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風呂の無い部屋

 お袋が亡くなって5年、一軒家の実家で一人暮らししていた親父が、ワンルームマンションに引っ越すと言い出した。

「明日、親父と話してくるよ」

 金曜日の夜、夕食のテーブルで女房に切り出した。

「家の件?」

「ああ」

「お義父さんもう70歳なんだから、今さら一人暮らししなくても良いんじゃない?」

「じゃあ、うちで引き取るか?」

 そう尋ねると、

「明日香が進学して部屋は一つ空いてるわね。嫌だけど、あなた長男で世間体もあるし」

 わざとらしくしかめた顔でそう返してきた。

 本当に嫌ではないのだろうが、決して嬉しい話なわけもない。俺に気を使わせないように、そんな態度を取ってくれていることは良く分かった。ありがたいなと思った。

「まあとにかく、本人の気持ちを確認してくるよ」

 その夜は、そう話を締め括った。

 翌日、電車で帰省すると、駅前の酒屋で日本酒を仕入れてバスに乗った。普段は車で来るところを、たまには親父と酒を飲もうかと久しぶりに電車で来たのだが、高校時代に通学で使っていた駅前の風景が随分と変わっていることに驚いた.

 お袋と、何なら俺と弟の和弘の名前まで残った表札を見ながら呼び鈴を押すと、すぐに返事があって親父が玄関を開けた。歳を取るにつれて親父に似て来たなと自分で感じることが多いが、そういう意味では30年後の自分が目の前にいた。

 親父の後をついて薄暗く狭い廊下を進みダイニングに入ると、見慣れたテーブルの上に、近くのスーパーで買ってきてくれたのだろう、お惣菜と寿司と瓶ビールが置いてあった。

「今日は、車じゃないって聞いてたから」

 何故か言い訳でもするように、親父が呟いた。

「それで、本当に一人暮らしするつもりなの?」

 乾杯して総菜をつまみながら取り留めのない話をしていたが、日本酒と寿司へ移行するタイミングで本題を切り出した。

「ああ」

「親父も歳だ。一人暮らしは大変だろう。うちに来るっていう選択肢もあるんじゃないか?」

「そう言ってもらえるのはありがたい。だが、一人暮らしは慣れたもんだ。引っ越せば片付ける場所も少なくなる。それにな、これは加奈子さんがどうこうというのじゃなくて、お互いに気を使いたくないんだよ」

 親父の言葉に嘘はなく、決意は固そうだった。

 親父の本心を俺が理解したことが分かったのだろう、親父はこの話はもう終わりだと言うように、電話の横に立てかけてあった冊子を取り上げてテーブルの上に置いた。

 近所の不動産屋が発行している情報誌のようだった。

「ずいぶんと手際が良いな」

「手際は良いかも知れんが、見方が分からなくてな。お前に見てもらおうと思って」

 冊子を手に取り、20ほどの物件の立地や家賃、間取りといった基本的な情報を確認していて、一つの物件が目に止まった。

「ああ、これ良いんじゃない」

「どれどれ、立花町か。あそこならここからそれほど離れてないし、スーパーや飲食店も多いな。家賃も高くない。間取りは・・・、おいおい貴史、ここは駄目だ。だって風呂が無いじゃないか」

 親父の指摘はもっともだったが、想定内だった。俺は少し前に雑誌で読んだ記事のことを思い出しながら、説明した。

「ここにも書いてるけど、風呂が無い代わりに近所の銭湯の利用権が付いてる、こう言う風呂無し物件が最近流行ってるらしいんだよ。

 元々は、風呂が付いていなくて借り手が見つからない部屋を売り込むための苦肉の策だったらしいんだけど、実際に住民が住み始めると、想定していなかった良いことがいくつもあるっていうんで評判になったんだ」

「良いこと?」

「例えば、銭湯だから毎日大きな風呂に入れる。もちろん掃除の必要もない。水回りの掃除は手間だろう。それに、毎日銭湯に通うのは面倒くさいようだけど、特に親父みたいな高齢者の一人暮らしには、予定と外出する理由があるっていうのは生活にメリハリができる。

 外に出れば地域とのコミュニケーションも広がって、何かあったときにも心強い。家賃が安い、とかとかで、今じゃあ人気物件っていうことらしい」

「なるほど、聞いてみたら、たしかに良いことだらけだな。この部屋は角部屋で明るそうだし」

 その気になったのか、親父はパンフレットを手に取り、じっくりと吟味を始めた。

「そこで考えてみる?」

 頃合いを見計らって声をかけた。

「そうだな、借りる前提で真剣に検討してみるか」

 その言葉で、緩やかにダイニングに漂っていた緊張が解けた。

「風呂が無いことのデメリットで、見落としていることはないよな」

 念の為という体を取ったおやじの質問は、背中を押してもらうためだけのお決まりの質問だった。だから俺も、こう言う時にお決まりのことさら明るい調子で、冗談を交えて返した。

「ないない。強いて言うなら、女の人を連れ込んだときにシャワーが浴びれないことくらいだよ。はは」

「それがあったか・・・」

 心の声が思わず漏れたというようにそう呟いて、なぜか親父は固まった。

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