つば九郎と家族写真を撮る
神宮球場での試合観戦は、吉田家のこの夏唯一のイベントだった。一人息子の淳史が高校受験で、順一の実家への帰省も家族旅行も難しかった。
とは言え、夏に何のイベントもないのは寂しい。神宮球場の野球観戦なら家からの移動を含めても4時間くらいだし、夏休み中は花火も見れる。ちょうどベイスターズ戦があったので、ちょっとした気晴らしで行ってみようかということになったのだ。
今年も猛暑が続いているが、吉田家一家が家族3人お揃いのベイスターズのユニフォームを着て家を出るころには風も出て暑さは少しマシになっていた。
浜田山から井の頭線に乗る。順一と妻の千尋は座席の前につり革を持って並んで立って、淳史は少し離れた扉近くの場所に陣取った。食事は前から千尋が気になっていた渋谷のエキチカのお店でお弁当を調達した。それから銀座線に乗り換えて外苑前で降りた。
駅を出ると試合開始前の球場近くの独特な風景がそこにあった。3人もスワローズとベイスターズのユニフォームを着た集団の一員となって出店の前を進んだ。球場が近付くと、前の方から鳴り物が聞こえてきて秩父宮ラグビー場越しの夕暮れの空にナイターの照明が映り上がり、そして神宮球場が見えてきた。
ここまで来るとお祭りの時のように集団の気分が一体となって高揚するのが感じられた。
ワクワクしながら順一が隣を見ると、家を出る時には思春期特有の不貞腐れた感を出していた淳史の表情は楽しげで、頬もほんのりと紅潮していた。来て良かったなと順一は思いながら球場のゲートを潜った。
球場の前で来年の年賀状用に千尋と淳史がそれぞれのスターマンぬいぐるみを手にして、つば九郎の前で家族写真を撮った。
「しかし大変そうだね」
千尋が順一に言ったのは、順一が好きなエビスビールの売り子をようやく見つけて、千尋の分と合わせて2杯のビールを買った時だった。
「え、何が?あっ!!、よしよしナイスバッティング!!」
順一はすぐに返事したが、ちょうどそのタイミングでその回2本目のヒットが出てベイスターズのチャンスになったため一旦話は中断した。
いつもなら千尋の小言が出るところだが、今日ばかりは見逃してやろうと、千尋も一緒になって声援を送った。
「くそー、ヒットなんてそうそう続かないんだから、やっぱりランナーは3塁に送るべきなんだよ。・・・あ、ごめんごめん、で、何が大変だって?」
ベイスターズがチャンスを潰した苦々しさをビールと一緒に飲み干して、順一が問い直した。
「ああ、さっきの話ね。ビールの売り子のアルバイトの女の子たちよ。この暑い中、あんな重いタンク背負って、しかも階段を登ったり下りたりって、すごい大変そうじゃない?」
「ああ、たしかに大変だろうな。でも、特別感があるバイトだし、バイト代も歩合で悪くないらしいよ」
「へえ、歩合なんだ」
「うん、だから売ったら売っただけ稼げるし、球場によってはランキング的なやつがあって自分の順位みたいなのも分かるらしい」
「順位が出るんだ!!それは面白そうだな」
千尋の目がきらりと光った。
「体育会系バスケ部の血が騒ぐ?」
順一が笑った。インドア派の順一とは正反対で、千尋は今も週3回は趣味の域を超えたテニスに打ち込むスポーツウーマンで、そのことはお互いのからかいのネタになっている。
「勝負って燃えるじゃない」
「勝負って。別に競い合ってるわけじゃないだろ。でもまあ、全体的に体育会系の女の子に向いてるバイトだよな。体力がいるし」
「そうそう、インドア派と違って社交性があるし」
「別にインドア派だからって社交性がないわけじゃない」
苦笑いする順一の前で突然、千尋が顔を顰めて大きくため息をついた。
「あと15歳若かったらなあ」
「それ、割と真剣に悩んでるよな。問題はやっぱり体力的なもの?」
「それもあるけど深刻なのはビジュアルよビジュアル。どうせ同じビールを買うなら、こんなおばさんより若い女の子の方が良いでしょ。勝負のハンデが大きすぎる」
「俺は銘柄だけど、売り子の女の子でビールを買うって人も多いからな。たくさんピチピチの可愛い女の子がいる中で、たしかに、こんなおばさんじゃなあ」
「ちょっとは否定してよ」
「でもさあ、」
千尋と順一の掛け合いを他所に試合と合間のスマホに集中していた淳史がいきなり2人の話に割り込んで来た。顔を向けると、淳史の口からするりと言葉が出てきた。
「熟女好きもいるからね」
「お、おお」
「あ、ああそうね」
「あっ、ベイスターズの攻撃の前にトイレに行ってくる」
それだけ言い残すと淳史は、順一と千尋の反応を気にする風もなく、席を立ち階段を降りていった。
いつの間にか順一のと同じくらい大きくなっていた淳史の背中を見送りながら、順一は「あいつまさか熟女好きじゃないよな」と思った。
千尋は「誰が熟女よ!」と思った。
だけど2人とも何となく声には出せなかった。




