声が被さって来た。
「お母さんがよく言うそれ嫌なんだよね」
「嫌って、何が?」
会話の行方は見当もつかなかった。ただ、嫁さんの機嫌が悪くなる方向に進むんじゃないかとドキッとした。だけど順一はそんな私の不吉な胸の高まりにはまるで気付かずに、私が羨むくらいにごくごく普通の感じで嫁さんにも物申した。
「その、料理もしくは料理の材料に火が通ってないかもしれない・もしくは悪くなってるかもしれないコメント」
「たしかにたまに言うかも知れないけど、」
「しょっちゅう」
「じゃあ、しょっちゅう言うかもしれないけど、それで何が駄目なのよ?気をつけてねって言う、注意でしょ」
「意味がない。どうせ、お父さんも俺もお母さんが分からないくらいの、火の通り具合とか材料の善し悪しなんて分からないんだから。それなのに、そんな風に言われると、そうかなって思ってご飯が美味しくなくなったり、悪いものを食べてるんじゃないかっていう不安でお腹を壊すだけ」
息子の発言に私は目の前の霧が晴れるような爽快感を覚えた。実は、それは私もずっと前から感じていて、だけど嫁さんというタブーに触れることを恐れるあまり、深く考えることを避けて来ていたテーマだったのだ。
そこに息子がズバリと切り込んでくれた。助かった。しかも嫁さんは、(それが私だったらありえないことだが)順一の批判に気を悪くする風もなく、その批判にいたって普通に答えた。
「意味がなくはないでしょ。気を付けてるから気が付くことだってゼロではないだろうし」
「それはあるかもしれないけど、お母さんのコメントは明らかにそのレベル・頻度じゃない」
嫁さんの返しにも冷静に、それでいて一歩も引かない。勇敢に育った息子に、私の目頭が熱くなった。
「分かった分かった、認めるわよ。たしかに、それほど心配してない時にも言ってる」
「じゃあ、それほど心配してないときのそれはなに?」
「何って、コミュニケーションでしょ」
「コミュニケーション?」
「一生懸命料理作ったって、別に何の反応もなく、あんたらがさっさと食べて終わっちゃうから、興味を持ってもらおうと思ってるんじゃないの」
さらりとした発言だった。それでいて、嫁さんが普段から感じているのだろう心情がにじみ出た発言だった。
「ああ、そういうことね」
あっさりと嫁さんの発言を受け入れた純一の顔には、不意をつかれたような、そして申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。我が息子は勇敢なだけでなく、人の心に共感できる優しい人に育ってくれている。最近の私の目頭は湿りやすい。
ちなみに、このときの嫁さんに対する共感は私も同じだった(私のことは誰も褒めてくれないが)。
毎日毎日、朝晩、休みの日には朝昼晩と嫁さんに料理を作ってもらうことが当たり前になってしまっていて、料理を作ってくれる嫁さんや嫁さんが作ってくれる料理にきちんと向き合うということが完全に欠如していた。
アジの干物につけた箸をつけたまま、その身をほじることなく、心の中で反省した。
「あ、だけど、今日の干物は本当に心配だったのよ」
男二人のしおらしさを感じたのか、どこか無理矢理上げたような明るいトーンで嫁さんが言った。
「干物?俺のお皿にそんなの載ってないけど」
順一のお皿に目を向けると、たしかに干物の代わりにハムエッグが鎮座していた。
「そうよ。だから、本当に心配だったから、とりあえず今日はアジの干物はお父さんだけにしたのよ」
「なにそれ、ヤバ」
順一の一言を待つまでもなく、さっきの反省はキャンセルした。