ぽっかりと
心の中にぽっかりと大きな穴が開くというのはこういう感じなんだなと初めて実感した。
その穴の存在に私は恐れを抱いた。それでも、どうしてもそこに何があるのかを知りたくて手を突っ込んだ。だが大きく動かして探りを入れても指先は何にも触れずどこにも届かず、ただかき乱された空気で胸の奥がひんやりとしただけだった。
まさか和樹の存在が自分にとって、こんなに大きなものだったなんて思ってもみなかった。いや、思ってもみなかったのは、和樹の方から別れを告げられることの方か。
そのどちらが正解なのかは分からなかったが、男性との付き合い方を見直すべきなのは間違いなかった。とにかくプライドが高く素直になれない。自分でも分かっている。分かっているからこそ余計にそのことがストレスになって、あたりが強くなる。
こんなかわいげがない女とむしろ3年もよく付き合ってくれたものだと、和樹には感謝すべきなのだろう。せめて最後くらいは、あんな捨て台詞じゃなくて、ありがとうと伝えれば良かった。
抑えきれず小さくため息をついた。
「どうかした?」
顔を上げると、おねだりをする小型犬のように絵美がテーブル越しに身を乗り出してきていた。
「ああ、ごめんごめん。それで何の話だったっけ?」
「何の話って、しっかりしてよ。だから今言った通り、ほら、その・・・、あれ?何の話だったっけ・・・」
そう言うと、絵美は私を責めることなくアハハと笑った。
絵美は学生時代からの友だちだ。神経質な私とお気楽な絵美、性格は正反対だし同じ趣味もない。それなのに何故か気が合って、社会人になった今でも都合が合えばこうして時々食事をする。
いや正直に言えば、私が絵美を必要とするときに私たちは会って食事をする。そして、私の中では恵美を必要とするシチュエーションと言うのが決まっている。それは私がただ時間を消費したい時、何も考えずに誰かと一緒にいたい時だ。
私にとって友だちと言うのは、ただ単に仲が良いというだけではなくて、お互いに何らかの学びや刺激を受けることが出来る相手、関係のことだ。実際、絵美以外の友だちはみんなその条件に適っている。
だけど、絵美と一緒にいて私が何かを学んだことなんて一度もない。その意味で、私は絵美を友だちだとは思っていない。ただ、絵美が美味しそうに食事しながら楽しそうに話をしているのを見ていると、そこに中身なんかなくても、それだけで私は癒される。
だから、すべてを忘れ何も考えたくないそんな時、私は絵美に声を掛ける。
こんな考え方はもちろん間違っている。絵美に申し訳ないと思うし、結局後から自己嫌悪にも陥ってしまうのだ。それでも、私はSOSを止めることが出来ない。そしてその夜もまた、絵美は何も気づかずに久しぶりの私の誘いを喜んで付き合ってくれていた。
「韓流ドラマの推しとか、そんな話じゃなかったっけ?」
いかにも絵美がしそうな話題を適当にあげてみた。そうであったらという希望でもあった。全く興味ない韓国人のイケメンの話で絵美が私の心の穴を一時的にでも埋めてくれるのなら、それくらい気が楽なことはなかった。
「韓流ドラマ・・・、そういわれてみればそうだった気もするけど・・・」
「うん、そうだよ。だって新しく見始めたドラマが面白いってLINEにも書いてたし」
「うーん、そうだったかな・・・。あっ!そうだ思い出した!違った!韓流ドラマじゃなかった!」
「あっ、そうか。それでどんな話だった?」
さすがに引き出しの少ない絵美といえど、適当な答えが一発で正解すると思うのは甘かった。それでも、どんな絵美の話題であっても私が興味を持つ可能性は極めて低かったので、大勢に影響はないはずだった。
「歯の話だった」
「歯の話?ホワイトニングとかそういうやつ?」
「ううん、詰め物」
「詰め物ぉ?」
意外な展開に思わずちょっと興味があるトーンがこぼれ出た。
「そう、詰め物。この間、コンパの途中で歯の間に挟まったチキンが気になったから、お手洗いでフロスを使ってチキンを取ってたら、チキンと一緒に詰め物まで取れちゃったっていうところまで話したんだった」
「あ、ああそうだったね・・・」
思い浮かべるとシュールな場面に、思わず絵美の口元に目が行った。
「それでここからが本題なんだけど」
「えっ、本題があるの!?チキンと一緒に詰め物が取れて面白かったっていう話じゃなくて?」
「もちろんあるよ。ここからが由美に聞いてほしかったところ」
「へ、へえ。そうなんだ・・・」
せっかく割と面白い話で終わりかけたのにここから中身の薄い本題に入っていくなんて、ことごとくセンスがないなと思った。それは本題ですらないに違いないのだ。このまま終わるより絵美の株が上がることなど百パーセントなかったが、まあそれも私にとってはどうでも良い話だった。
もちろんそんなことなど知る由もない絵美は、いかにもここからが本題ですよと言わんばかりに、さらに声のトーンを上げて続けた。
「それがさ、詰め物が取れると、そこを舌で触りたくなるじゃない」
「うん、それはたしかに」
「で、その穴ってすごく大きく感じるよね」
「それも、分かる」
「その穴ってどれくらい大きいんだろうって、すごく気になってスマホで写真撮ってみたんだけど、何枚撮っても暗くて良い写真が撮れなくてさ。結構真剣に悩んでたんだけど、ふと気が付いたんだよね」
「気が付いたって何に?」
「取れた詰め物を見たら穴のサイズが分かるって」
「なるほど」
真面目に話を聞いていなかったことを差し引いても不覚にも納得させられた。しかもここからさらに絵美の話は展開した。
「で、詰め物を見てびっくりしたの」
「びっくり?」
「うん、詰め物さ、すごく小さかったの。それで思ったんだよね、分からないから大きく感じてただけで、実際にはその穴も対して大きくなかったんだって」
絵美は私と和樹が付き合っていたことすら知らない。だから別れたことも同じくだ。いわんや、和樹との別れが私の心にの中にぽっかりと穴をあけたなんてをや、だ。
だけど絵美の言葉は私に響いた。いや、だからこそ絵美の言葉は私の心に響いた。
そうか、目を背けることなく向き合って自分の目できちんと確認すれば、実際にはちっぽけな穴かもしれなかったんだ。いや、ちっぽけな穴でなかったとしても、私はそれを確認すべきだったんだ。
そして自分で自分を笑った。私いま、絵美からすごい大事なことを学んだ。
「ありがとう」
「え?」
今回はきちんとありがとうが伝えられた。
私の突然の感謝の表明に、鳩が豆鉄砲ならぬワンちゃんが水鉄砲をくらったようなきょとんとした表情を浮かべた。その表情で二倍すっきりした。
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