イワンの馬鹿
「俺、こう見えて本読むの好きでさ」
それまでの会話の流れを考えれば唐突な告白だった。
問いただすべきだった。ただ、コンマ数秒タイミングを逃したのと、山内があまりに自信満々だったので、つい声を上げそびれた。後にして思えば、無理やりにでも割って入るべきだったのだ。でも、できなかった。
それで、まるで僕の信任を得たかのように(そもそも、僕の信任なんて必要としていなかったのかも知れないけど)、山内が言葉を継ぎ紡ぐ事になってしまった。
「一番最初は『おまえうまそうだな』って絵本。知ってる?肉食の恐竜が草食の恐竜の赤ん坊を育てるって話。肉食がさ食欲と父性の間で揺れ動く、子供向けとは思えないくらいに切なくてさ。
3歳くらいのとき、いっつもその本ばっかり読んでくれってせがむから大変だったって母親が言ってた。
俺自身はそう言うことがあったって言うのは覚えてないけど、まだ部屋の本棚には『おまえうまそうだな』があって。実は今でもたまに読んでるんだよ。今でも泣ける。名作はほんと世代を超える。
で、まあそれを原点に本に興味を持ったんだろうな。幼稚園、小学・中学、で高校って、その時々で本の種類とか作家は違んだけど、とにかく色んな本を読んで来た。
例えば小学なら重松清、中学なら東野圭吾、今は伊坂幸太郎かな。外国の作家も数は多くないけど読むし、哲学系にも手を出した。挫折したけどな。
まあ、とにかくそれくらい本読んできてるから、それぞれさ『人生に影響を与えた』とか、『この夏絶対泣ける』とか、一番を挙げろって言われたら難しいわけよ。候補が多すぎて。
なんだけど、一つだけダントツなジャンルがある。『最悪なタイトルの本』。これはもう即決。迷いようすらない。で、それが何かって言うと、『イワンの馬鹿』。ひどくない?個人名を特定して、それで馬鹿って決めつけるって。
これもはや、本のタイトルっていうよりただのディスりだろ。そりゃ読めば、一見馬鹿に見える人間が実は賢いっていう話で、タイトルが反作用的にその寓話性を強めてるってことは分かるよ。
とは言え、あんまりだろ。絶対、この本のせいでイジメられたイワン君だっているはずだし。今の表面的な正義を匿名のネットで振りかざす一億総自警団的な社会はどうかと思うけど、この本が出版されたら間違いなく俺も今年の炎上オブ・ザ・イヤーに投票するよ。
それは、貴史、お前もフル同意だろ?」
こんな風にここで話の流れがたまたま問いかける系にならなかったら、ひょっとしたら僕は今も困惑の表情を浮かべて山内の前に立ち尽くしていたかも知れない。
だけどこの瞬間、山内の目が僕の方に向けられた。
そして山内は僕の困惑に気がついた。そして山内の顔に、まるで僕のやつをそのままコピペしたような困惑の表情が張り付いた。
「なんの話だったっけ?」
「・・・僕が柏原さんに告白すべきかどうかって話」
いまさら、しかもこんなことを一日に二回も口にしないといけないのはもちろん恥ずかしかったし、腹も立った。だけど、その口調にはそれよりもはっきりと強く呆れと諦めが滲み出ているように僕には聞こえた。
ところが、当の本人の山内は申し訳ながることなど一切なく、それどころかそれまでの勢いとテンションをまるで緩めずに続けた。
「ああ、そうそう。貴史が柏原に好きだっていうべきかどうかって話な。それについてアドバイスを送ってやろうと思ってたんだ。悪い悪い。でさ、その件だけどさ、そんなの考えるまでもないだろ」
次の瞬間、山内が僕には漫才師がサンパチマイクに顔を近づけてオチの一言を発するときのような決め顔を僕に寄せてきた。そして、ワントーン落とした声で放った。
「言わんの馬鹿」
僕たちの間を、笑い待ちの沈黙が流れた。
「面白くない?」
「面白くない」