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完璧な対応とそうでないやつ

 東京で生活していると、電車が数分おきにやってくる。その電車の数とそれに乗り込む人の質量の大きさに、四国の田舎町で生まれ育った俺は、今でも時々ふと思い出したように実感して圧倒されることがある。

 単線の線路を走ってくる一時間に一本、しかも一両編成の鈍行列車。そしてまばらな乗客の風景は、俺がどれだけ遠くまでやってきたのかを感じさせるパラメータの一つだ。

 それだけの本数が運行されているから、別に一本の電車を乗り過ごしても大勢に影響はない。数分後に来る電車に乗れば良いだけの話だ。それなのに、何故か俺は毎朝、6時53分に最寄りの浜田山駅を発車する電車に乗り込む。

 53分の電車に間に合わず1本後の58分の電車を利用することになったときは、何か重要なものが収まるべき場所に収まっていないような、始まったばかりの新しい1日が決定的に損なわれたような気がする。

 そこに理由はない。それでも俺はそんな自分のルールに縛られている。損な性分だと思う。だけど、それは俺だけじゃないのだろう。毎朝俺が乗り込むその電車・その車両に乗り合わせる乗客の面子は決まっている。

 これが高校生時代だったら、ささやかな恋ばなの一つも生まれたかもしれないが、40手前の今ではそんな色っぽい話もない。名前すら知らないし、顔を見合わせても会釈することもない。だけど顔を見ない日があると、おやと思う。そんな通勤仲間だ。

 だからその朝、西永福でビジネスカジュアルの装いの若いお母さんと5歳くらいの男の子が乗り込んでくることも、駅の手前で電車が減速する前から分かっていた。 

 幼稚園経由で会社に向かうのであろうこの親子は、俺にとっては西永福から明大前まで2駅だけの通勤仲間だけど、朝の慌ただしく憂鬱な時間帯、込み合った電車の中でのちょっとした清涼剤になっている。

 お母さんは子育てと仕事の両立に奮闘している感がありありありで、それでもいつもニコニコしていて感じが良く、応援したい気持ちになるというよりもこっちが力をもらっている。そして何より男の子の話が面白い。

 子供というのは正直だ。それは多くの大人が無意識に失っているもので、だから一般的にも子供の視点・発言は大人からすると懐かしくも新鮮で面白いことが多い。

 だけど、この男の子の言葉には、それを超えた発想の妙がある。きっとこの子は頭が良いのなのだろうと思う。またお母さんも、子供の言うことだからとぞんざいに扱うことなく、きちんと向き合って、かつその返しにもセンスとユーモアがある。

 そんな二人の会話を楽しみにしているのも俺だけじゃない。50代後半・部長貫禄のおじさん、女子大生風の女の子、彼女に気があるんじゃないかと俺が密かに思っている社会人フレッシュマン君も、聞いてないふりをしながら、俺と同じタイミングで顔に俺と同じ穏やかな笑みを浮かべてる。

 だからその日も、いつもの場所で親子を囲むように吊り革を持った俺たちの耳は、見た目には動かずとも二人の方に向けられていた。

 その日、電車に乗り込んで来た時、男の子はしばらく前に幼稚園で起きた園児同士の喧嘩に対する先生の指導に関してモノ申していた。

「ふじもと先生、あやねちゃんは女の子でこうたくんは男の子なんだから、こうたくんが、ゴメンナサイしなさいって言ったんだけど、ボクそれはおかしいし、かわいそうだなって思ったんだ」

「かわいそうって、航太君が男の子だからっていう理由だけで怒られたから?」

「ううん、ちがうよ。女の子だからっていう理由だけで先生の話が終わって、先生があやねちゃんがおこった理由をちゃんときいてあげなかったからだよ」

 深い話だなと頷きかけた俺の鼻先を異臭が漂ったのと、昆虫を見つけた子犬のように、男の子の興味が移り変わったのはほぼ同時だった。

「くさい!!ママ、おならした?」

 そう、その場にいた皆は、濃淡こそあれど親子のやり取りに耳を傾けていた。しかも、そのことに関しての暗黙の了解があるが故に、男の子の発言をなかったことにすることはできなかった。

 だから、その瞬間、その場の空気が凍った。

 男の子を責めることは誰にもできなかった。ただ、お母さんがかわいそうだと皆が心の中で同情した。

 ところが、お母さんはまるで俺たちの心の内になんて気が付くことなく、いや少なくとも気が付いている素振りなんてみじんも見せることなく、男の子にさらりと返事した。

「だめよ、そんなこと大きな声で言ったら。失礼でしょ」

 見事だった。

 子供を叱るのではなく、子供をたしなめることで、良いお母さんのイメージを崩すことなく、おならをしたのは自分じゃないんだということを既成事実にして見せた。しかも、わずか一文で。

 うちの会社の危機管理対応の担当者に見せてやりたいくらいに完璧な対応に、俺たちの同情は一瞬にして、感嘆に書き換えられた。だが、それも長くは続かなかった。

 すぐに気が付いたのだ。お母さんが対応者から被対応者に変わったことで、俺たちが被対応者から対応者に変わったということに。

 明日からも顔を合わせるメンバーだ。不必要な感情のしこりを残したくはない。だが、その一方でおならをしたやつというレッテルは明確に外しておきたい。

 言葉なのかポーズなのか、どういう対応をするかが重要だ。

 皆も同じことを考え、同じ悩みを抱え、そして同じプレッシャーを感じているはずだった。その朝の井の頭線で繰り広げられていたのは、地獄の大喜利だった。

 痺れるような緊張感の中、まず最初に手を挙げたのは(もちろん実際に挙げたわけじゃない)、女子大生だった。女子大生は何も言わず、ただ微笑ましそうに親子を見つめて見せた。

 攻撃力はそれほど高くないが、その歳には似つかわしくないしたたかさを感じさせる守りの一手だった。女子大生の思惑通り、勝ち抜けることはなかったが、取り合えず、自分の番を何とかやり過ごす形にはなった。

 次は、フレッシュマンだった。フレッシュマンも何も言わなかった。ただ、親子に目を向けるのではなく、くんくんと鼻を動かして、そして嫌そうな顔をした。

 自分のおならの匂いは臭愛おしいが、他人のおならは臭いし汚い気がして腹が立つを彼なりに表現していた。このシチュエーションでの効果はともかくとして、フレッシュマンの所作は俺たちの心に共感を呼んだ。

 よし、次は俺の番だ!!

 俺は、覚悟を決めてモーションに入った、だが部長の動きのほうが一瞬早かった。

 しまった!!

 順番は早いほうが良いというわけじゃない。だが、ビリっけつは良くない。ただ反応が遅いというだけでなく、どことないやましさみたいなやつが醸し出されてしまう。

 歯嚙みしたところで、どうしようもなかった。今になって俺にできることといえば、部長の対応を見極めた上で、前3人と被らないように、焦らないように、とにかく疑惑が芽生えることのないよう、自然に振舞うことだけだった。

 意識して自然に振舞う。簡単なようで、それが簡単じゃないことは俺自身が一番分かっていた。だけど、やるしかなかった。明日から毎朝、おならをした奴と色眼鏡で見られるのも、おならをしたことがばれたから逃げて電車の時間を変えたやつとして彼女・彼たちの記憶に刻まれるのもごめんだった。

 だから部長に意識を集中した。そして気が付いた。

 部長は、緊張していた。

 一番年長で人生経験が長いはずの部長が緊張していた。いや、一番年長で人生経験が長いからこそ部長は緊張していた。恥をかきたくないという気持ちが強かったのだろう。次の自分のアクションの重要性が分かっていたのだ。

 部長は咳ばらいをしようとしていた。周囲の犯人捜しをたしなめるような、と同時に自分は犯人ではないけれどを間接的に表現する、大人の咳ばらいだ。

 ところが、緊張で部長の喉は閉まっていた。だから、部長の咳払いはたしなめるような咳払いじゃなくて、取り繕うような咳ばらいになった。

 結局のところ実際には6人の内、誰がおならをしたのか知る術なんてなかった。女子大生かもしれないし、フレッシュマンだったかもしれない。ひょっとしたら、悪魔の子的に狡猾な男の子が犯人だったかもしれないのだ。

 6人の内、誰が犯人でもおかしくなかった。

 だがその瞬間、犯人ゲームの敗者は部長に決まった。もうそれで良いよねという空気が漂った。

 なので、そのまま知らん顔した。

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