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春うらら

 その日は久し振りに営業先からの直帰だった。夕方の時間帯の駅前は、明るさよりも奥様方を中心とした買い物客でごった返すその雰囲気のせいで、見慣れた夜の帰宅時の風景とまるで違って見えた。

 花見の季節は終わったが、春の気配が心地良かった。商店街を抜けてあちらこちらの夕食の匂いを嗅ぎながらゆっくりと歩いて家に帰ると、どうやら我が家の奥様も夕食の材料の買い出しに行っているらしく、道路に面した台所の窓には明かりがついていなかった。

 ただいまを言わずに玄関の扉を開けて家に入った。

 誰もいないだろうと思っていたら、大学生の娘の千尋の部屋から明かりが漏れていて、音楽が聞こえてきていた。珍しく早く帰ってきているなと思いながら、洗面所で手洗いうがいをしていると、もっと珍しいことに向こうの方から寄ってきた。

「なんだお父さんか」

 ニヤニヤ笑っていたので、大方小遣いの催促か何かだろうかと思っていたら、小遣いの督促ですらなくただの人違いだった。

「お母さん探してるの?」

「そうだったんだけど、まあお父さんでもいいや」

「なに?」

 散々な言われ方だと思いながらも、娘との会話と言う場面の貴重さに気にしないことにした。

「さっきめっちゃ笑えるもの見てさ」

「良いことを教えようか?」

「なに?」

「笑える話をするときは、笑える話だって言わない方が良い、ハードルが上がって笑える話も笑えなくなる」

「いやいや。そのイントロも含めての笑える話なんじゃない。って言うか、友達とだったらこの時点で相手も笑い始めてるから」

「なるほど。で、どんな話?」

 桂枝雀の落語の定番のまくらに、若い女性はお箸が転がったのを見ただけで笑うというのがあったなと思い出した。

「私さっき図書館に本を返しに行ってたの。で、帰りに宅急便の営業所に寄ってメルカリで売れた商品を発送しようと思って環八沿いの道を歩いてたんだけど、前の幼稚園ぐらいの女の子と男の子の姉弟がケンケンパしてたんだよね」

 懐かしい響きに千尋がまだ小さかった頃に近所の公園でケンケンパをして遊んでいた風景が重なって目頭がちょっと熱くなった。話の腰を折りたくなかったし、歳を取ったとも思われたくなかったので鼻頭を掻く振り振りで誤魔化した。

「うん。それで?」

「ケンケンパは可愛いんだけど遅いんだよね。しかもちょうどその辺りって道が狭くって。でもまあ急いでもないし良いかって思いながら後ろをついて行ってたんだけど、ふと通りの反対側を見たらさぁ、」

「うん」

「なんと、中年のおばさんがおんなじようにケンケンパしてたの」

 頭の中でそのシーンを思い出したのか、千尋は本当に可笑しそうだった。話としては大した話じゃなかったが、ビジュアル的に面白かったのだろう。それは良く分かった。

 ただ、うまくその場面を思い浮かべることが出来なかった。確認したいこともいくつかあった。

「それ本当にケンケンパ?そんな風に見えただけじゃなくて?たとえば小石か何かが入って、片足で立って靴の中から取り出そうとしてたとか」

「ううん、間違いない。正真正銘のケンケンパ。だって止まってたわけじゃなくて、ケンケンパケンケンパって感じで何回も繰り返して、それで前に進んでたし」

「じゃあ、中年のおばさんっていうのは見間違いで、若い女の子がふざけて遊んでたとか。それならまだあり得そうだけど」

「離れてたし後ろ姿だったから何歳くらいってところまでは分からないけど、中年のおばさんだったってことは間違いない。そういうのって顔とか見なくても服装とか雰囲気で分かるじゃない」

 千尋の言葉に嘘はなさそうだった。そして、必死になって説明している千尋を見ていると、その目に浮かんでいる光景が私にも見えてくるような気がした。

 ケンケンパで買い物に行く中年のおばさん。モーセの十戒で海が割れたように、おばさんに道を譲る他の買い物客たち。なんか人生の機微を感じた。それがまた面白かった。

「たしかに笑えるかも。まあ春だし、そういう浮かれポンチが出てくるんだろうな」

「でしょ。だってそれがウチのお母さんだって想像してみてよ。それは超浮かれポンチだし、超笑えるでしょ」

 と言って自分で想像したのだろう、千尋はまたこらえきれないという風に笑った。

「まあ、お母さんの場合、なくもなさそうっていうのが怖いけどな」

「まさか、それはさすがにない・・・」

 千尋と私の間を流れた不穏な空気を打ち破ったのは、ガチャリという玄関のドアが開く音とそれに続いたいかにも楽しそうな声だった。

「いやあ、大変だったのよ。途中で右足が攣っちゃって、痛くて歩けないの。仕方ないからケンケンパでスーパーまで行って買い物してきたわよ。しかも利き足じゃなくて左足でよ。すごくない?」

 いかにも自慢な嫁さんの大声の報告に、顔を引きつらせて声を絞り出すように千尋が言った。

「ごめん。やっぱり笑えなかった」


***********************

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