鼻は枯れない
気の置けない同期との飲み会と言うのは良いものだ。入社から30年近くたっても、新入社員時代と変わらず、友達に近い感覚のままで馬鹿話ができる。
ただ、新入社員の時代から、馬鹿話の話題は変遷を遂げて来た。学生気分がまだ抜けきらない頃は恋愛や合コンが中心、30前後は仕事や上司の愚痴、さらに10年が過ぎると夫婦関係や子育ての苦労を分かち合い、そして50も超えた今の酒の肴は病気や身体の衰えがもっぱらになっている。
その日もそうだった。
「しかし目が見えないのは困るな。部の若い奴らが資料見てくださいって持ってきても、字が読めない」
切り出したのは松川だった。
「分かるわぁ。若手社員の時に部長に資料持って行ったら、こんなん読めるか、A3に焼き直して持って来いってしばかれて。あの時は、おっさん何言うてんねんって、腹の底で思とったけど、言い方はともかくとして、ようやく言うてた意味が分かるようになったよな」
関西出身の重田は、いつも表現が大袈裟だが、この時は実感がこもっていた。
「飛行機とか暗いところで本が読めないのも困る」
私も続いた。
「しかし、目は45くらいから一気に来たよな。しかもどんどん悪くなる。俺は老眼と禁止が両方だから、使わなくなったやつも合わせて、家中が眼鏡だらけだよ」
「今、目が一気に来たって言うたやろ。そやねん。目は一気に来る。でもその逆で、耳はジワジワ来るよな。自分の耳が遠くなり始めたのがいつかも覚えてないくらいや。ある日突然、嫁さんとか部下と会話してて、やたらと『え?え?』って何回も聞き返してる自分に気づくねん」
「たしかに。そう言えば、重田今日もずっと聞き返してるもんな」
「松川、そりゃお前も谷井も一緒やろ」
そう言いながら、皺が刻まれた顔をわざとらしく顰めて、松川と私を見回すその重田の表情だけは、昔とまるで変わらず、そのことが余計に年月の流れを感じさせて苦笑した。
ここまでは他愛もないのどかな楽しいひとときだった。だが、重田の次の言葉が全てを変えた。
「しかし、そう考えたら、鼻だけは若いときからあんま変わらへんな」
重田が言った。それで終われば良かったのかもしれない。だが、松川が続けた。
「言われてみればそうだな。ありがたいって言えばありがたいな。でもまあ、目とか耳に比べて鼻の機能は地味だからな。どうせなら、目か耳と入れ替えて欲しいな。って言うか、地味だから劣化にも気がついてないだけじゃないのか」
「ははは。そりゃありえるな」
「鼻はたしかに地味かもしれない。だけど、その機能は目や耳にだって劣るもんじゃない!」
意図した言葉じゃなかった。意図するも何も、何も考えてなかった。それなのに、気が付けば鼻のことをかばっていた。
「どないしたんや急に。何か鼻にコンプレックスでもあるんか?俺の鼻なんかよりよっぽどしゅっとした鼻やないか」
一見冷やかすような物言いだったが、重田が気まずくなりかけた場の雰囲気を冗談のオブラートに包もうとしてくれていることは一目瞭然だった。
その様子で我に帰った。
そうしたら急に恥ずかしくなった。私は、ぎこちない笑みを顔に貼り付けたまま、慌てて取り繕い始めた。いや、取り繕おうとした。だが、取り繕う術が思い浮かばなかった。仕方ないから、自分の頭の中の引き出しを漁り、取り合えず目についた唯一の鼻の話を取り出した。
「いや、学生時代に読んだ漫画でさ、主人公の探偵が暗闇の倉庫に誘い込まれるシーンがあったんだよ。それで、悪い方の奴らは暗視スコープを付けてるんだけど、主人公は裸眼で視界が完全に奪われている。しかも銃弾が近くに着弾した時の衝撃で耳まで聞こえなくなってしまう。
そんな主人公の状態に気が付いた悪党どもはなぶるようにゆっくりと主人公を追い詰める。絶体絶命のピンチだ。そして最後の最後、薄ら笑いを浮かべながらとどめを刺そうと悪党が主人公に銃口を向けたその時だ。
目が見えない耳が聞こえないはずの主人公の銃が悪党の心臓を撃ち抜く。驚愕の表情を浮かべる悪党に、主人公は言う。目や耳と違って鼻は外的環境に影響されないんだって。つまり、主人公は銃口から薫る硝煙の匂いから悪党の位置を探り当てたってわけだ。
その漫画の印象が強くってさ。ついつい、鼻の肩をもつ癖があってな」
「お、おお、そうか」
取って付けたような私の言い訳に、松川と重田は一様に、せいぜい良く言っても戸惑っていた。そしてその瞬間その場所で、誰より戸惑っているのは私自身だった。なんで私が、鼻のためにこんなに熱くなっているのか、訳が分からなかった。
鼻の肩を持つ癖って一体なんだ?
「谷井が読んだ漫画って、俺も読んだことがある気がするんだけど、キャッツアイかな?」
「探偵やからシティハンターやろ」
幸いなことに、二人の会話は横道にそれ、二人の関心も私から外れた。そのとき不意に訪れた空白が、私の心と思考に余裕を取り戻させた。落ち着いて振り返ると、私のすぐ後ろに答えが立っていた。
回答。私は、目や耳に比べてぱっとしない鼻にシンパシーを覚えた。だから、鼻をかばった。自分自身と重ねてむきになった。
もう少し詳しく話をすればこういうことだ。
松川と重田はたしかに酒を飲みかわしながら、タメ口で馬鹿話をする仲の良い同期だ。だが、会社で置かれた立場は、2人と私では大きく異なる。
松川は統括部長でさらなる昇進も噂されてるくらいだし、重田も部長だ。それに比べて私は万年課長、しかも自分自身で認めたくはないが、これ以上の先が望めない万年課長だ。
そんな状況ではあるが、松川や重田がプライベートの場面で私にそのことを前面に押し出してくることはない。それどころか微塵も感じさせない。きっと、気遣いがゼロだとは言わないが、本心からそうなのだろう。
一方で私の方も、同じだ。悔しさが全くないとは言えない。だけど、2人と差がついてしまったことは、実力の差だと割り切れている。自分の仲の良い同期が、成功していることを心から素直に喜ぶことが出来ている。
そこに嘘はない。
ただ、私自身があずかり知らないところに、私自身が認識していない感情があったのだ。目の松川、耳の重田に、鼻の私。その私の感情を、目耳花論争が刺激した。それが、真相だ。
ああ、そうだったんだ、と納得した。次の瞬間、自分を憐れむような愛しむような、何とも言えない感情が心の奥底から湧き上がり、そして私を満たした。
もちろんそんな私の内なる彷徨に気付くわけもなく、松川と重田は子供時代の漫画論争を展開させていた。
「しかし、あれやな」
小中高時代に胸をときめかせたヒーロー、ヒロイン話が一巡したのか、重田が少しトーンを変えて言った。
「さっきの谷井の鼻の話に戻るけど、決して目立たんかもしれんけど、鼻は枯れないってことやな」
「関西人はすぐに落ちを付けようとするな」
「別に落ちを付けようとしたわけやないわ・・・って、どしたんや、谷井!?」
鼻は枯れない。その言葉でごちゃまぜになった感情が溢れだし、とめどなく涙が流れ落ちて、それを止めることも拭うこともできなかった。
心配そうに私を見つめる二人の無言の問いかけにも応えることもせず、そして私は、涙を流し鼻をすすり上げながらビールのジョッキを煽った。