穴を探して、穴を掘る
「穴を探して、穴を掘るような関係はもううんざりなの!!」
それが早紀が僕に対して発した最後の言葉だった。
夕方の駅前商店街。買い物客でごった返す通りの真ん中で若い女の子が両目に涙を浮かべて大声を出したのだから、まあ派手な見せ物だったと思う。
「ごめん・・・」
恥ずかしかったというよりも、早紀の言葉とその強さがショックで、蚊の鳴くような声でそう絞り出すのがやっとだった。
穴があったら入りたい、そんな上手い返しを思いついたのは、それから二週間も後の話で、それを披露する機会はどうやら永遠に失われたようだ。
早紀と僕が付き合うようになったきっかけは、新宿-末廣亭の落語寄席だった。
平日の午後、空席の目立つ寄席で半分ウトウトしながら落語を聞くくらい非生産的な、言い換えれば贅沢な時間の使い方はない。それが大学の生協で買った割引き価格のチケットならなおさらだ。
と言うわけで、その日僕は大学生の特権ともいえる贅沢を満喫していた。
八つぁんだ熊さんだの微笑ましいほどにどうでも良い勘違いや、それによって引き起こされる大騒動に耳を傾けていると、絶賛苦戦中の就職活動のことなんて、ほんとどうでも良いことのように思えてきた。
その日その場所に居合わせた人たちは皆、年齢や性別、置かれた状況は違えど、僕と同じような気配を漂わせていた。まるで人間でできた、ぬるま湯の温泉のような空間だった。
いや違った。正しくは、一人を除いては、皆僕と同じ気配を漂わせていた。たった一人、まるで親の仇でも見るように、怖いくらい真剣に高座を凝視している人がいた。
しかも(というのが正しいのかはわからないけれど)、それは若い女性だった。ショートカットがよく似合う、可愛い女性だった。それが早紀だった。
寄席上がりの劇場出口で、声をかけたのは僕だった。早紀が可愛かったからじゃない。少なくともそれだけが理由じゃなかった。
僕は早紀を知っていた。同じゼミだったのだ。言葉を交わしたことはなかったが、顔を合わせば即座にお互いを認識出来る程度の顔見知りであることは間違いなかった。
それでも、あの時声をかけたというのは僕らしからぬ行動だったと言えた。その場の雰囲気とか色々あったのだとは思う。でもやっぱり、結局のところは早紀が可愛かったからなのだろう。
「岩下さん」
「あ!小村くん!!」
何か恥ずかしい場面を見つかりでもしたかのように、あからさまに頬を赤らめて狼狽えた早紀を見ると、なんだか僕の方まで言い訳しないといけないような気になった。
「いや、俺、ぼーっとしたい時にたまにここに来るんだ。で、今日は、ほら先週レポートの提出が終わったばかりだから、ぼーっとしたい気分で、そしたらたまたま岩下さんがいるのに気が付いて、」
たまたまを強調したつもりだった。だけど早紀が気にしたのは、それとはまるで違うポイントだった。
「私、ぼーっとしてなかったよね・・・」
「うん、すごい真剣だった」
意表をつかれたので、何かを考えることもなく、するりと本音が口をついた。そして、早紀の反応を見て、もちろん自分の対応が間違っていたことに気がついた。
周囲の反応を気にしてばかりいるくせに、誰にでも、特に女の子に対してデリカシーのないことを言う。僕はまさにそう言う人間なのだ。
ただ、このときは結果的にそれが功を奏した。早紀は、重大なというより大事な告白をするように話し始めた。
「私、歌とか聴きながら勉強ができないタイプで、受験生の時も休憩時間のときだけスマホでラジオを聞いてたの。その日も、勉強が一区切りついたからお母さんが淹れてくれた紅茶を飲みながらラジオを立ち上げたんだけど、そしたら桂枝雀の落語が流れてきて。
落語なんてそれまで聞いたことが無くって、話の中身の面白さとかは良く分からなったけど、言葉のテンポが面白いっていうか心地良くって、なんとなくそのまま勉強中もラジオをつけっぱなしにしてたら、その日の勉強がはかどって。それでそれから勉強をする時には落語をBGMとしてかけるようになったの。
そのおかげもあったのか、無事、大学受験にも合格できて。でも、落語はそれっきりで。
それが今度は東京に出てきて一人暮らしするようになったら、部屋の中が寂しくて。人恋しいというか人の声恋しいで、また落語を聞くようになったの。それも最初のうちはBGM代わりみたいなものだったんだけど、受験勉強のときと比べたらもちろん余裕があるから話の中身も耳に入り始めて、それで気がついたら、」
「落語にハマってたと」
僕の言葉に早紀ガコクリと頷いた。
早紀と僕が付き合い始めたのは、それから一ヶ月後のことだ。その理由もまた、落語だった。
僕はぼーっとする時間を求めて寄席に行っていただけだから、落語が僕たちを結び付ける共通の趣味だったわけじゃない。
落語好きという恥ずかしい(少なくとも大きな声では言えない)事実をネタに僕が早紀を脅したわけでもない(僕にそんな甲斐性はない)。ただ、落語好きという恥ずかしい秘密を早紀が僕と共有したという事実が僕達の関係に影響を与えた。
秘密は、秘密だから誰とも話せない。秘密は、誰とも話せないから、余計誰かと話したくなる。そして図らずも偶然寄席で早紀を見かけたことで、僕は早紀が自分の秘密を隠すことなく話すことができる唯一の存在になったということだ。
その特別性が早紀に僕を意識させるようになり、その意識が誤解され、やがて恋愛感情らしきものに化けた。
それから2年という恋愛期間、そこには落語のような可笑しみはなかった。でも、僕たちの場面には本当によく落語が登場した。
早紀の部屋に泊まる時には、早紀が言っていたようにBGM代わりの落語が流れていたし、二人で出かけるときには、移動中に車窓の景色を眺めながら早紀が僕のスマホにダウンロードした落語を、片耳ずつ分け合ったイヤホンで聞いた。
それは、落語のような可笑しみはなくても、どこか落語のようなほっこりとした関係だった。大学を卒業して僕たちがそれぞれ社会人になっても、そんな僕たちの関係は変わらなかった。いや、僕だけがそう思っていた。
僕たちは、僕は変わらないといけなかったのだ。きっと。
だから、あの日あの瞬間を迎えた。
身体を翻し僕の前から走り去った早紀を僕は追いかけなかった。追いかけないといけいことは身体中で理解していた。でも僕は、ただ買い物客の通行の邪魔をするように、阿呆のようにその場に立ち尽くした。
早紀がどれくらいの覚悟でその言葉を僕にぶつけたのか、そしてその気持ちが決して変わることが無いことが、まがりにも2年間、恋人として早紀に接してきた僕には認めたくないくらいにはっきりと分かったのだ。
一つの噺が終わった。人生が終わったわけじゃない。ただ次の噺が始まったというだけのことだ。でも落語と違って、どこからか出囃子が聞こえてきて新しい噺の始まりが告げられることはなかった。
落語と言えばもう一つ。スマホに残った落語のデータを削除していたある雨の日曜の朝、誤って再生ボタンを押してしまい、聞き慣れた、今となっては少し聞くのが辛い枝雀の声が聞こえてきた。
「おじさーん、大きな穴ですね?」
「おおきに、ありがとう」
「そんな、深い穴を掘ってどうするんですか?」
「いやあね、ここに大きくて深い穴があると聞いて、どこにあるんだろうそれを掘って探してるんだよ」
あ、これなんだと思った。
そして、そう言えば、早紀の勢いと気配に圧倒されてその言葉の意味を考えていなかったなと気が付いた。我ながらのんきなことだと苦笑いした。でも、苦笑いの店じまいも終わらぬうちに、考えてもその意味が分からないことに思いが至った。
早紀がどういう気持ちでその言葉を僕にぶつけたか分からないなんて、言わずもがなだった。
それから、日常のエアスポットのようなちょっとした空き時間に、僕は呟くようになった。
「穴を探して、穴を掘る」
そしてその度に、僕はそれこそ、穴を探して穴を掘っているような気になるのだ。
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