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マイナーイシュー

 白壁で統一されたいかにも瀟洒な建物の前に立ち、茂野春樹は「白過ぎる歯と一緒で、豪華過ぎる歯医者は胡散臭い」と思った。

 三日前にデンタルフロスで歯に挟まった鶏肉を取っていたら、鶏肉が取れずに歯の詰め物が取れた。そのままにしておくと食事がしづらかったし詰め物が取れるのはその歯が虫歯になっている可能性が高いと以前に歯科医から言われたことがあったので、その週末に治療することに決めて予定を調整した。

 万事にめんどくさがり屋で、結婚して五年になる妻の律子からも文句を言われることが多い春樹であるが、こと歯に関してだけは子供の頃の虫歯の痛みがトラウマになっていてメンテの手間を惜しまない。

 しかも最近の歯科治療は昔と比べると全くと言って良いほど痛くないので、歯に不安を感じたらすぐ歯医者というのが徹底されている。

 歯医者を利用するたびに治療技術の改善に感謝の念を抱く春樹であるが、それと同時に別の感情も思い浮かぶ。それは、かつてのあの拷問のような治療はなんだったんだろうという純粋な疑問だ。

 もちろん機器の進化というのはあるだろうが、それを差し引いても酷すぎた。

 その差があまりに大きすぎるために、昔の歯医者はわざと痛く治療していたんじゃないかと被害妄想的な考えが頭をもたげる。そして、そんな時に必ず春樹が思い出すのは、患者を痛めつけることを目的にした黒歯科医一派とそれに対抗する白歯科医一派の戦いを描いた漫画のことだ。

 その漫画は子供の頃に読んだもちろんフィクションのギャグマンガだった。だが、実際に起きている現象を目のあたりにすると、その戦いは現実で、黒歯科医一派の目を免れながら世間に警告を発するために作者がコミカルな漫画を装ったのではないかと、春樹の考えはそこまで及ぶのだ。

 幸いなことに、春樹の行きつけの歯医者では黒歯科医一派のことを心配する必要はなかった。駅前の商店街の一角にあるその歯医者は長く地元に根付いており、父親の跡を継いだ女医先生は、まだ若いが腕がたしかで人柄も良く、この人は決して黒歯科医一派ではないと春樹も安心して口を開くことができるからだ。

 歯の詰め物が取れたとき、今回も当然そこを予約しようと次の日に春樹は会社帰りに立ち寄った。だが歯医者は閉まっていて入り口の扉には、新婚旅行のため一週間休診しますと書かれた張り紙が貼ってあった。

 春樹は衝撃を受けた。それが新婚旅行のせいで予約ができないからなのか、先生の結婚によって既婚者の罪も害もないひそかなトキメキが失われてしまったからなのかは春樹にも分からなかったが、とにかく衝撃を受けた。

 いずれにせよ、他の歯医者を探さないといけなかった。

 ところがいざ予約しようとすると、近場の歯医者ことごとく一杯で予約が取れなかった。近所にそれだけたくさんの歯医者があったことにも驚かされたが、ようやく予約が取れたのは13軒目の歯医者のことだった。

 からその歯医者の予約が取れた時はホッとした。

 ホッとしたが、その一方でどうしてこの歯医者だけは予約が取れたのだろうかと気になった。グーグルマップで調べるとその歯医者は駅の反対側の高級住宅地の中にあった。距離はそれほど離れていないが、春樹の日常生活から言えば別世界だった。

 あんなところに歯医者が・・・?

 結局、簡単に予約が取れる高級住宅地に潜む歯医者に対しての疑念は取り除かれないまま治療当日を迎えることになった。

 これまで足を踏み入れたことが無かった庶民とは縁がない住宅地に萎縮しながら恐る恐る足を踏み入れた。週末にしては背伸びして着てきたビジネスカジュアルさえこのエリアでは浮いて見えるんじゃないかと心配しながら歩を進めた。

 そしてその先に白壁の豪邸歯医者が現れたというわけだ。

 怪しさがいや増した。黒歯医者なら白壁の建物には住まないだろうと無理矢理自分に言い聞かせないと、前に進めないほどだった。何とか、一歩足を進めて、それでも二歩目が出せなくて玄関の前に立ち尽くした。

 簡単には決心がつきそうになかった。それでも良いと思った。慌てて間違った結論を出すのではなく、ここは熟考するべきだ。そう考えた春樹の目の前で、音もなく自動ドアが開いた。受付の女性と目が合った。

 女性がニッコリと笑って会釈した。歯医者に入るしか選択肢はなかった。

「先生すぐ来られるので、少しお待ちくださいね」

 受付の女性に案内されて入った治療室もまた白で統一されていた。内装までかと一瞬ウっとなりかけたが、そう言えば歯医者のインテリアと言うものは大概使途で統一されていたなとすぐに思い直した。ただ、治療台はいつもの歯医者のそれよりもずっとふかふかしているように感じた。

 白衣を着た男性が甲高い声を上げながら部屋に入ってきたのは、どうにも腰の収まりが悪くモゾモゾしつつ、春樹の心の準備がまだできていない時だった。

「大変お待たせしました。本日担当させていただきます院長の小松崎です」

 春樹に覆いかぶさるように挨拶し、力強く春樹の手を握って握手した小松崎は建物や着衣とは対照的に真っ黒に日焼けしていた。黒歯科医とか関係なく、ただ胡散臭かった。

「はあ・・・。よろしく、お願いします」

 まな板の上の鯉って言うのはこういうことなんだな、と思いながら観念したように春樹を口を開いた。

 結論から言えば、治療は丁寧で手際も良かった。治療中にペラペラと自分の近況をしゃべり続けるのはまるでホストのようで胡散臭いイメージそのものだったが、それもまあサービス精神からくるものと考えられなくもなかった。

 治療が終わる頃には、春樹は小松崎は黒歯科医一派でないという結論に達していた。ただ、次の治療の前に駅前の女医先生が新婚旅行から帰ってきてくれることを強く願う気持ちに変わりはなかった。

 とりあえず、無事帰れる。春樹がそう安心したその時だった。

「茂野さんは歯ぎしりされるんじゃないですか?」

 いかにも自然な感じで小松崎が切り出した。

「あ、分かりますか?」

「だいぶ奥歯が削れてますから」

「直した方が良いのは分かってるんですけど、マウスピースを作るのがめんどくさくて、つい。虫歯とかと違って今いま問題があるわけでもないし」

 実は以前に女医先生にも指摘されていた。というか、ずっと奥さんからイビキと合わせクレームを受けていた。

「マウスピースだと5,000円くらいですぐ作れますよ。ただ、やっぱり気持ち良くないので続かないんですよね。こんなこと歯科医が言ったら駄目なんですけど、私も三日坊主でした」

 マウスピースを売りつけられるのかと身構えたが、そうではなかった。自分の失敗談を笑顔で話す小松崎に少し心を許しかけた。

 そのタイミングを見透かしたように、小松崎が声を落とした。

「いま、私たち歯科医の間で流行ってるボトックスて言う治療法があるんです」

「ボトックス?」

「歯ぎしりって顎の奥の筋肉が引き起こすんですけど、その筋肉を弛緩させる注射を打つんです」

「弛緩させるんですか!?」

「はい、1万5千円で効果は半年ほどなんですけど、すごく楽だし効果大ですよ」

 明らかに口調が歯科医のそれと言うより、テレビショッピングのトーンだった。ついに本性を現したと春樹の直感が告げた。

「それって副作用とかないんですか?」

「ありますよ」

 このまま押し切られて弛緩剤を注射されてはたまらないと、時間稼ぎのつもりで取り敢えず口にした質問だったが、小松崎はあっさりとその存在を認めた。

「えっ、あるんですか!?」

「ええ。まあ、治療効果と比較すれば大したことじゃないですけど」

「ちなみにそれって・・・?」

「筋肉が弛緩するのでお肉が噛みきれなくなるんです」

「お肉が!?」

 言葉にこそしなかったが、どう考えてもそれは副作用のマイナスの方が大きいだろうと心の中で突っ込んだ。

 予めそんな反応も想定していたのか、小松崎は正真正銘こともなさげに付け足した。

「いやでもまあ、高くて柔らかいお肉を買えば良いだけなので」

 小松崎の日焼けした笑顔の口元で、治療用照明の光を受けて真っ白な歯がきらりと光った。


***********************

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