便秘大逆転
朝食の片付けが終わり、おじいさんと甘いものでも食べながら一休みしようとお茶を淹れてから、おじいさんがダイニングにいないことに気が付いた。
おじいさんが出て行ったのは、私が朝ご飯を食べ終える前のことだったから、かれこれ20分は戻ってきていないことになる。向こうの部屋で倒れているんじゃないかと、心配した正にそのタイミングでドアが開いておじいさんが部屋に入ってきた。
「いやあ、大変だった」
一緒になって50年近くたつ。 冗談めかした口調だったが、実際に大変だったのだろうことは、いつもより深かくなっている顔のしわを見れば分かった。
「どうかしたんですか?」
湯のみの隣に小皿に切り分けた羊羹を載せて出しながら尋ねた。
「実はお通じがここ5日ほど来てなくてな。朝ご飯食べたら、なんとなくそう言う感触があったもんだからトイレに行って、うんうんと頑張ってたんだが、結局出なかった」
「便秘ですか。あら、珍しい」
「いや、こんなに長いのは初めてだが、最近は2日、3日でないなんて言うのはざらなんだ。以前は、毎日朝ご飯を食べてる途中に催して、食べ終わるまで我慢するのが大変だったくらいなんだがな」
と、古き良き時代を懐かしむように遠い目をした。
「それ、何かの病気じゃないんですか?」
歳も歳だし、心配になる。
「儂もそれが気になってて、ほら、この間区の検診があっただろ。あの時、医者の先生に言って診てもらったんだ。そうしたら、今のところは悪いところはなくて。
そうそう、便秘は元々は女性に多い病気だが、80歳を超えると男女比が逆転するらしい。知らなかったよ。儂もそんな歳だから、まあ便秘になったこと自体はそんなに心配しなくても良いって。
ただ、便秘って言うのは侮れなくて、大腸以外の病気の原因にもなるらしいな。便秘にならないよう、食事や運動に気を使ってくださいって、言われたよ」
「そうですよ。それに、おじいさん今、5日目って言いましたけど、重症になると、10日間出ない時だってあるんですから」
自慢するようなことではないが、便秘の先輩として自然と少し胸を張った。
「うへえ、この倍か。今でも腹は張ってるし、気持ち悪くって食欲もないのに。この症状が単純に倍になるのでも想像できないが、倍以上だろ?」
「倍以上ですよ」
「下剤は?」
「効くこともありますけど、いつもと言うわけじゃなくて。飲めば下腹が刺激されて痛くなるんですけど、痛くなるだけで出ないこともあって。そうなると余計に辛くって、ほんとのたうち回りますよ」
「そうか・・・」
急に神妙な顔をするから、気になった。
「どうかしましたか?」
「いやあな、まだ儂らが若かったとき、ばあさんお通じがないからって、毎朝、薬飲んで床の上で体を曲げて時間かけて新聞読んでただろ。あれ、言ってみたら、便秘と苦闘してたわけなんだよな。
ただその時の儂は、便秘の苦しさなんてまるで知らないもんだから、それを見て、便秘は病気じゃないんだからとか、のどかなもんだ、みたいなことを一度ならず言った。今にして思えば、ばあさんにひどいことを言ったものだなと」
「あら、そんなことがありましたか?」
「あったあった」
「そうですか。まあ何十年も昔のことなんで忘れてしまいましたよ」
私の言葉を聞く間も、おじいさんは申し訳なさそうに俯き加減で目線を下に落としていたが、それも長くは続かなかった。
「痛た」
「お通じの合図ですか?」
「ああ」
「便秘の時に一番やっちゃいけないのは、出るタイミングを逃すことですよ。早くトイレに行ってください」
「そうするよ」
そして前屈みのままダイニングを出て行った。
「やった!!」
おじいさんの姿がトイレに消えたのを確認して、何十年を経て不意に訪れた勝利の瞬間に小さくガッツポーズした。